六月上旬、美術館と僕たち その1
前日の、金曜の夜から降り出した雨は止む気配をみせず、土日ともに雨の予報。
六月に入ったばかりの小雨は寒さも絡み、足元から底冷えする。
僕たちはいま、国立西洋美術所蔵館正面左手にある休憩用ベンチに腰掛け、館長の真淵明さんが来るのを待っていた。
土曜日の午前中なのに天候不順のせいで、ベンチに座るのは僕たち三人しかいない。
「遅いね、真淵さん……」
桃乃さんはベンチに座り、両足を左右に揺らしながらそうつぶやいた。
紺色のオーバーオールに白い厚めのシャツを内に着て、薄桃色の防水ハーフコートを羽織る桃乃さんの出で立ちは、教育番組に登場するアイドルみたいでかわいい。
桃乃さんは真淵明さんのことを『明ちゃん』そう呼んでいた。
だけど真淵さんの立場を考え『真淵さん』そう呼んだほうがいいと伝えたら、あっさり了承してくれた。
桃乃さん、昨日の夜からずっと素直で大人しい。
今日の朝も水野さんにきちんと礼儀正しく挨拶をして、電車内でも大人しく、ハラハラさせる場面は一切ない。
「村上君、真淵さんからメールが来たよ。あと五分くらいで来れるって」
「了解で」
雨ということで水野さんも動きやすい紺色のジーンズに、白い長袖のシャツを着て、小さな肩掛けバックを背中に。
僕も紺色のジーンズに、地味な灰色系のチェック柄の長袖シャツ。
水野さんは館内の休憩所に設置してある紙コップ用自動販売機で温かい飲み物を買ってきてくれ、桃乃さんに一つ手渡した。
「お姉ちゃんホットココア、ありがとう……」
「いえいえ。今日は少し寒いから温かい飲み物が美味しいね」
「だね」
紙コップから微かな湯気が上がり、二人の頬をほんのり包む。
ココアの香りが僕の鼻をくすぐる。
甘く、そしてふんわりしたやさしい香り。
無理してコーヒーにしないで、僕もココアにすればよかった。
二人のやりとりを見ていると、どこにでもいる仲の良い姉妹にしか見えない。
つらつら降る小雨を背景に、ベンチに座る姉妹。
絵になりますわー。
同人誌でこんなシチュエーションの漫画があったなぁ……。
桃乃さんに見つからないように、屋根裏の一番奥に『衣類』と書いたダンボールの中に入れたはず。
たしか似たような雰囲気の同人誌を数冊買った覚えがある。
僕の記憶が間違いでなければ、姉妹モノだったような……。
あとで確認してみよう。
うん、確認する必要がある。
姉妹という存在、一人っ子の僕にはまったく縁のない世界かと思っていたら……。なんだろう、この贅沢感。
幸せって、こんなにも身近にあるものなのね。それも、向こうからコロコロと転がってくるとは。
「佑凛お兄ちゃん、さっきからどうしたの?」
「村上君、ぼぉーっとしちゃって、なにか考えごと?」
「いっ、いや、とくになんでもないよ!」
やばい、すぐに自分の妄想の世界に入ってしまう。
この癖、直さないといけないなぁ……。
「ハハハッ、男は時として決断する勇気が必要なんだよ」
振り返るとグレー色のスーツ姿の真淵さんが立っていた。
「みんな待たせてすまないね。急な来客があってね」
「館長という立場ですもの、お忙しくて当然かと。本日は、お招き有り難うございます」
深々と頭を下げる水野さんを見て、僕も慌ててお辞儀。
桃乃さんを見ると、にっこり微笑んでいた。
「真淵でいいよ、水野君」
「そうですか。では真淵さん先程の、男は決断する勇気が──とはなんでしょうか?」
「男だからではないが、至極簡単に言えば、決断の先延ばしはあまり良い結果を生まないのだよ。歴史が証明しているようにね」
「なるほど。では、村上君の決断とはなんでしょう?」
「ハハハッ。若いというのは良いな。いつかわかるときがくるだろう」
僕を含め三人とも、頭にハテナマークがピョコンと浮き上がっている気がする。
「それより、雨に濡れ、鈍色に光る地獄の門は、いつもと違う表情を見せるだろう」
「ええ、乾いたブロンズでは見せない恍惚とした憂愁の表情は、まさに地獄へ惑う入口に相応しいですわ」
美術館正面右手側に、縦六メートルくらい、横四メートルくらいの黒々しいブロンズ製の門があり、装飾に様々な人々が苦悩の表情を浮かべながら重なり合っている。
作り手はあの『考える人』の彫刻で有名なオーギュスト・ロダン。
なんでもこの門は世界に七つしかなく、そのうちの一つとか。
美術素人の僕でも、この地獄の門を見た瞬間、感情が震えた。
迫力に圧倒される──まさにその言葉の意味する通り。
そして、黄泉の淵を覗いたような感覚とでも表現すればいいのだろうか、胸を締めつけられる感覚に襲われた。
「実は、あの門には秘密があるのだよ」
僕たちの周りには誰もいないけど、真淵さんは腰を折り、僕たちと視線の高さを同じにして、小声で静かに口を開いた。
時間にして二分程度。とある条件が重なると、子供が一人通れるくらいの隙間分、左手側の扉が開く。
中から呻き声と、なにかが這いずりまわる音、そしてクラシックのような曲が聞こえたそうだ。
それを見た者は『関わってはいけない事象』と、肌で感じたとも言っていた。ちなみに、門が開くとたっぷり鉄分を含んだ血の臭いが辺り一面に充満したとも聞いている」
水野さんは身を乗り出しなにか言いたそう。
「水野君はこういった話しが好きかな?」
大好きですと、鼻息荒く即答する水野さん。
「想像力豊かな素敵なお話ですね。機会があれば、ぜひ私も見てみたいものです」
「その場に──立ち会ってみたいと」
「はい」
二つ返事の水野さん。
「空想の世界と捉えるなら、それでもいい。でも……ただ、ひとつ言えることは、桃乃ちゃんの存在を加味しても、同じことが言えるかな?」
ぐっと一瞬、一歩身を引いてたじろぐ水野さん。
僕は三歩身を引いた。
「明ちゃ──、真淵さんが言うことはなんとなくだけど、本当のような気がする。だって、なにか違う空気を感じるの。それに、数日後に扉が開く気がするよ」
桃乃さんのその一言にフリーズする僕たち。
「……君たち、これから言うことは絶対に秘密にしてくれ、いいね」
「真淵さん、これら一連の虚妄ともとれる発言を館長たる役職の方が、外部の私たちにしてもよいのですか?」
「水野君、君は聡明で賢いね。シンプルに言えば、桃乃ちゃんの知り合いだから。もし、桃乃ちゃんがあの神社でいまも、ぐぅぐぅ昼寝をしていたなら、そしてこの場にいなかったら話はしない。その前に、私達は出会っていないだろうな」
クスリと笑う桃乃さん。
「理解、してくれたかね?」
ブンブンと首を縦に降る僕と水野さん。
「ここは国の所有する大切な作品が大量に所蔵されている。だから防犯に関しては最高レベルの装置類が何種類も使われている。しかし、ないんだ……。あの門の手前だけには防犯センサーが。なぜだかわかるかい?」
ゴクリと唾を飲む僕と水野さん。
「門が開いたとき、感知したんだよ、赤外線センサーが。それ以来、センサーと監視カメラは正面を避けて設置されているんだ……」
コンクリートの床にヒタヒタと垂れる雨音だけがこの場を支配し、となりにいる人の心臓の音が聞こえてきそうな雰囲気のなか「んー、この門と同じ空気を、こっちからも感じるよ」そう言って桃乃さんは、美術館の中を指さした。
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