六月上旬、美術館と僕たち その3
どこかで読んだ記憶がある。
『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった──』
その一文が脳裏に浮かんだ。
そして僕は目を覚ました。
「佑凛お兄ちゃん、大丈夫?」
心配そうに僕を見下ろす桃乃さんのほっぺたは、どこかツヤツヤ肌でぷるんぷるんしていて「ちょっと吸いすぎたみたい……」そう言いながら僕の手をとり、ギュッと握った。
どうやら僕は簡易ベッドに寝せられていて、薄い毛布を一枚かけられていた。
軽く室内を見回すと六畳程度の部屋で、左にドア、右手側には小さな小窓に、ソファーにテーブル、机に書類棚がある程度。
簡素な会議室みたい。
桃乃さんの背後に視線を移すと、真淵さんと受付にいた女性の姿があった。
「どうやら村上君は軽い貧血を起こしたようだね。もう少し安静にしていたほうがいいかな?」
真淵さんはそう言って横にいる女性に声をかけた。
「脈拍、目の瞳孔、体温、ほか、いたって正常値になります。村上様、一つお聞き致しますが、朝食のほうは食べられましたか?」
「はい、食パンを一枚とほかに少しだけ」
「そうですか……。やはり空腹からくる立ち眩み、そして目眩、意識が不明瞭に──でしょうか。もうしばらく安静にすると良いと考えます」
「こういった時、元看護士の君がいて本当に助かる。村上君にかわってお礼を言わせてほしい。有り難う」
受付の女性は深々と真淵さんにお辞儀をして、僕たちにも一礼をした。
そしてそのまま棚に置いてあるコンビニのビニール袋を手に取ると、テーブルの上に置いた。
「栄養補助食品に、吸収の良い飲み物を何点か見繕ってきました。ほかの子たちの分もありますので、召し上がってください」
「なにからなにまで、すまないね。本当に有り難う」
「お役に立ててうれしく思います。私は受付に戻りますが、もし容体が急変しましたら、いつでもお呼びください」
受付の女性はそう言い残し、一礼をして部屋を出ていった。
「村上君、たいへんな役回り、有り難う」
僕はベッドから起き上がり、背中を壁にもたれかけ言った。
いつものことですからと。
目を覚ますとただ単にお腹が空いているだけですからとも、付け加えた。
「ああっ、その感覚、懐かしいな。私も幼少の頃、桃乃ちゃんに吸われて何度か気を失ったことがあるからわかるよ」
「真淵さんもあるのですか?」
真淵さんは苦笑いをしながら、桃乃さんのおでこをツンと突いた。
「えー、だって真淵さんも全力で吸っていいって、言ったよー」
「そうだったね、桃乃ちゃん」
真淵さんと桃乃さんは二人、目を合わせて笑っていた。
端から見ると仲の良い、おじさんとその孫のような雰囲気。
なにかがはじまるわけでもないけど、なんだろう、なんだか心がキュッとする。
「村上君、もう大丈夫なの?」
ふいに水野さんの声。
ベッドの左側に立ち、心配そうに見つめる水野さんの姿があり、どこか落ち着かない様子。
「はい、大丈夫ですよ水野さん。ただちょっと意識が遠のいただけですから」
「あの、ふわっとした感覚ね」
「えっ!、水野君も体験をされたのですか?」
驚きの表情を隠すことなく真淵さんは、水野さんに今一度問い正した。
なぜ君が体験したのかと。
「はい、以前、私も吸われて意識が──。村上君の自宅内でしたので騒ぎにはなりませんでした」
「そうですか……」
真淵さん、水野さん、そして僕、みんなの視線は一点に集中した。
集まる視線の先、目をキョロキョロさせ視線が泳ぐ桃乃さんの姿。
「なによぅ……」
口をツンと尖らせ下を向き、なにか口にしているけど声が小さくて聞こえない。
「んっ、とね……」
パンッ……
真淵さんは軽く手を叩くと全員の視線を自分に向けさせ「そろそろ本題へ入りましょうか」そう言って壁に掛けてある一枚の絵画を見るよう、うながした。
白いレース生地がかかり中は見えないけど、二十インチくらいの液晶テレビサイズの絵画が掛けているのがわかる。
僕の勘違いかもしれないけど、真淵さんは話題を反らして、桃乃さんに助け船を出したような気がする。
なんとなくだけど、そう思う。
僕も同じことができたか──。
否。
たぶん、できなかったと思う。
ちょっとした心遣いができるか、できないか──それが僕と真淵さんとの差なのかもしれない。
この差は大きいとも、感じてしまう……。
「真淵さん、布地の先にある絵画が問題の一枚なのですね」
水野さんは、白いレースが掛かっていてぼんやり見える程度の絵画に鼻先が付きそうなほど顔を近づけると「なにも感じ取ることができません。真淵さんと桃乃ちゃんは、なにか感じるのですか?」そう言って二人を交互に見た。
「……」
「……」
しかし二人はなにも言わない。
真淵さんは無言で机に向かうと、引き出しから『会議中・連絡は受付通し』と書かれたプレートを手に取るとドアを開け、ドアノブにかけた。
「この絵は、さる元華族が注文をして描かせた作品。時代は大正から昭和初期頃。様々なコレクターを渡り、ここにいたる。以上がこの作品の紹介」
真淵さんはさらに言った。
事前に情報を得ずに、直感でこの絵を見てほしいと。
そして白いレース生地に手をかけると、するりと取り去りポケットに入れた。