五月下旬の日曜日 その5
「村上君、さっきの言葉はなにかな?」
水野さん、肩までかかる髪が小さく揺れている。
シックなチェック柄のスカートの裾も小さく揺れている。
「桃乃ちゃんに言った、さっきの言葉よ」
黒縁メガネの端が汗で曇っている。
ああ、相当怒っている。
「さっきの──言葉?」
恐る恐る内容を確認したら、どうもさらに火に油を注いだようで鬼の形相から、無の能面の形相に変わってしまった。
人は怒りを通り越すと冷静になるという……。
かなりやばいです。
どっどうしよう……。
「村上君は言ったよね。それは言い過ぎだよって」
「そっそれは、なんでもないよ。とくに気にしないで水野さん!」
「それは返答の答えになっていないわ」
「えーと……」
「佑凛お兄ぃーちゃん、ちょっとトイレにいってくるねー」
なにもなかったように、ツンと澄ました顔で僕たちの前を横切り、早歩きでトイレに向かう。
桃乃さん、見た目は小中学生だけど、中身は年を重ねた一人の女性なのかもしれない。
水野さんを手の上でコロコロ転がすその態度に、畏怖の念を覚える。
「村上君、あの子の前で言えなかったこと、聞くわ。どのくらいの関係──もったの?」
ほんの数分前まで目を合わせてくれなくて悩んでいたけど、いまはガンガン目を合わせてくれる。こっちが視線を反らしても黒縁メガネの奥から、ひたすら僕の瞳を追っかけてくる。
「関係って、とくになにもしていないよ……」
「ねぇ村上君、知ってる? あなたは嘘をつくとき、左の眉がちょっと持ち上がるの。知ってた?」
いえ、知りません。
たったいま知りました。
「ねぇ村上君、知ってる? 私が下着売り場のレジ前から、なかなか離れなかった理由はなぜか?」
いえ、知りません。
「売り場の店員さんにね『お知り合いですか?』と、聞かれたのよ」
「……」
「それにね、昨今の犯罪の性質を加味し、金銭的授受による関係ではないのか──と、いろいろと尋ねられたのよ」
この場から逃げたい……。
「でね、あの子、下着を身に付けていなかったそうじゃない。どうゆうこと?」
「いや、あの、その……」
「話を戻すね。あの子は村上君に懐いていて、一緒に下着を買いにくる間柄で、妹じゃない子で……。いっぱいいっぱい聞きたいこと、あるんだけど!」
僕をキッと睨み、ほかにもなにか言おうとしているよう。
けど、言葉にならないみたいで、口を震わせるばかり。
「一つだけ、教えて」
「一つ?」
「あの子のこと、どう思っているの?」
水野さんはそれだけ言うと、黙ってしまった。
どう思っているのか──。
返す言葉は二つしかない。
『好き』か『嫌い』かの二者選択。
僕は彼女を守ると誓った。
この場で『好き』といえば、彼女は引いてくれると思う。
でもそれじゃ、なんの解決にもならないような気がする。
深読みかもしれないけど、今後一緒に生活するうえで、彼女に不利な事案が発生するかもしれない。
僕の家族のことをよく知っているみたいだから、両親に連絡をとられたら……。
考えれば考えるほど、深みに足がはまっていく感覚が僕を襲う。
もう、考えるのやめようかなぁ……。
学校、やめて食わしてもらおうかなぁ。
「佑凛さん、お願い!」
なんの前触れも無く、僕たちの間に割って入ってきた桃乃さん。
「連れてってお願い! 東京へ!」
身振り手振り慌ただしく、なにかを伝えようとしている。
「お姉ちゃんとはここでバイバイ。行こ、東京!」
「桃乃さん、落ち着いて。深呼吸をしよう」
僕は彼女の両手を握り、落ち着くようにとなだめた。
「東京っていっても広いよ。どこに行きたいの?」
「東京! 上野! 美術館!」
速攻で返答。
「上野ですか……。来週じゃだめ?」
「だめ!」
「東京は、ビックサイトに行く電車しかわからないし、それにないの。お金が……」
シャツの内ポケットからお財布を取り出し、彼女の目の前でお財布を広げなかを見せた。
二千円と、小銭、JR電子マネーカードに数百円チャージがあるだけ。
桃乃さん、絶句。
ガクッと膝を床につき、そのままペタリと座り込む。
腰まである髪が床にふれてるけど、まったく気にしていない。
「どうしても行きたいの……」
声はうわずり、涙目になりながら体を揺らす。
「村上君、電車賃、貸してあげるよ」
「ありがとうお姉ちゃん! お金、借りるね。後で返すね。それじゃバイバイ!」
一瞬にして立ち上がると水野さんの目の前に両手を差し出し、お金を頂戴とポーズを決めた。
「桃乃ちゃん……」
軽く引き気味の水野さん。
そうなりますわな。
桃乃さん、あきらかに笑顔は作り笑いで口元の端はヒクヒクと震えるも、立ちポーズを崩さなかった。
さっきまで険悪だった相手にすがる気持ち、見ていて痛々しい。
どうしても東京へ行かなくちゃいけないそれだけの理由、それは相当のものだろうと推測できる。
いま、僕にできることをしなくちゃ、きっと後で後悔する。
桃乃さんのお金頂戴ポーズをやめさせ、僕は水野さんの前に立つ。
「水野さんお願い! お金貸して!」
考えていたみたいにうまくできなかったけど、それでも僕の想いは通じると思う。
水野さんの足元、床に頭を擦り付け土下座をする僕。
「あとで絶対に返すから、往復の電車賃だけでいいからお願い!」
水野さんは、僕が土下座をしなくてもきっとお金を貸してくれるだろう。
でもそれだと、駄目なんだ。
僕が土下座をして、借りたことにしないと駄目なんだ。
そうしないと桃乃さんが傷つく。
ほんの数分前まで、良い関係を持っていない相手に頭を下げてまで借りたいと願う、桃乃さんの気持ちを考えると心が痛い。
もし、水野さんが靴にキスをしろというのなら、躊躇わず従うよ。
「やめて! 佑凛さん、もうやめて!!」
桃乃さんは僕の手を取り、床から立ち上がらせようとグイグイ引っ張る。
「そこまでして、お金なんか借りたくない!」
「桃乃さん、僕は大丈夫だから」
「もういいよ……。無理いったあたしが悪いの……」
声は震え、目元に涙を浮かべながら僕の行為を制止してくる。
「村上君、私からもお願い立ち上がって。こうなった一因、私にも責任がある。カフェの話を私がしなければ、こんなことにならなかったし……」
「水野さん……」
「ここから上野まで四千円あれば学生、三人分足りるわ。安心して」
「ありがとう、水野さ──?」
「なに?」
「三人分?」
「私も行ってあげるわ。村上君、東京は不慣れなんでしょ? それに上野近辺の美術館は、よく行くから交通事情も上野の地理もまかせて」
「えぇ……」
苦虫を潰したような表情をする桃乃さん。
「桃乃ちゃん、なにか不満でも?」
「えぇぇぇ……」
桃乃さん、ここは少しでも水野さんの顔を立てて上げようではないかと──ねっ。
「えー佑凛さんと、二人がぃぃなぁ……」
「桃乃ちゃんお金、誰が出してあげるのかなぁ? ほら、口で言ってごらんなさい」
そう言いながら桃乃さんの両ほっぺたをキューッとつまむ水野さんは、小さく微笑みを見せながら、さらにグイグイと指に力を入れ、両ほっぺたをつまみ遊ぶ。
「桃乃ちゃんのほっぺたって、柔らかく気持ちいいわ」
「いっ痛ぃれふょ、お姉さまぁー! いっ、一緒に行きまひょぅね、おねぇさまぁー」
「そうそう、素直が一番よ。桃乃ちゃん」
水野さんは振り向き、僕にも小さな微笑みを見せた。
目が笑っていないように見えるのは、気のせいでしょうか。
あれ、どこかでこの光景、目にしたことが、ある──。
デジャヴュ!?
すごく最近、見た覚え、あります。
どこだったかなぁ……。
メモ書き20210109修正
メモ書き20210209修正 名前変更。樹→佑凛