火曜日の朝は突然に その1
今日の朝、僕は玄関先から聞こえるチャイムの音で目が覚めた。
リビングダイニングに寝床を作り、生活一式を持ち込み生活しているため玄関に近く、睡眠から覚ますには十分すぎる音に飛び起きた。
玄関を開けると制服姿の水野さんが立っていた。
長い髪を後ろで束ねて、少し大人びた髪型に僕の視線は釘付け。
挨拶もそこそこに水野さんは言った。
忘れ物を取りに来たと。
昨日の夕方の出来事を、どう話そうか混乱する僕の横から桃乃さんはひょいと顔を出すと、何食わぬ顔で水野さんに挨拶をした。
それに普通に挨拶をする水野さん。
「忘れ物ってこれでしょ?」
紙袋から水色の下着を取り出し、僕の目の前でパンツをビローンと広げて見せた。
慌てる水野さんを横目に「お姉ちゃんのことだから、もっとドギツイのかと思ったヨー」
その言葉にキッと睨む水野さん。
「遅刻しちゃうからすぐに着替えてくるね!」
それを言うだけが精一杯。
桃乃さんの首根っこをつかみ家に押し込み、リビングまで引っ張ってきて「いろいろ話したいことがあるのはわかるけど、いまは学校へ行くことが大切。だから大人しくしてね」
「ハーイ、大人しくしますー」
ツーンと澄ました顔でキッチンに入ると小さな手提げ袋を持ってきて、僕のカバンに押し込んだ。
「お弁当、作ったの。食べてね」
それだけ言うと「寝る!」そう言って寝床にもぐりこんだ。
お弁当を作ってくれたなんて初めて。
いつもコンビニや学食で済ましていた。
「ありがとう……」
さっき渡し損ねた下着入りの紙袋が僕のカバンの中に突っ込まれた。
「忘れ物、渡してね」
同じクラスの女子の下着が今、僕のカバンの中に……。
紙袋の中を覗いてみたい……っ、そんなことを考えてる場合じゃないぞ、自分!
素早く着替えをして、ドアの向こうで待つ水野さんに軽く挨拶。
「村上君、朝ご飯は食べたの?」
「コンビニでおにぎりでも買って食べるよ」
「寝過ごしたのね」
「うん、そういうことです」
まさかズル休みをするつもりで目覚まし時計をセットしなかったなんて、言えない。
僕は遅刻しちゃうから先を急ごうと、言った。
はい、いろいろな意味でこの場というか、雰囲気というか誤魔化したいことがたくさんある。
閑静な住宅街を抜ける小道は通勤時間帯なのに静か。
いつもはこの静けさが好きだけど、いまは逆に、人通り多く慌ただしい雰囲気であってほしいと願う。
で、予想通り、最寄り駅に向かう僕たちに言葉はない。
無言が続く。
これが普通だと思う。
昨日、今日の出来事を考えれば、和気あいあいに話が盛り上がるほうがおかしい。
でも、この状況を打破しなくちゃいけないこともわかってる。
「みっ水野さん、昨日はうちの桃乃が……。ごめん」
「ちょっと驚いたけど、本当に桃乃ちゃんは、人間ではなかったんだね」
「吸われても体に害とかなにも起きないから安心して。ただ、お腹が空く程度だから」
「そうなんだ」
水野さんはさらになにか言いたそう。
「えっと、さっき村上君は『うちの桃乃が……』って言ったけど、二人の関係は、そこそこの関係なの?……」
「そこそこの関係というのはよくわからないけど、栄養を吸う側と吸われる側──という関係かな」
とっさに桃乃って、言ったのは失敗。
「ふーん……」
それっきり水野さんはなにも言わなくなった。
無言で歩く緊張感に耐えられなくなった僕は、右手側にある小さな公園に寄ろうと言って誘い、入った園内には誰もいない。
ラッキー。
そして、わざとらしく思い出したようにカバンの中に手を入れ、紙袋を水野さんに渡した。
「桃乃さんが洗ってくれたみたい。僕はさわってないし、見ていないから……」
「ありがとう……」
さっき、自宅で見せた桃乃さんのように、水野さんもツーンと澄ました表情を僕に見せる。
またなにか言いたそうな雰囲気。
「ぼっ僕は玄関前でなにも見ていないし、記憶になにもないから……」
パンツを見たこと、怒っているよね……。
しょーもない弁解しか浮かばない。
「村上君、私はあなたに一つ言いたいことがあるの」
「はい……」
「あのね、私はいま怒っているの」
「えっ」
「すごーく怒っているの。わかる?」
「……」
「その理由を当てたら、許してあげてもいいよ」
えーと、いろいろなことがありすぎて、どれが原因かまったくわからない。
整理して考えてみる。
昨日は、生徒指導室内でいろいろあったけど、怒らすような要素はなかった。
そして、下校途中で寄った本屋を出た直後に通り雨に濡れるけど、無事に自宅にたどり着き、その後、水野さんはお風呂に入り、出た直後に桃乃さんに噛まれて二人して倒れて、目が覚めたら水野さんはいなくて、そして今日の朝も下着を見ただけだし……。
パンツを見たことを、やっぱり怒っているのかな……。
でも、あれは不可抗力な面もあるし……。
「わからないんだ……」
「……」
「ふーん」
「ごめん……」
「さっき玄関前で、私の……下着見た?」
「…………はい」
やっぱり原因は下着を見たこと。
素直に謝ろう。
「何色だった?」
「色?」
「そう、色……」
色といわれても淡い水色のパンツで、汚れもなかったようだし……。
「あーっ!」
昨日、水野さんは生徒指導室でバツを受けるからと、みずからスカートをたくし上げ、覗くように言った。
あのとき、黒い下着が見えたと僕は言った。
「村上君は、私に嘘をつきました。違う?」
「あっあれは、だって、同級生のパンツを覗くことなんて、そんなことやっちゃいけないことだし……」
「普通の男の子だったら喜んで見ると思う。でも村上君は見なかった。そんなところ、私は好き。でも、嘘をついたことに変わりはないわ」
水野さんはあのとき、僕の嘘に合わせてくれたんだ。
『昨日、デパートで買った下着だよ』って、僕の言葉に合わせて、僕が傷つかないようにその場を丸く収めてくれていたんだ。
「一つ。私のお願いを聞いてくれたら、許してあげる」
「僕にできることなら、なんでもするよ。嘘をついてごめん」
水野さんの目の前に立ち、僕は頭を下げた。
「約束だよ」
それだけ言うと遅刻しちゃうからと僕のカバンをひっぱり、先を急ごうとも言ってきた。
ふと空を見上げると澄んだ青空が広がっていた。
まるで水野さんのパンツ色。
僕はこの青空を忘れないだろう。
それに、一時だけど僕のカバンの中に同級生の、しかも上下の下着が入っていた事実を、僕は一生忘れないだろう。
んー、ちょっと待てよ。たしか水野さん自ら『黒い下着を身につけている──』みたいなことをどこかで言ったような気がする……。
メモ書き20210109修正