五月下旬の日曜日 その9 in 自宅
窓の向こう、夜が広がる。
ふいに目をさました僕はベッドの上、あぐらをかく。
網戸から入ってくる風は昼間と違い、やさしい小風。
時計の針は一時半を指していて、九時半頃にはベッドに入ったはずだから四時間くらい寝たみたい。
昨日は朝からゴタゴタして僕も彼女もかなり疲れた。
だから一人でぐっすり寝たかったけど、彼女はどうしても一緒に寝たいと僕のベッドのシーツにもぐり込み、出ようとしない。
「一緒に寝るの! もう決めたの!」
小さな子供のように足をバタバタして、それは僕が『一緒に寝よう』と言うまで続いた。
そんな桃乃さんはいま、となりで爆睡中。
めくれ上がったパジャマを整え、半開きになった口元に垂れる髪の毛を払い、髪を撫でてみるもまったく起きる気配がない。
相当、疲れたのだろう。
薄明かりのなか、どこまでも無防備な彼女を眺めながら、あの言葉を思い出す──。
夕暮れの中、地元の最寄り駅を降りると言った。
「明ちゃんの話した内容は真実……」
そして彼女は淡々と口を開いた。
彼に会うためだけに東京へ行ったわけではない。
デパートで偶然見たテレビに映っていたのは真淵さんと、もうひとつあるものが映っていた。
それは一枚の絵画。
その二つが彼女を慌てさせ、幽霊という秘密を第三者たる水野さんに知られるまでになった。
僕も水野さんもそれ以上、なにも聞かなかった。
そして、たわいもない適当な話が水野さんと別れるまで続いた。
いや、正確には違う……。
家に帰宅し、二人して就寝するまでずっと続いていた、たわいもない適当な話が。
僕は怖かった。
彼女の秘密を知ることが。
そして、僕はずっと勘違いしていたみたい。
桃乃さんという女の子の幽霊のとなりには、僕しかいない──そう思っていた。
それは、寂れた神社で初めて出会ったときからずっと、そう思ってきた。
しかしそれはまったく僕の勘違いであり、心のどこかでそう願っていた薄っぺらい願望でしかなかった。
真淵さんのことを聞かされたとき、心がキュッと苦しくなった。
僕以外に、親しくしていた人がいたことに。
上野公園のベンチに四人で座り話し合っていたとき、真淵さんの目を見ることがまったくできなかった。
うつむき、パンを食べながらこっそり彼を見る程度くらいしかできなかった。
水野さんが二人のために席を外してあげようと声をかけてくれなかったら、ただそこにいるだけの置物としての存在になっていた。
真淵さんはきっと心のなかでこう思っていた。
『なぜ桃乃ちゃんは、こんな冴えない男を選んだのか──。こんな男があの土地から引き離したというのか──。こんな男が彼女の運命を、命を握っているというのか──』
電車のなかでこっそりスマホで検索した真淵明さんの情報は、僕をがっつり凹ましてくれた。
都内の国立大学を卒業後、外務省に勤務し、EUになる前のG7当時にヨーロッパ数ヶ国で日本大使を勤め、五十歳を過ぎてからは国立の美術館館長に就任し活躍。
外交官時代に得た人脈により、EU内ではちょっと名の知れた日本人。
趣味で文筆活動もしていて、難しい専門書を何冊も発行している。
そう、いまの僕にはまったく縁のない世界。
第一、大学すら危うい。
高校卒業後、僕は働こうと思っている。
両親や姉には言っていない。
きっと反対するから。
そんな僕と、真淵さんを比較すると心底、惨めに感じてしまう。
人は人、他人は他人。
そう考えても、割り切れない。
もし、真淵さんを選んでいたなら幽霊としての彼女の人生は、まるっきり違うものになっていたに違いない。
良い意味で、かなり違うものになっていたと、思う。
要領の悪い、チビで女子っぽい、根暗な僕をなぜ、彼女は選んだのか。
「むーん……」
ふいに寝返りをする彼女。
スヤスヤと眠る彼女の頬を、軽く撫でてみる。
起きない。
「ねえ、桃乃さん……」
唇も軽く撫でてみる。
起きない。
「答えてください桃乃さん。あなたはなぜ、僕を選んだのですか?」
僕は卑怯な男です。
彼女の額にかかる髪の毛をはらいのけ、額にキスをする。
まったく起きる気配がない。
もう一度額にキス。
ぶちゅーっと。
「桃乃さん。僕は、気が狂いそうです。君を独り占めにしたい。僕のものだけにしたい。でも、君の幸せを考えると僕は単なる栄養分であり続けるべき──でしょうね……」
スヤスヤと眠る彼女は人形そのもの。
だから僕は面と向かって心の内に溜まった膿を吐き出す。
「君を、目茶苦茶にしていいですか? 僕の、性の捌け口にしてもいいですか? 僕だけを、見ていてほしい。僕のためだけに存在していて欲しい……」
なにも言うはずがない彼女の額に、もう一度キスをする。
寝よう。
明日は月曜日。
まぶたを閉じ睡魔に襲われるのに、一分もかからなかった……。
メモ書き20210109修正
メモ書き20210209修正 名前変更。樹→佑凛