=現在の章= 聖女様とシチューとポチ
夏樹視点。
足を滑らせた後のお話。
鼻腔をくすぐる、香ばしいパンの匂い。
ことことと音を立てているのは、シチューか何かだろうか。
ああ、おいしそう。
森で遭難していたはずなのに、こんなに美味しい匂いがするなんて。
きっとここは天国だ、私死んだんだな。
思えば短い人生だった、と胸の中で回想に浸ることもそこそこに、夏樹は勢いよく飛び起きた。
「ごはんの時間ですか!!!」
食欲に勝るものなど、夏樹の中には存在しない。
「……って、あれ?」
見覚えのないベッドに、見覚えのない内装。
古ぼけた民家と思われる部屋のなかには、城では見かけないような農具や麻袋などがちらほらと散見する。こんなに生活感溢れた空間は、この世界に来てから初めて見るものだった。
今自分がいるのがどこなのかさっぱりわからず、夏樹は一人ベッドの上で首を傾げた。
「ええと、森で足を滑らせて、……ここ、どこだろう」
寝起きの頭を酷使して、必死に直前の記憶をさらった。
ぬかるみに足を取られて転び、いやいや、その前にそもそもクマに襲われたんだ。
そして、すべての元凶グレイのあの『切なげな微笑み』。
たぶん本気で別れを惜しんでくれていたのだと思うと、一周回って心底憎たらしい。
「おのれ、グレイさん……。絶対に、生きて城に帰って殴ります……!」
絶対にぎゃふんと言わせてやる。
本気で嫌がられたために今までやらなかった、ペンダントで抑制していない最大出力の魔力をもって治療してやる。きっと夏樹が全力を出せば、あの朴念仁にも多少は効果があるだろう。性欲なんてまるでありませんよという顔をしたあの頑固者を、今度こそあんあん言わせてくれるわ……!
思い出した怒りに夏樹が打ち震えていると、誰もいなかった部屋に一匹の闖入者が現れた。
「きゅん!」
「……『きゅん』?」
思わず鳴き声の方に視線を向けると、そこには一匹の柴犬によく似た生物が居た。
小さな体にふさふさの尻尾。
はっはっは、と舌を出しながらこちらを見つめる姿は、なんともまあ、
「か、可愛い……!」
「きゅん!」
「しかも鳴き声があざとい!」
えええ、こっちの国の犬って「きゅん」って鳴くのか。マジか。許さん、かわいい。
「君、お名前はなんていうんですか?このおうちのこですか?」
「きゅん!」
「うううよく分らん。まあいいや、とりあえず暫定ポチだ。ね、ポチ、ここはどこだい?」
「きゅんきゅん!」
「君の言葉は私には難しいよ、ポチ……」
「勝手に人んちの犬に妙な名前を付けんじゃないよ」
「え?」
突然割り込んできた声に、夏樹は再び部屋を見渡した。
すると、暖炉の傍にあった毛布の塊だと思っていたものがのそりと動く。
いや、毛布ではない。よく見たら、中から人の手が生えている。
しわしわの手が、そっと被っていた毛布のような外套を下した。
「ぎ、ぎゃぁあああ!」
「なんだい、人の顔を見て第一声がそれとは、最近の若者はどうしてこうも礼儀知らずなんだい」
「きゅん!」
「ん?ああブルーメ、別にお前のことを責めたわけじゃないよ、安心おし」
「え、うわ、あああ……あれ?……もしかして、お婆さんが私の事、助けてくれたんですか?」
「馬鹿言ってんじゃないよ、あたしがなんでアンタみたいなちんちくりんを助けなきゃなんないんだい。助けたのは、こっちのブルーメだ。森で行き倒れているアンタを見つけたのも、ここまで荷車に乗せて実際に運んだのも、ブルーメさね」
毛布もどきの中から姿を現したのは、まるで童話の『悪い魔女』のような老婆だった。髪はぼさぼさ、前歯は欠けている。爪は長くて、目の下を縁取る隈は酷く濃い。
老婆がそっと手を伸ばして撫でると、ポチ……もとい、ブルーメは嬉しそうに尻尾をぶんぶん振り回す。ブルーメ、駄目だよ騙されてるよ、そのうちお前食べられちゃうよと思わず言いたくなる。
「そう……だったんですか、すみません、突然人が現れたのでビックリしてしまって……。助けていただいて、本当にありがとうございます。ブルーメも、本当にありがとう」
「きゅん」
「礼なんか言ってる暇があったら、さっさとこれでも食べな。ただし、シチューに文句なんか言ったら叩き出すからね」
よしよし、と自分もブルーメを撫でていると、目の前にどんっと置かれたほかほかのシチュー。
思わずゴクリと喉がなるが、仮にも城では『聖女様』なんてあだ名で呼ばれていた身。ここで、食欲に負けて盛大にかきこむなんて醜態を晒したら、またグレイさんに「年頃の娘がみっともない!」ってお小言を言われてしまうかもしれない。
夏樹は一度深呼吸をすると、スッと背筋を伸ばして礼儀正しく頭を--
「食べないならブルーメに」
「すいません、いただきます!んぐっ!あ、美味しい!」
江藤夏樹、19歳。食欲に屈した瞬間だった。
*****
「……で、アンタはなんであんなところで行き倒れてたんだい?」
ご厚意に甘えて食後の果物までご馳走になっていると、そこでやっと老婆が口を開いた。 よくぞ聞いてくれました!とばかりに夏樹はずいっと身を乗り出して語りだす。
「お婆さんは、このレイノーマ国の王都に現れたっていう、『聖女』の噂を聞いたことはありますか?」
「ん?ああ、なんでもおとぎ話の聖女イヴみたいに、触っただけで何でも治しちまうっていう馬鹿みたいに優秀な治療師の話だろう。こんな辺鄙な村でも、そのくらいの噂は流れてくるよ」
「そうですか……。あの、驚かないで聞いてくださいね」
「なんだい畏まって」
「私が、……実はその『聖女』なんです」
「…………」
夏樹がそう言うと、老婆は数拍の間沈黙した後、「なるほどねえ」と呟いた。
「信じてくれるんですか!?」
「ああ、信じるさ。アンタがあの噂の聖女様っていうんだろ」
「そうなんです、その通りなんです!」
まさか初っ端から信じてもらえるとは思っていなかったので、夏樹は飛び上がって喜んだ。
しかしーー
「泥だらけだったから、どこかは怪我しただろうと思ってたけど、よりによって頭の大事なとこをぶったんだねえ……」
(あ、全然信じてない)
老婆が見せる酷く同情的な視線が、胸に痛い。
「ち、違います違います、本当に噂の治療師なんです!」
「馬鹿言ってんじゃないよ、聖女様は噂じゃお上品で麗しい絶世の美少女だっていうじゃないか。アンタみたいなちんちくりんのどこに共通点があるっていうんだい!」
バァンッ、と勢いよく机をたたいて怒られた。
なんという仕打ち。噂の一人歩きって怖い。
「ほ、ホントですよ!ちゃんと治療師の証だって持って……!」
慌てて、夏樹は自分の胸元を探った。治療師はそれぞれに王家から証となるものを賜り、肌身離さず持ち歩く。そしてそれは、この国のほとんどの場所で通用する身分証となる。
夏樹の場合は、青い石のペンダントがそれだ。
特に夏樹のそれには、抑制なしに使うにはあまりにも欠点が多すぎる治癒魔力を必要最低限の量にセーブするための魔術団長直々のおまじないまで掛かっている。
ペンダントなしにも治療は行えるが、周囲10メートル圏内の人間を全員問答無用で理性のとんだケダモノにさせるという残念エロケアルなど、頼まれてももう二度と使いたくはない。
話が逸れたが、ともかくペンダントさえあればどんなに夏樹本人が噂の絶世の美少女と人物像がかけ離れていようが、夏樹こそ噂の聖女であると納得せざるを得ないはずだ。
「ここにですね、身分証のペンダントだってあって……」
胸元をまさぐった夏樹の手が、スカッと空をかいた。
無い。
(え、あれ、うそ、……本当に?)
さあっ、と音を立てて血の気が引く。
一体どこで紛失したのだろうと、記憶を必死にさらった。
―――『絶対に、幸せになるんだ、エト』
微笑むグレイ。魔方陣から吹き荒れる風。
光が弾ける寸前、グレイの背後に一瞬見えた青い石。
……グレイの背後に見えた、青い、石。
(……そこか!)
あの時だ。そういえば、突風でペンダントが飛ばされたのを見た気がする。
(一体、どこまで私をどん底に叩き落とせば気が済むんですかグレイさん……!)
思わず血の涙でも流しそうだ。
絶対許さん、殴るときはグーではなく裏拳にしよう。
「なんだい、急にこの世の終わりみたいな顔なんかして」
「いえ、その、治療師の証を、諸事情で紛失しまして……」
「ああ、いいよいいよ、その設定はもういいから。行き倒れてた事情を隠しておきたいってことはもう十分に分ったよ」
(これはひどい)
アンタも大変だったんだねえ、としみじみ同情された。
なんだろう、とても今泣きたい気持ちでいっぱいです。
「それで、その……王都の方角を教えていただけたら、ご迷惑になる前に早々に去りますので。この度は、本当に私なんかを助けていただき、この御恩はいつか必ずお返しさせていただきたく……」
「ああ?何言ってんだいアンタ」
老婆は、見た目にそぐわず快活にからからと笑った。なんと、恩返しなんて気にするなと笑ってくださるのか。なんと大らかな方だろう。悪魔信仰とかしていそうなんて思ってごめんなさい。本当にあなたは素敵なおばあ様で……
「いつかなんて、馬鹿なこと言ってんじゃないよ」
老婆は、表情を一転させて、ニタァアアと邪悪極まりない笑みを浮かべた。
「御恩なら、今すぐ身体で返しな。……逃がしゃないよ、イッヒッヒッヒ」
もうやだ、誰も信じない。世の中は悪意に満ちている!
夏樹「森には優しいお婆さんが住んでいるもんだと思っていました」
なお、吹き飛んだペンダントはグレイさんが回収して、エトの形見としてこっそり肌身離さず持ち歩いています。
次回は過去編グレイの章。
彼ら聖騎士団の視点から見た、夏樹ことエトの存在とは--?
お楽しみに!