とある子爵の時祷書 その10
机の上に置かれたA4サイズの一冊の本を見た僕の率直な感想は「綺麗な時祷書という本ですね」
「そうだろう、世界で最も美しい本『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』にも匹敵する逸品だ」
真淵さんは白い布手袋のフィット感を直しながら説明してくれた。
時祷書とは、修道院で伝えられた礼拝について書かれた聖務日課書を短く編纂した中世装飾写本。
祈祷文や詩編、賛歌、暦などを集成し、本文に合わせた挿絵をつけてローマ・カトリック教会の教徒としての信仰・祈り・日々の暮らしの手引きとして編集したものである。
時祷書の始まりは1300年前後と言われ、世界一有名な時祷書『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』は15世紀に作られた物で、現在はフランス・シャンティイ城にあるコンデ美術館附属図書館に非公開で所蔵されている。
この時代、書物を所有できる者はごく一部に限られ、そのため制作依頼者の意見を尊重した形で作成され、各人が趣向をこらし私的なものとして作成されることが多かった。
ベリー公の時祷書がなぜ『世界で最も美しい本』と称されるのか。
それは彩り溢れる挿絵の魅力に、人々の心が惹きつけられたからである。
随所に使われている鮮やかな青色は、中近東付近で採掘されたラピスラズリの鉱石を砕いて絵の具を作り、一度乾いてしまうと塗り直しができないため、当時の最高の技術が求められた。
また、赤色にはスペインにする昆虫コチニールの色素から。
深みのある黒色は、アフリカ象の象牙を焼いた炭から作られた。
金も惜しげもなく使われ、こうして世界中から集められた材料を元に、ベリー公の時祷書は生まれたのである。
それを聞いたヨハンさんは、原材料だけでも金貨百枚は必要だろうと声のトーンを一段高く上げ言った。
「ヨハン殿、この時祷書もたいへん素晴らしいものだよ。この緻密な線画に、声を出して読むのも憚れる流るる言葉の数々。控え目ながらもどこか存在感のある挿絵。そしてなんと言っても、本全体のカラーである、この深い緑色と黄金のコントラストがいい」
美術素人の僕にでもわかる。
この本の華麗さが。
「もし可能であれば、持ち帰りたいくらいだ。売る気はまったくないが、値段を付けるとすればそうだな…………山手線沿線内にマンション、マンション一棟くらいだろうか」
「マンション一室ではなく――、一棟ですか……」
このA4サイズの本一冊とマンション一棟が同価値……。
「真淵様、こちらでいうところの、いかほどになりますか?」
「物価や紙幣価値、衣食住に大きな違いがあるから正確には言えないが、辺境伯爵の城なら三冊もあれば建てられるだろう」
「おお、それはすごい!」
「歴史的価値が大きな要因であることを、付け加えておく。それにしても、何度見ても華麗だ」
真淵さんから聞いた内容を僕的にかみ砕いて言えば時祷書とは、祈りの言葉や、主を讃える詩もいいね~。
この月には聖人の誕生日があるよー。
季節によって変わる農民の暮らしぶりも紹介しちゃうよー。
で、無茶苦茶大金を使って一点モノの超々豪華なカレンダー的な本を作っちゃうぞ! 的なものみたい。
ふいに真淵さんが口にした言葉について訊ねた。
「以前、見たことがあるのですか?」
「ああ、前回来たときにこの本と出会ってね。そのときからいろいろと調べているのさ」
「調べる?」
真淵さんは偽装したバックの中からホチキスで留められたA4サイズの枡目の入った紙束を取り出し、机の上に一枚一枚広げた。
「真淵様、これはあのとき模写したアレにございますか?」
「そうだ。向こうの世界でいろいろと手を加えているが、この千歳緑の時祷書を一字一句模写したものだ」
「チトセミドリ?」
「千歳緑の時祷書とは、真淵様がお付けになられた名にございます。実はこの時祷書には呼び名がなかったのです」
白い布手袋をはめて一ページずつめくりながら真淵さんは説明してくれた。
千歳緑とは、濃い緑色のことを指し『千歳』とあるように、いつまでも変わらず緑の葉をつける松の葉の色を指し、千年変わらない緑色という意味が込められた良色であると。
「なぜ呼び名がなかったのか、それは……最後に話そう」
そう言うと模写した紙に書かれた文章を指でなぞりながら「水野君は多少ラテン語を読めるからわかるだろう、ここに書かれている内容がどういったものか」
真淵さんにご指名された水野さんはその一枚を手に取ると、なにかつぶやきながら読み始めた。
いつもかけているメガネではなく、コンタクトレンズのせいかピントが合わないみたいで、眉間に皺を寄せてじっと見つめた。
「所々わからない語彙や言い回しがあり正確にはわかりませんが、1月に行なわれる行事の紹介と、福音書からの引用、聖母へ捧げる言葉が綴られていますが、なにか違和感を感じます」
「ふむ。ではこちらはどうかな?」
手渡された一枚をじっと見つめること約一分、即座になにか違和感があると言った。
真淵さんは数ミリ伸びた不精髭をスリスリしながら三枚目を手渡し「この三枚が起点となる。わかるかな?」
水野さんは首を傾げ、違和感があるのはわかるけど、起点!?と言われるものは私にはわからないと告げた。
「ではでは、桃乃ちゃんと村上君、そしてヨハン殿は、どうかな?」
机に並べられたA4サイズの模写三枚。
食い入るように見てみるも、僕には意味不明なラテン語という言語が書かれているだけでさっぱりわからない。
ヨハンさんはスラスラと読み上げるもどこに違和感があるのか、そして起点!?なるものはわからないと言った。
「桃乃ちゃんはどうかな?」
いつもの髪型、お団子頭を左右に揺らしながらなにか感じ取っている!?よう。
「んー、ヤバイ雰囲気がビンビンにくるでござるよぅ」
「そっちかぁいー」
ツッコミを入れた僕にプッと笑う水野さんと真淵さん。
「桃乃さん、ヤバイ雰囲気ってなんです?」
「ほいほい、アレと同じですよ。門と」
「門?」
その言葉に一番反応したのは真淵さんだった。
「桃乃ちゃん。門とはやらは、美術館の正面右手にあるロダン作の……地獄の門のことだね」
「そうなりよー」
「やはりそうか……」
「真淵様、そして皆様。申し訳ございません。私めにも理解できるよう、お話して頂ければうれしく思います」
真淵さんはスマンと一言、ヨハンさんに謝りを入れると偽装されたバックの中から二本の蛍光ペンを取り出した。
「順番に話そう、まずは水野君が抱いた違和感からだ」
そう言って三枚の紙の文章にピンク色で色を付け始めた。
「この発色はいつ見ても綺麗ですな。この世界では到底表現できる色ではございません」
目をまん丸に見開きペン先を見つめるヨハンさん。
蛍光ペン一本でこれだけ驚かれるのだから、壊れず電子機器を持ってくることができたらきっとすごいことになると思う。
異世界チートって、やっぱりあるんだ。
真淵さんがピンク色でなぞった部分それは、どこも文中にある空白ばかりで、とくに文章の最後の折り返し部分に多く見られた。
「これが水野君の感じた違和感。もしかしたら、桃乃ちゃんと村上君ならわかるかもしれないよ」
ヨハン殿にはきっとわからないとも付け加えた。
ふいにテーブルの端を持って後ろに仰け反る水野さん、どうやらなにか発見できたみたい。
文字の読めない僕と桃乃さんなら発見できるかもしれないけど、文字の読めるヨハンさんには発見できないこと、なんだろう?
「真淵様の仰る通り、私めにはこの色の塗られた意味も、意図も理解できない……」
「この世界の住人であるヨハン殿には理解し難いかもしれない」
真淵さんは補足として三つのことを言った。
1)この模写は枡目入りの紙に、シャープペンと定規で下書きをして、その後精密ボールペンで墨入れ。
2)ただ文字や挿絵を模写するのではなく、空白や文間、行間、改行まで数ミリ単位で正確に模写。
3)スキャナを使いPCへ取り込み、そして分析。
「これらはこの世界では到底不可能。しかし、なんのことはない簡単なレトリックがいくつも隠れている。村上君と桃乃ちゃんはネットで様々なサイトを見るだろう、なら話は簡単だ」
むむ、なんだろう?
レトリック?
しかも簡単な?
ネット?
サイト?
むむ?
「あーっ! そういうことなの!?」
桃乃さんも気づいたみたい。
桃乃さんと水野さんは互いに顔を見合わせ、深くうなずいた。
むーん、なんだろう?
「村上君、ネットで某掲示板とか見ることあるよね?」
「某掲示板? うん、まとめサイトとか見ることあるよ」
「なら話は早いわ」
「はむ?」
「所々、文中に不自然な空白がある。そこにペンで色付け、なにかわからないかな?」
「空白?」
「文の最初になにが来ると思う?」
「最初?」
「意図した文字が選択可能……」
「えっ! そういうことなの!?」
「そういう、ことなの……」
ラテン語を読めない僕でさえわかった。
水野さんが感じた違和感とはこれのことだった。
僕がわかってしまって明らかに焦り気味のヨハンさんは、首を傾げ何度も唸っている。
「答え合わせだ」
真淵さんは黄色の蛍光ペンで文章の冒頭から下へ、縦に一本の線を引いた。
「ヨハン殿、黄色で引いた箇所を読んでみてくれ。声に出さずに」
「声を出さずにですか?」
「そうだ」
紙を手に取り見つめるヨハンさん。
「こっこれは!!」
「私たちの世界では珍しくもない遊びの一種の縦読みメッセージ。だがこちらの世界では話が違う。第一、文章を縦に読む文化がない」
「なんということでしょうか……。こんなことが隠されていたなんて……。では残りの二枚にも縦読みメッセージが書いてあるのですね!」
驚きを隠せないヨハンさんの顔を見ながら、コクリとうなずく真淵さん。
「この九行目の一文は『新年の明けから数え 六日目は厳かなる 聖人の~』とあるが、二つの空白が見られる。もしここを埋めて文字を続けて書くと『~聖人の聖誕祭』までが一行となる。つまり『Holy Birthday』の『H』が文の冒頭にくるように、わざと空白が入った一文が書かれているのだよ」
なるほど。
僕は聞いた。
なんて書いてあるのかと。
「……それを口にすることはできない。なぜなら、読み上げた者に災いが降りかかる文言が書かれているから」
「それは呪詛の類でしょうか」
水野さんの返答に真淵さんはなにも言わず、ただ黙ってうなずいた。