=現在の章= 聖女様と素敵な野生の勘
時は戻り、現在。
見ず知らずの土地で途方に暮れている夏樹視点です。
「さて、これからどうしよう……」
右も左も分らない土地に飛ばされ、しかも人影すらない。
何から手を付けていいのか途方に暮れ、夏樹は呆然と立ち尽くした。
好きな人の所業とはいえ、流石にこれはむごい。
多分お茶目な手違いなのだろうと信じてはいるが、これが故意の所業なら死ねと言っているようなものである。城から放り出されるだけだったほうが、周囲に街がある分まだマシだ。
いきなりうら若き乙女が着の身着のままで放り出されて、どうしろというのか。
「……グレイさーん。怒らないから、近くにいるなら出てきてくださいよう」
返事は無い。
いつも呼ばなくても傍に居てくれた人は、今はその気配すらない。
「本当に独りぼっち、か」
ため息をつきながら、夏樹はそっと自分の姿を見下ろした。
今日の格好は、この国の一般的な普段着であるワンピースとその中にダフッとしたズボン、そして庶民的な編み上げブーツ。
ここは、舞踏会向きのドレスではなかったことを喜ぶべきなのか、旅装でもない普段着であったことを悲しむべきなのか。
「(……圧倒的に、後者!)」
悩むまでも無かった。
「地図もないし、コンパスも無いしなあ」
ぽつりと呟いた。
時空転移の魔法陣がある部屋に入る直前は、まさかこんなことになるなんて思ってもみなかった。だから夏樹は今外套すら羽織っていない。
「な、何かポケットに入っていたり?」
外套のポケットをひっくり返すと、多少の銅貨がジャラジャラと出てきた。
「…………」
ひー、ふー、みーと数える。
「ああうん、駄菓子くらいなら、買えるかな」
思わずガクッと膝をつく。
こんなささやかな装備、露ほどの役にも立たない。飴玉数個分のお金が入っているくらいならむしろ飴玉が数個入っていた方が百倍マシだ。
食料がないと分ったとたん、ぐうと腹の虫が音を立てる。
「(じ、実は案外人里に近いとか!)」
微かな希望にすがって周囲を見渡すが、視界に入ってくるのは森、森、森、湖、小鳥、森。なんてこった、獣道すらない。
「餓死で死んだら恨んでやるぅうううう」
もう何度呟いたかわからないグレイへの呪詛を吐き散らしながら、夏樹は精神力を振り絞って立ち上がった。
『立ち止まるな、死にたいのか!』
そう、大切な人が言っていたのをふと思い出した。そうだ、だから私は異世界に落ちるという異常事態に直面しても、不審者呼ばわりされて牢屋に閉じ込められそうになっても、魔物と対峙するような目にあっても前に進んできたんじゃないか。
人生に、立ち止まっている暇はないのだ。どんなに理不尽でも、立ち向かわなくてはならない。
ありがとう、貴方の言葉で私はまだ頑張れます。
まあ、今回の災難に関しては全部グレイさん貴方のせいですけどね!
「とりあえず、人里を目指そう、そうだそれがいい」
幸い、太陽の位置からして時刻はまだ昼前といったところか。
進む方向を間違えなければ、猟師小屋くらいはみつかるかもしれない。
足元に落ちていた手ごろな枝を拾い、見よう見まねで構えて進む。
装備が普段着と樫の枝とか、今時どこのロールプレイングゲームだ。
途中、突然出てくる鳥や狐に怯えながら、ただひたすら野性的直感のみで突き進む。これでも、幼少時より迷子になった時の自力で帰還する率は100%を誇っている。前提としてよく迷っていたという点はさておき、もはや今の夏樹に出来ることは自分を信じて進むことだけだ。
「殴る、絶対殴る、次に会ったらまず殴る」
不安を吹き飛ばすために、小声でそう呟いた。
もちろん殴る対象は、素敵な異世界の恩人で片想い相手のグレイだ。彼のことは好きだが、今はもっぱら憤怒しか感じない。
「グーで殴る。ボコボコにしてやる。絶対に殴る……!」
次第に自分の言葉にも熱がこもってくる。
何故話も聞いてくれずに強制送還しようとしたのか、とか、そもそも今日は完成した魔法陣を見せてくれるだけではなかったのか、とか、言いたいことならごまんとあった。
他にも、思い出してみれば不満だらけだ。
何故やたらと治療を拒むのかとか、治療師として周囲に認められてもなかなか前線に連れて行ってくれなかったこととか、初めて見た魔物に怯えて眠れずに夜相談しにいった時はものすごい剣幕でお説教されたこともあった。正直、食い殺さんと飛びかかってきた魔物より『その恰好は何だ!年頃の娘がはしたない!』と親の仇みたいに睨んで説教をかましてきたグレイさんの方がよっぽど怖かった。あまりの恐怖に、女官さんが偶然通りかかるまで廊下で膝をガクガクさせていたのもしっかり覚えている。
「……なんだか、思い出したらイライラしてきた」
殴る殴ると物騒な単語を発していると、自分がまるで強くなったようで気持ちも大きくなっていく。
最初は泥棒のように潜めていた足音も、途中から全く配慮しなくなった。苛立ちを発散させるように、むしろ大きく足を踏み鳴らして歩く。
「ぐぅあああ!魔物でもなんでも出てこい、今の私の怒りに怯えて顔すら見せられないのかぁあああ!」
「ガウゥ」
「なんだ、唸ってばかりでは話にもならない!……ぞ……?」
たらりと頬を垂れる冷や汗。
勢いよく引いた血の気を感じながら、ゆっくりと振り返るとそこには、
「ガウゥウ…………」
「く、……くま?」
魔物より、酷く見慣れた姿。
動物園で過去に見たことがある黒い熊が、そこにいた。
「…………」
熊だ。
この世界の生き物なので呼び方は多少違うかもしれないが、見た目だけなら完全に日本のヒグマだ。
「ハ、ハロー」
そっと片手をあげて挨拶をする。
もちろん、熊からの返事はない。この世界の熊は実は人語を喋る友好的生物である可能性に賭けたのだが、残念ながら結果は夏樹の負けと思ってよいだろう。
「食べてもおいしくない、美味しくないですよ。異世界人なんか食べたらお腹を壊してしまうかもしれません、悪いことは言わないので思いとどまりましょう、ね?ね?」
熊から視線をそらさず、じりじりと後退する。一応、気持ちだけでもと樫の棒を正面に構えているが、熊に襲われてこれで撃退出来るなら、そもそも恩返しの手段として治療師なんか目指していない。
「ガゥウウ…………」
「そう、貴方はきっと賢い熊です。こんな貧相な女の子より美味しい獲物はたくさんあると思うわけです。だから、その牙をしまってここは穏便に……」
「ガァウワアアア!」
「すみませんでしたぁあああああ!」
熊の後ろ脚が力強く地面を蹴ったのを見て、夏樹は咄嗟に一か八かで右に飛び込んだ。
バランスを崩してしりもちをついた彼女の目の前、僅か数センチの距離を凶悪な熊の手が過ぎ去り、これ以上は引かないと思っていた血の気がますます引いた。
恐らく左に飛んでいたら直撃しただろう。両親に散々サルだのハトだの馬鹿にされただけあって、相変わらず動物的直感だけは冴えわたっているようだった。
「(て、撤退撤退てったいぃいい!!)」
熊が態勢を整えようとたたらを踏んだその一瞬を逃さず、夏樹は一気に熊に背を向けて走る。
しかし、その踏み込んだ先の茂みの奥が悪かった。
ズルッとぬかるみで足が滑る嫌な感覚。
「(あ、やってしまった)」
足を踏み外した瞬間、一周回って冷静になった頭で思った。
―――まあ、こうなる気は若干してました、と。
「助けてグレイさぁあああん!!」
馬鹿みたいに盛大な音と絶叫をあげながら、唖然とする熊の前で彼女は一気に土手を転がり落ちていったのだった。
夏樹の野生の勘は筋金入り。
直感と帰巣本能だけは、誰にも負けない自信がある。
でもトラブルを呼び込む能力も誰にも負けないため、大体何をやっても波乱万丈で、よく担任の先生から同情されていた身の上。