とある子爵の時祷書 その1 ※じとうしょ
君は、運命というものを信じるかい?
真淵さんの何気ない一言に僕はなにも答えられなかった。
まず第一に『運命』という雲をつかむような、あやふやなもの自体がよくわからない。
なんとなく『こんなものかなー』という程度。
『桃乃さんとの出会いは運命的なものだ』とすれば『出会うべくして出会った』というのが『運命的』なものかなと考える。
が、その考えすら正解なのか間違いなのか、僕にはわからない。
「私、真淵は、桃乃ちゃんに運命的なものを感じるよ。それは、君や水野君に対してもそうだ」
「僕や水野さんに対してもですか?」
「そうだ」
真淵さんは短くそう言い切ると立ち上がり「村上君、見たまえ。この眼下に広がる壮大な街並みを。これほど素晴らしい経験を、そう易々と出来るものだろうか。否、いくら大金を積まれようとも、たとえ世界屈指の富豪といえど不可能。それを、平凡な一介の市民が経験できることはまさに奇跡、そして運命を感じるよ、私は」と、興奮気味にひと通り話すと両手を広げ、深い深呼吸をした。
二人して小高い丘の上から、眼下に広がる中世ヨーロッパの街並みを見ていた。
いま僕たち四人がお邪魔しているのはとある絵画の中。
遠くに鋭い山脈が連なり、なんでもスイスの風景だそうで、その手前に三階建てくらいの高さの街壁に囲まれた中世ヨーロッパの街並みが見える。
パッと見、東京のお台場エリアくらいかな?
屋根材は統一したように赤茶けた西洋瓦で、まさにテレビの旅行番組で見かけるヨーロッパの風景そのもの。
そこから徒歩で十分くらいのところにこの小高い丘があって、二人してなにをするわけでもなく、ただ眺めていた。
「もうすぐお昼だ。帰ってくるころかな?」
「もうそんな時間ですか」
「失念していたよ、修道院だから男子禁制ということを」
僕たちの後ろ徒歩五分くらいのところに修道院が建っていて、桃乃さんと水野さんの二人がいま、赴いている。
訪れる理由は、物々交換のため。
砂糖と胡椒を各五百グラムずつ、紅茶の茶葉を二缶、それにオリーブオイルを1リッター。
異世界モノ、あるあるですな。
以外にもオリーブオイルが大変貴重とかで、特別な日や政のときに使うそうで身体に塗ったりするそう。
この世界にニンニクとオリーブオイルたっぷりのペペロンチーノとか持ってきたら、ひと財産できそうな予感。
対してあちらが提供するものは、この世界で使えるお金(硬貨)と情報。
真淵さん曰く、硬貨はあくまでおまけ。
情報のほうに重点がおかれ、本当はそちらだけでもいいんだけど、それだと怪しまれるため『あくまで硬貨で足りない分を、情報で補う』という形にしているとのこと。
知りたい情報に関しては、メモ書きした紙を二人に渡してあるのでスムーズにことが運ぶようになっている。
「真淵さん、いくつか質問をしてもいいでしょうか?」
「いいよ」
こういうときは素直になるのが一番と、思うようになった。
あとになって後悔しないためにも。
1、ここには何度か訪れたことがあるのでしょうか?
2、そのときは桃乃さんに頼らずに、どうやってきましたか?
3、なにか目的があるのでしょうか?
4、言葉とか通じるのですか?
5、元の世界に無事に、帰れますよね……。
6、なぜに水野さん経由で連絡を?
です。
うなずきながら最後まで聞くと「簡明に説明しよう。ここには三回お邪魔している。この絵画の中に入るには、とある貴重な触媒を使い入る。『目的』見聞を広めるためさ。『言葉』この絵画は問題ない」
ひと呼吸を置いて、さらに言った。
「もちろん、無事に帰れる。私の経験からすると骨折をした場合、元の世界に戻ると強い捻挫程度になっていた。ただ、捻挫とは思えないほどの痛みを味わったよ。怪我の状態が変化するようだ」
的を得た表現!?ではないけど、どこかで聞いたことがある。
『難しい内容を難しく説明するのは三流。難しい内容をわかりやすくかつ丁寧に説明できるのは二流。難しい内容を、相手が難しい内容と気づかないように説明できるのが一流』
もちろん真淵さんは三番目。
もし僕が『説明しろ』と言われたら、こうもわかりやすく相手に伝えることはまず無理。
それに、聞いてすぐにも答えられない。
「おっと、最後の6が抜けたね。水野君の連絡先しか知らなくてね。1~5の詳しい内容を知りたければ、説明するよ」
「僕と桃乃さんの連絡先、教えていませんでした……、すみません。と、わかりやすい説明、ありがとうございます。では『とある貴重な触媒を──』とはなにか秘伝の薬とか、想像上の物、例えばミスリルやアダマンタイトみたいなものを使い、絵の中にお邪魔すると」
「いや、普通に地球に存在する物質で、とあるレアアースさ」
「レアアース?」
「そう、聞いたことがあるだろう、物によっては金よりも値段の張る貴重な資源」
なんとなく聞いたことがあります。
「おーい、無事に取り引き終わりましたよぅ」
修道院の敷地境界線の柵のところから桃乃さんの声。
「続きはまた今度」
そう言って真淵さんは立ち上がり、お尻についた葉っぱを手で払い桃乃さんたちに手を振った。
真淵さんが準備してくれた衣服は、こちらの世界観に合わせて作ってくれた農民の上級バージョン版とか。
僕と真淵さんは、まさに映画に登場するような灰色のシャツに焦げ茶色した作業ズボン、ともにゴワゴワで重くて硬くて、化学洗剤の香りを消すため若干臭い。
桃乃さんと水野さんも似たような灰色のシャツと、赤茶けた色のロングスカートの出で立ち。
全員、顔の表情を極力隠すため枯れた草木で編んだ農民帽を深く被り、麻で編んだ袋を一つずつ背負っている。
それと土を顔や首筋、手首、髪の毛にも擦り付け『擬似的汚れ』をいい感じで演出。
「村上くーん、パンと蜂蜜もらったよー。みんなで食べようねー」
桃乃さんの大声に釣られ水野さんもそこそこのボリュームで声を飛ばしてきた。
「村上君、こちらのパンはライ麦のパンで手ごわいぞ」
「どんな風に手ごわいのでしょうか?」
「びっくりするくらいカッチカチやぞ」
右腕を左腕で叩きながらカッチカチを説明する真淵さん、ちょっとお茶目。
◆◇◆◇◆◇
「歩きながら聞いてほしい。齟齬がないよう、もう一度最初から説明するよ」
僕たち三人はウンウンとうなずいた。
1、裏路地に入らない。
2、西地区には絶対いかない。
3、はぐれたときは、大通り広場の銅像前で待機。
4、私の前を歩くこと。
「つい忘れがちになるかもしれないが、必ず私の前を歩くように」
なんでも大人の後ろを歩いていると、細い路地からスゥッと手が伸びてきて口をふさぎ、そのまま人さらいに連れていかれてしまうと……。
なんとも怖い話しです。
「なにかあったら女子二人は痴漢撃退スプレーを躊躇なく使うように」
身震いする水野さんの横で桃乃さんは「大丈夫―、相手が倒れるまで吸っちゃうから」と、ニコニコしながら答え、それを聞いた真淵さんは予備用としてもう一個、痴漢撃退スプレーを水野さんに渡した。
いま、水野さんはトレードマーク的な黒縁メガネをかけていない。
なんでもこの時代にメガネはないとかで、コンタクトレンズに切り換えてもらった。
「真淵さん、パンと蜂蜜にこんな使い方があるなんて、教科書にも歴史書にも書いてありませんでした」
「このような些細なことは後世には伝わらないものだよ。前回来たときに私もはじめて知ったのだから」
さきほど修道院でもらった小振りなメロンサイズのライ麦パンと蜂蜜を入れた小さな壺を大切に小脇に抱え、水野さんはさらに言った。
「修道院の院長様は言っていました。祈りの期間が明けたなら、ぜひ訊ねて来てほしいと」
「それに関しては月日の関係上、いま時点ではなんともいえないな」
ちょうどいま、修道院の慣例とかでごく一部の身分を除いて、男性と口を聞いてはいけない期間中でそれは修道院の敷地境界線の柵の外側でも適応され、それで女子二人にお使いを頼んだと。
「それではみなさん、街壁前の検問所の門番の顔の表情がもうすぐわかるところまで来た。緊張せず、ただ大人に従う物知らずな農民の子供たちの演技、期待しているよ」
僕たち三人は同時にうなずいた。