六月上旬、美術館と僕たち その5
「本日は遠路はるばるお越しいただき、誠に有り難うございます」
黒いタキシードを着た紳士はそれだけを言うと、深々とお辞儀をしてきた。
「わたくし、執事のGと申します。アルファベットのGが発音でございます。村上様、以後お見知りおき下さい」
「あっ、はい。村上といいます……」
僕も釣られてお辞儀。
「さて、なにから話せば良いのか迷うところですが、まずは当家の主に御挨拶のほう、何卒宜しくお願い致します。こちらになります」
執事のGさんはそれだけ言うとドアを開け廊下に出た。
僕の意志に反して勝手に足が進み出し、なにかに操られている感覚が身体に広がりただただ、後を付いていく。
薄暗い廊下を進み階段を上がっていく執事Gさんにつられ僕も階段に足をかける。
「村上様、歩きながらで結構ですので聞いて下さい」
執事のGさんは穏やかな口調で言った。
今宵は主が親しい友人達に声をかけ、集まった者たちだけでささやかな宴を庭先にて開いていると。
とくに注意事項などもございませんので、気を楽にしてお過ごし下さいとも。
「一つ申し上げるとすれば、飲み過ぎには注意して頂ければ結構です。さて、到着にございます。おっと、忘れておりました」
執事Gさんはポケットから白い手袋を取り出し両手に付けながら、廊下の突き当たりのドアの前で立ち止まった。
そしてドアをノック。
「村上様をお連れ致しました」
ドアの向こうから女の人の声で短く「入って」
「失礼致します」
ギィ……、と木のきしむ音をたてながらドアを開けると僕に恭しくお辞儀をして、室内に入るよう目で合図を送ってきた。
足が無意識に動き、吸い込まれるように進んでいく。
心に不安や恐れはない
魔法にかかっているのかな?
そんなことを考える余裕すらある。
壁に掛けられたいくつかの照明は鈍い橙色のレトロな光を放ち、弱々しい光が学校の教室くらいある広い室内を照らしている。
ぼんやり見える調度品はどれも古めかしく、映画やアニメに登場するような雰囲気。
ふいに背後でドアの閉まる音。
「村上様、当家の主、A様にございます」
薄暗い室内の奥、テーブル越しに椅子に座る髪の長い女の人、Aさんが「近くにいらして──」と口にすると、僕は足を進めていないのになぜかいつの間にかテーブルの前に立っていて、向こうから室内が近づいてきたような感じで、さらにAさんが視線を椅子に向けると僕は無意識のままに座った。
テーブルを挟んで向かい合い、自然と僕の視線はAさんに向かう。
深い緑色の長いドレスを着ていて、黒い長髪をゆるやかに肩に垂らし優雅に微笑みながら「お初にお目にかかります、Aと申します。今宵は、よしなに」と。
年齢は二十代前半~中盤くらい!?
照明の関係で肌が橙色に見えるけど、太陽の下で見るときっと白い肌だと思う。
細い眉に柔らかい二重の瞼。
そして、全体的にふんわりした雰囲気とは対照的に、真っ赤な口紅を塗った唇。
なんとなく、なんとなくだけど背伸びをしているように感じる。理由は、着ているドレスが大人びていて、なんとなく似合わないように見える。それに、真っ赤すぎる口紅も不釣り合いのように思えるからだ。
「どうされました、村上様?」
やさしく微笑みながら首をひねるAさん。
「あっと、とくになんでもないです……」
「そうですか……。もし、なにかあるようでしたら、どのようなことでもよろしいのでお聞かせ願いますか」
考え込む僕。
なにもないわけじゃない、あることにはある。でもそれを言っていいのか迷う。
「えーと……」
「はい」
僕は素直に、簡潔に、言った。
いきなりこのようなことになったのに、どうしてか心に『不安』や『恐れ』『心配ごと』がないと。最初からなかったように、ぽっかりと空いた穴のように、まるでないと。
「それでしたら、私どもが預かっているからです」
「預かっている?」
「はい、ここに」
執事Gさんは無言で右側に足を進め、壁にかけてあるキャンプ用品で見かけるような傘の付いたクラシックなランプ型照明を一つ外すと、慎重に運びながら僕とAさんとの間のテーブルの上に置いた。
丸いガラス管の中、弱々しい光を放っている。
「これが先程、村上様が仰った、不安、恐れ、心配ごとになります」
「えーと、どういうことでしょうか?」
「そのままの意味になります。ここに三要素があり、あなた様から隔離をしてこのランプの中で煌々と灯を紡ぎ出しているのでございます」
「つまり、その、鈍く光るその元は、僕の中から取り出したモノが栄養!?、成分!?、燃料!?で、それはもしかしたら戻すこともできるのですか? もし戻したら、すごーく不安になるということでしょうか?」
「はい、その通りになりますね。どうされます? 戻されますか?」
僕は首を横にブンブン振ってそのままでいいと伝えた。
「ほかには、なにかありますか?」
大人びた声で尋ねてくる。
その問いに対して僕は言った。
いろいろ聞きたいことがあると。
「いろいろですか……。でしたら、こちらからその『いろいろとやら』をお話しましょう」
僕の質問内容も聞かずにいったい何がわかるというのだろう。疑心暗鬼の視線をグイグイ送ってみるも『コホン』と咳払い一つで一蹴。
そしてゆったりと余裕をみせながら口を開いた。
「まず最初に村上様、あなた様は怪我一つなく無事に元の世界にお帰りになられますことを、私が保証致します。いま、あなた様がいるこの世界は壁にかけられていた一枚の絵画の中、そして私達は絵画の中で生き長らえる住人」
Aさんは一呼吸つくとさらに「私達の名がなぜアルファベットなのか──、気になっていると存じます。それは……、予定にはない想定外の事柄が起こり、身の保証を鑑みまして伏せさせて頂きました。『いろいろとお聞きしたい内容』の方、いかがで宜しゅうございますか」
「あっ、はい……。ありがとうこざいます」
口元を抑えプッと笑うAさんと、隣に立つ執事Gさんもつられて小さな笑みをみせた。
「村上様のこと、私は好きですよ。素直なところ」
かぁーっと顔が火照るのが自分でもわかる。
なにか言いたい気持ちがあるけど、それがいったいなんなのか自分でもよくわからなく、頭の中にモヤモヤした霧のようなものがあって邪魔をしているみたいに感じる。
「お嬢様、あちら方で動きがあったようです」
「あら、そうですか……。お早い対応のようですね。村上様、先程申し上げました想定外の事柄、どうやら現実味を帯びてきました。お名残惜しいですが本日の所はこれにてお帰り頂くことに、ご了承願い致します。Gや、村上様にお二つともお返しになって」
「かしこまりました」
執事Gさんは短くそれだけ口にすると、先ほど見せた僕の不安などが光るランプを手にとるとガラス窓を開けそのまま中に手を入れて光をつかみ、空中へ投げた。
鈍く光るその塊はふわふわと漂いながらこっちへ向かって来て、ひと息つく間もなく僕の胸の中へ入っていった。
「あぁっ!」
一瞬にして胸が苦しむ。
「もう一つお返し致します」
執事のGさんはもう一つの鈍く光る塊を空中へ、そして僕の胸の中へ溶け込んできた。
「ぁっ!」
脂汗が額に滲み、立ち眩みが襲ってきて立っていられなくなり、片膝を付くと同時に不安と恐れ、恐怖が感情を占めつつあるなか思い出した、桃乃さんのことを。
それと水野さんと真淵さんのことも。
たしか水野さんは元の世界に残されたはず。
こっちには二人が来ているはず。
こちらで汗をお拭き下さいと一枚の白いハンカチを差し出すAさん。
「そうです。もう一つの光の塊は、他の人物を一時忘れさせるために取り出したものにございます。そちらもお返し致しました」
事後報告になり、少々気分がすぐれないかもと付け加えてきた。
「お嬢様が責任を持って元の世界へお戻しになりますゆえ、胸の内が苦しゅうともどうか目をお瞑りになって下さいまし。では、また。ごきげんよう──」
ギュッと強く目を閉じた瞬間、意識が薄れていくのがわかった。
Aさんがなにか呪文めいたことを言っているのが聞こえるも、なぜかその声はとても若々しい、幼い女の子の声。
薄れゆく意識のなか、背後から抱きしめられる感覚があった。
メモ書き20210209修正 名前変更。樹→佑凛