六月上旬、美術館と僕たち その2
昼のランチはこの子たちと食べるから、その旨を伝えておいてくれ。それと、アポ無しの客人には臨機応変に対応で、館長不在と伝えてもらってもかまわない」
「かしこまりました。客人への対応は、相手方の出方を見極め対応致します。また、本日の予定ですが、先程、秘書の方から来月の頭に変更したいと連絡がありました」
「そうなるとわかっていたよ」
細い眼鏡をかけた、まさに『やり手の秘書』オーラを出す学芸員さんは一礼をすると会議室を後にした。
「私たちのために時間を割いて、本当によろしいのですか?」
「問題ないよ、水野君。誠実さに欠けた客人には其れ相応の受け答えで接客。それに、今日予定していた会議は先方さんの都合でキャンセル。問題ない」
「そうですか……」
なにか引っ掛かる様子の水野さん。
「どうしたのですか、水野君?」
「じつは、一昨日読んだ雑誌の記事によりますと真淵さんは一日、二十六時間働く男と紹介されており、それほどお忙しい館長の立場を考えますと……」
「ああ、あの記事は、私に取り入ろうとする出版社の下心が丸見えで、なかなか面白い記事だったよ。下書きの時点では『一日、三十時間働く男』だったんだよ」
プッと笑う水野さん。
僕も釣られて笑ってしまった。
「役職になると、様々な理由で私に寄ってくる者たちがいる。今日は元大臣と会食の予定が入っていた。しかしキャンセル。理由は単純で昨日の夜、別の党と合併する案が発表されたから」
真淵さんは苦笑いしながら、眉毛をつり上げおどけてみせた。
それに釣られて僕たちも苦笑い。
「では、そろそろ館内を案内します。私に付いてきてください」
そう言って会議室のドアを開けた。
美術館前で待ち合わせした後、館内に入るも真淵さんの部下が何件か連絡したいことがあると、小さな会議室に通され、連絡事項はたったいま終わり会議室の外に出た。
偉い役職に付くといろいろなしがらみがあることを、知った。
僕にはまったく縁の無い世界であり、大人になってもきっと縁がないと思う。
改めて真淵さんはすごい人なんだと思った。
「ねぇねぇ、真淵さん。人があんまりいないね」
真淵さんのスーツの裾をつまみ、話しかける桃乃さんの言うとおり、ほとんどお客さんがいなく、貸し切りに近い状態。
「ああ、それは先月まで開催されていた展覧会が終了して、今月から二ヶ月間は次の展覧会への準備で、イベントがないからだね。それに、梅雨時期が影響していて、この時期はいつも来場者が減る傾向にあるんだよ」
「そうなんだー」
「そうなんですよ、桃乃ちゃん」
歩きながら真淵さんはさらに話した。
これから向かう所は常設展、常時作品を展示し鑑賞してもらうエリアで、十四世紀から二十世紀までの西洋絵画と彫刻が約六十点あり、宗教、神話、風景画、シュルレアリズム、等々、多種多彩な作品が一堂に会する日本屈指の常設展とのこと。
「桃乃ちゃん、君にしかできないことをお願いする」
真淵さんは周囲を軽く見回し、コホンと咳を一つすると、今度は小さな声で言った。
常設展の入り口を抜けると彫刻エリア。そして左手奥に絵画エリアに向かう階段があり、階段の踊り場で桃乃ちゃん、村上君の首筋に噛み付いて欲しいと。
倒れた村上君をルームナンバー5に搬送する。
その部屋に入ることが今日の目的。
「桃乃ちゃん、頼んだよ」
「まかせて、真淵さん!」
えーと、僕に拒否権はない──のね。
「村上君、いい演技を期待しているね」
水野さんまで……。
立ち止まる真淵さん。
真淵さんの正面に常設展への入り口があり、横のカウンター内の受付嬢が深々とお辞儀をしてきた。
「お話は聞いております真淵館長。音声案内ガイド機材と作品図録を三セット用意してあります」
「有り難う。準備してもらって申し訳ないが、私が音声ガイドの役目をしてみようと思う。この子たちに案内人としての『良し悪し』の判断をお願いしようかと」
「まぁ、なんて贅沢な! しっ、失礼致しました」
受付嬢、つい本音を漏らしたみたいで焦っている。
「たしかに館長自らとは贅沢と言わざるおえないな。しかし、案内がその贅沢とやらに相応しい内容かは、これからこの子たちに審判を仰ぐとするよ。先月の、お偉い先生には適当な作品紹介をしても、まったく気づかれることなく、満足して帰っていった。しかし今日のお客様は目が肥えている。きちんと解説をしなくては」
口元に手を当て笑いを隠そうとする受付嬢。
「先に、これから失言することをお許し下さい。あれは、中々興味深い内容でした。学芸員の間でも噂になり、あの内容を、そのまま三十分程度の音声ガイドにしてみてはと言う者もおりました」
「それは面白いな。今度情報整理室の課長と話し合ってみるよ」
またも口元に手を当て笑いを隠そうとする受付嬢。
「冗談はここまで。では、お客様。これより、当館が誇る西洋絵画の作品を十分にご堪能下さいまし」
そういって真淵さんは胸に手を添え、僕たちに深々とお辞儀をししてきた。
カウンターの先、彫刻エリアが広がっていて、その脇に二階へ通じる階段が見える。
壁に隠れて見えないけど、たぶんあの辺りが階段の踊り場。
「桃乃さん、お兄ちゃんからお願いがあるの。吸い過ぎは、よくないと思う……」
「あたしはいつでも、全力投球がモットーなのー」
「会議室で真淵さんも言っていたよ。臨機応変に対応することが大切だよって」
「そうなの真淵さん?」
桃乃さんは首をかしげ、真淵さんに可愛らしい仕草を見せた。
「桃乃ちゃん、村上君の言う通りだよ。臨機応変に対応すべきだね」
「了解しましたー」
「全力で、逝っていいと思うよ」
グハッ!
後ろで盛大にずっこける水野さんの姿。
横に目を向けると、いったいなにを話しているのか分からず、苦笑いを浮かべる受付嬢の姿があった。
「では、ご案内致します」
真淵さんはそう言って今一度、深々とお辞儀をした。
僕にはこの入り口が、地獄の門に思える。
桃乃さん、吸い過ぎはよくないですよ──。
私事にてかなり間が開きました。
最後までいきたいです