六月上旬、美術館と僕たち その9
「怪我もなく無事でなによりです。また来てくださいね」
ファミレスの店長さんはそう言って僕たちに、系列店で使える三万円分相当のお食事券をくれた。
今回のスリップからのお店突撃事故、幸いにも怪我をした人はいなくて、運転をしていたお年を召したおじいちゃんも軽い捻挫程度ですんだ。
「梅雨時期の影響で今月、多いのですよこういった事故。この管内だけでも今月に入って五件目、事故処理になれました」
僕たちのケアにあたってくれた新人警察官さんは肩をすくめて寂しそうに、そうつぶやいた。
「お気をつけて」
警察官さんは小さく敬礼して、僕たちを見送ってくれた。
「よし、これで大義名分の元、店内改装の申請ができるぞ」
「ではさっそく手配を致します、オーナー」
隣でちょっとうれしそうなオーナーと店長さんの会話を小耳に入れてしまい(大人って汚い)って思うも、なにはともあれ誰も怪我なくすんで良かったと思います、はい。
ファミレスの関係者さんたちと別れ僕たちは駅のほうへ歩きはじめ、先生は寄り道せずに真っ直ぐ家に帰るようにと口を尖らせ何度も告げた。
先生は僕の両手から自分の紙袋二つを取り上げると言った。
「水野に、ちゃんとお礼を言っておくんだぞぉ」
「はっはい!?」
「『村上君を信じてあげて下さい』と、児童相談所に通報されるような案件に手を染めていないと言ってくれたんだ」
水野さんは先生のほうを見て小さくコクリと、うなずいた。
「それと今日ここでクラスの生徒二人に会ったことは、内緒にしておくから安心して。それじゃ明日、学校で」
手をブンブン振って先生はJR御徒町駅構内の改札口へ消えていった。
先生が最後に口にした言葉、きっと僕と水野さんが付き合っていると勘違いをして言ってくれたんだろう。
「村上君、いろいろあったけどみんな無事でよかったね。それに桃乃ちゃんのこともなんとかなったし、ひと安心だね」
「うっうん……、ありがとう。水野さん」
「いえいえ、それよりさっきから桃乃ちゃん、元気がないみたいだけどどうしたの?」
「大丈夫だよー。ちょっと人混みに酔っただけ。そのぉ……、ありがと……」
足をモジモジさせながらそれだけ口にすると黙ってしまった。
「水野さん、そろそろご両親の車が到着するころかな?」
「あっと、もうそんな時間。本当は家の近くまで乗せていきたいけどパパが変な勘違いをするかもしれなくて、送ってあげられなくてごめんね」
「大丈夫だよ。二人でのんびり帰るから安心して」
遠くのほうから水野さんを呼ぶ男の人の声。
「んもー、心配性なんだからー。もう行くね……。それじゃまた明日学校で」
水野さんは小走りに声の方へと走っていった。
とつとつと、降り出す雨。
アメ横商店街のどこかのお店が午後五時を告げる鐘の音を鳴らしている。
桃乃さんは空を見上げ「雨、降ってきちゃったね」
僕もビルの隙間から見える小さな空を見上げ「ああ、降ってきちゃったね」
いきなりの雨にJR御徒町駅前は急いで帰宅する人の流れができて、立ちつくす僕たちはちょっと邪魔なよう、慌てて道路の端に移動。
六月なのに冷雨。
足元から底冷えしてくる。
「帰ろっか」
返事はない。
ふいに僕のシャツの裾をつかむ小さな指先。
「桃乃さん、疲れましたか?」
うつむいたままなにも言わない桃乃さん。
お団子頭が寂しそうに揺れている。
「桃乃さんっ。僕たちの、おうちに、帰ろう」
「……うん!」
ぱぁっと明るく返事をしてくれた。
けど、どこか空元気。
それでも僕の心は救われたような気がする。
救われた!?
なにに対して救われたのだろう。
自分でもよくわからない。
なぜこんなことを、考えるのかさえわからない。
モヤモヤしたなにかが堂々巡りで心をかき乱す。
苦しい。
このモヤモヤした気持ちを吹き飛ばしたい。
どうやって?
理由もよくわからないモノをどうやって?
「佑凛お兄ちゃん、どうしたの?」
心配そうに僕の顔を覗きこんでくる。
桃乃さん、昨日から今日にかけていろいろありすぎて自分のことで精一杯のはずなのに心配してくれる。
本当は僕がしっかりしないといけないのに、いつも桃乃さんに救われてばかりで情けない自分に凹むばかり。
この性格、一生治らないのかなと思ってしまう。
こんなことをいつもいつも考えしまう。
悩める小羊ではなく、悩みすぎる小羊かな。
メェ。
メェメェ……。
うーん。
うーん、うーん。
ぼんやりだけど、ふと思いついた。
いつも考えてしまうなら、考えてしまえば?
うまくまとまらないけど、いいかもしれない。
かっこよく、さらっと、物事を運べなくても、いま自分にできることをやってみたらいいかもしれない。
いつもありがとね。
心のなかでそっとつぶやく。
シャツの裾をつかむ指先にそっと手を添える僕。
「はぅっ」
ちょっと驚く桃乃さん、かわいい。
僕の視線を感じたのか目を合わせてきて、小さな指先が僕の人指し指をギュッと握って「温かいホットココアと、膝枕してほしいなぁ」
「いいでござんすよ、もものたん!」
「たん!?」
「たん……です」
プッと笑う桃乃さん。
釣られて僕もプッと笑う。
とつとつと降り出した六月の雨は、ビルもお店も道も人もみな透明な膜に覆っていってそれは一切の例外を許すことなく、ただ静かに包んでいった。
◆◇◆◇◆◇
雨音、跳ねる人もまばらな電車の車内、僕たちに会話はない。
けど、ギュッと握った手から体温の違いを感じているだけで僕は幸せ。
桃乃さんも同じ気持ちだったら、うれしいなぁ。
僕の指先より少しひんやりしている桃乃さんの指先、少しでも温めてあげようとやさしくふんわりと包む努力をしてみる。
こんなことしかできない僕。
つい考えてしまう。
桃乃さんの横にいるにふさわしい人間なのかと──。
彼女はこの世界において、とても稀有な存在。
その横に、この世界においてとても平凡で特技も特徴もない存在の自分がいて、いいのか。
もし世界が知ったなら、きっと世界は許さないだろう。
僕の心はゆれる。
手を握るだけで幸せを感じるも次の瞬間、ゲームでいうところの低ステータスの自分の存在に心が沈む。
砂浜に押し寄せる波のように、何度も何度も繰り返し揺らぐちっぽけな心。
そう、いまの僕にできることそれは、そんな矮小な存在と心を隠して桃乃さんと接していくことだけ。
でも、でもでも──それでもいいかもしれない。
いまの自分にできることを精一杯やっているのだから『後悔はない』──とはいえないけど、後悔は少ないと思う。
これからも何度も何度も何度も、こんなことを考えると思うしきっと考える。
でも、それでもいいんだ。
考えたって。
凹むことがあっても情けないことがあっても、それが自分なんだから。
かっこよく、さらっと、物事を運べなくても、いま自分にできることをやっていこう。
『ご乗車、誠にありがとうございます。まもなく──』
あと三駅で地元につく。
ずっとこのままどこまでも、雨降る景色を電車内から二人で眺めながら手を握っていたい。