●過去の章● 騎士グレイ=ランバートの受難
過去編。グレイ視点。
事件から一年前。
ありし日の、騎士と聖女様の仕事風景。
「ち、治療師エト、行きます!」
酷い手傷を負った同僚に駆け寄り、彼女が少しどもりながら叫んだ。
どもっているのは、まだ彼女がこのような泥臭い現場に慣れていないからだろう。
今自分たちが退治している魔物の群れは、一体一体はそれほど強いものではない。
しかし一瞬でも油断すれば鋭い爪で手傷を負うことだってある。
彼女が駆け寄った俺の同僚が、まさにそうだ。
彼の横に膝をついた彼女を庇うように、俺は背をそちらに向け周囲を警戒する。
今周囲の敵はあらかた殲滅されている。だが、いつ不意打ちが来るかわからない。
(彼女一人守れないなら、俺が護衛でついている意味がないしな)
異世界から来た少女エトは、不思議な力を持ってはいたが、それ以外は何の変哲もない少女だ。
俺たち聖騎士にとってはなんてことない下級魔物でさえ、彼女の命を奪うのには十分だった。
万が一にもあってはならない事態を考え、俺は気合を入れなおすとシャキンと音を立てて銀色に輝く聖騎士の剣を構える。国王陛下から任された俺の仕事は、どんな場面でも護衛として彼女の身の安全を守ること。
(さあ、来い)
彼女が同僚の傷に手を伸ばした気配を感じて、俺はぐっと息をこらえた。
ここから先は、もはや俺にとって恒例となった――楽しい楽しい、拷問の時間である。
(さて、今日は何を考えようか……)
前回の妄想ネタは修道院の名物老シスターの裸だった。
しかし、それくらいのインパクトではこれから俺を襲う彼女の猛攻を凌ぐ事は出来ない。
するとここはやはり、うちのむさ苦しい団長の残念極まりないセクシーポーズの方が効果的にげんなりすることが出来るだろうか。
顎ひげを生やし豪快に笑う団長の姿を思い浮かべ、俺は人知れず小さく頷いた。
いける。あの団長のセクシーポーズほど、げんなりするものを俺は知らない。
(いや、でも何度も思い浮かべていると、慣れて効果が薄れるような気もするしな……)
並大抵のガッカリ度合いでは、彼女の能力から逃れることなど出来はしない。
ここは俺の精神を叩きのめすような、斬新かつ新しい想像を求めていくべきだろう。
どうしようかな、と一瞬俺の思考が逸れた。
そして、その一瞬が命取りだった。
ポウッ……とあたりに青い光が立ち込め、周囲に漂い始めた光の粒が、微かに俺の腕にも触れた。
「……ッ!」
あ、まずい。
そう思った時には遅かった。
「……〇☓▽※◇!?」
ざわざわざわ、と一気に全身に鳥肌が立つ。花などどこにも咲いていないのに、濃厚な花の香りに包まれたような感覚。官能を無理やり呼び起こし、欲望を引きずり出されるこの感覚。全身を襲う強烈な熱に頭がくらくらした。
――ああ、猛烈に彼女の方を振り返りたくて仕方がない。
あの柔らかい唇に触れ、赤くはれるまで口付けがしたい。あるいは、あの魅力的な太ももを撫でまわすのでもいい。「グレイ、さん」と不安そうに自分を呼ぶあの声を、自分の腕の中に閉じ込めた彼女から聞きたい。
(くそっ、また間に合わなかった!)
駄目だ、魔がさしていることを自覚するんだ。
彼女はあくまで護衛対象。
俺が狼になってどうする、しっかりしろグレイ!
(堪えろ、堪えろ、堪えろ……!)
ああでも、快楽というのはなんて甘美な堕落だろうか。
あと少しでも感じていたら理性など吹き飛んでしまうと感じるのに、もうちょっと、もうちょっとだけこの感覚に浸っていたいと、彼女に支配されたいと願ってしまうような……。もう、お願いします俺を詰って踏みつけて嘲笑いながら触ってくださいと土下座して泣きつきたいと思ってしまうような――
「はい、治療終了です!」
明るい彼女の声が響き、シュンと音を立てるようにあたりを包んでいた青い光が一瞬で消え去る。
(……ハッ!)
同時に、俺の脳裏を占拠していた桃色の映像が掻き消えた。
まずいまずいまずい、一瞬本当に意識が落ちかけていた。ついでに妙な趣味にも目覚めかけていた。
一瞬の気のゆるみから、いろいろと人生が終わるところだった。怖すぎる。
「う、うぅ」
「あっ、駄目ですよまだ動かないでください。私の力で傷自体は治りますけど、副作用で眩暈とかが起こることは分かっているんですから!」
「すみ、ません……助かりました、聖女様」
「ふっふっふ……、お役に立てたようで何よりです」
エトが素直に喜び、胸を張って答えているような声が聞こえる。
年若い仲間の声は多少いつもより甘い気もするが、妙に息を荒げている様子もない。
少し気だるそうにしているが、それだけだ。
やはり彼女の魔力に、正確に言えば彼女の治癒魔力の副作用にこんなに呆気なく敗北するのは、聖騎士団の中でも俺だけなのだろう。
(……情けなさ過ぎる)
今日も今日とて敗北した自分を、俺は心の中で罵倒した。
たった一人の少女の魔力で、しかも彼女自身も全く意図していない治癒魔力の副作用の方にこんなにもあっさりと負けるなんて、情けないにもほどがある。しかし、情けないと思う反面で、こうなってしまうのは当然だ!と拗ねたように主張する自分の本音にも気が付いていた。
――今から約一年前、エトは遠い異世界からやってきた。
誰が呼んだわけでも、彼女が願ったわけでもない。
ただ純粋に『迷い込んだ』。
それが、もう一年前の出来事である。
身分も後ろ盾もない彼女だが、彼女は一つだけずば抜けた才能を持っていた。
怪物並み、と呼ぶにふさわしい途方もないほどの治癒魔力だ。
治癒魔力を持つ人間自体は別にそこまで珍しいものでは無い。
しかし、詠唱も無く、触れるだけで誰かれ構わずどんな怪我人でも瞬時に治してしまう彼女の魔力量は異常だった。
その才能を発揮してこうして今はレイノーマ王国の治療師の一人として働いている彼女。
ついたあだ名は『聖女様』。
しかしその反面、彼女の魔法にはとても『聖女様』なんて清らかな名では呼び難い、重大な問題点があった。
(これで、この副作用さえ、なければな……)
上がった息を堪えて歯を食いしばったまま、俺はげんなりと項垂れる。
彼女の魔法には、彼女特有の副作用がある。
それはまあ、簡単に言ってしまえばとんでもない規模の催淫効果だ。
男女問わず、年齢問わず、全ての人間が一瞬で理性を飛ばすほどの絶大な効果。
近くに敵が居ようが自分が死にそうな怪我をしていようが、そんなことはどうでもよくなってしまう。
ただ彼女に襲い掛かりたい。それしか考えられなくなる。
(でも今はペンダントがあるのに、何だって俺はこんなに負け越すんだ……!)
内心、悪態をついて俺は悔しさに歯噛みした。
いちいち周囲の理性をとばしていたら、当然だが治療師としてなんて働けない。
だから彼女はうちの魔術団長が直々に作成した青い石のペンダントを身に着けている。
ペンダントをかけている限り、あの暴力的な魔力は治療を行うことが出来る必要最低限の量までに抑えられているはずなのだ。
だから今では誰も彼女に魔力で治療されても理性を飛ばしたりはしない。
名実ともに、彼女は『聖女様』と呼ばれるに足る実力を発揮している。
――残念なのは、その『誰も』の中に俺自身が含まれなかったことだろうか。
――俺だって、油断さえしなければ大丈夫なんだ。油断さえしなければ!
屈辱に唇を噛みしめながら、自分に言い聞かせた。
別のことに集中してさえいれば、俺だってこんなに呆気なく理性を飛ばすことはない。
ただちょっと、いつも少し、そう、心の準備が足りないだけだ。
俺は悪くない。
(……もっとこう、俺にだって年上の余裕というものが……!)
だが悔しがってはみるものの、内心では既に諦めの境地に達していた。
こんな途方もない出力の催淫効果、勝てるわけがない。
伊達に長年悲しい独り身生活をしていないのだ。
26歳彼女なし、という筋金入りの女っ気のなさを、甘く見てもらっては困る。
「グレイさん治療終わりました、次の怪我人のところに行きましょう」
「駄目だエト、まだ動くな」
「えっ?」
「まだ、周囲から奴らの気配が消えていない」
「え、あ、はい!」
俺の真剣な声を聞き、彼女は慌てて周囲を警戒するように再度身構えた。
俺も、いつでも敵に切り込んでいけるような低い姿勢をとる。
「……敵、どこに潜んでいるのでしょうか」
「それは分らない、殺気が消えるまでもう少し待て」
俺は険しい表情でそう彼女に言った。
――敵などどこにもいないという事実が、どうか彼女にばれません様に……!
(今、自分の考えていることが暴露されたら、死ねるな……)
内心の冷汗をだらだら流しながら、俺はただ真面目な顔を取り繕って剣を構える。
俺が動かないのは、動かないのではなく動けないのだなんてどうして言えようか。
前かがみの体勢から動けない理由は察してほしい。
彼女の魔力がとまり俺の思考回路が正常に戻ったとしても、一度反応した身体がまるで魔法のように一瞬で元に戻るなんてことは無いのである。
「敵、襲ってきませんね」
「いやまだだ、きっと奴らは俺たちの様子を見ているんだ」
「なるほど……勉強になります」
(すまない、すまないエト……!)
身構えたままうんうんと頷く彼女は、全く俺を疑った気配がない。
彼女は本当に根が素直だ。
馬鹿正直ともいう。
こんなくだらないことで騙して、本当に申し訳ない。
あとで、彼女に謝る代わりに神様に懺悔しておこう。
最近は神様に懺悔しなければならない事柄が多すぎる。
(……ふぅ……)
俺は一度深呼吸をして、必死に落ち着こうと試みた。
二進も三進もいかなくなった身体には、どうにかして可及的速やかに大人しくなっていただかなくてはならない。
彼女自身からの信頼を壊さないためにも、『聖女様の護衛』という立場を維持するためにも、絶対に、俺は彼女の能力で欲情しているとバレてはならないのだから。
(団長の裸踊り、団長の裸踊り……!)
全団員を阿鼻叫喚の渦に叩き落とした数年前の惨劇を思い出し、俺は必死に下半身から意識を逸らした。
くそっ、これでもなかなか萎えないとか、本気でこいつの治癒魔法は悪質すぎる。
「……いなくなった、みたいだな」
居なくなったも何も、元から何もいないのだが。
神様すみません、今日もまた俺は嘘をつきました。
「ふう……、良かった。ありがとうございます、グレイさんが居なかったら私なんかとっくに魔物の餌食ですね!」
「気にするな、それが俺の仕事だからな」
「グレイさんカッコいいです!」
「……そうか」
エトが俺の元に駆け寄り、隣に並ぶ。
称賛をたたえた瞳でキラキラと見つめられ、さっと目を逸らした。
(頼むからそんな目で見るな!)
今さっきまでお前を押し倒してアレコレしようとする妄想で頭がいっぱいだったなんて、どうして言えようか。
魔物が百体来ても負けない自負はあるが、彼女の最大出力の魔力に当てられたらその場で発狂して死ぬ自信がある。
だから、俺は決して重傷を負ってはならないのだ。
彼女に治療されたら、その日が俺の命日だ。
――出会った頃の彼女の魔力を思い出し、背筋に寒気が走った。
あの頃はペンダントも無かった上に、俺もまだ彼女に対する免疫がなかった。
だから逆に彼女の魔法が発動した瞬間、俺は刺激が強すぎて一瞬で気絶したのである。
今思えば、あれはあれで逆に平和な結果だったのだろう。
なにせ、あまりに瞬殺過ぎて何が起こったのかすら理解できなかったのだから。
しかし、下手に免疫が付いて簡単には気絶しなくなった今、実際に彼女に治療なんてされたら……ああ、考えただけでゾッとする。
理性が吹っ飛んでケダモノになるだけでは済まないだろう。
断言しよう、俺は絶対に廃人になる。
「今日の戦い、少なくとも夕方までは続くだろう。お前も、魔力の配分には十分気を付けろよ」
傍で護衛する俺の精神が持たないからな、と心の中でそっと付け足す。
「はい、でもまだまだやれますから!」
任せてください!と胸を張る彼女の姿に、内心で悲鳴を上げた。
頑張るな、頼むから、お前はそれ以上頑張るな……!俺が死ぬ……!
「あ、あまり、張り切らなくていいぞ。無理は禁物だエト」
「えええ、グレイさんは心配性なんですよ。まるでお父さんみたいです」
「なんとでも言え。お前に無理をされるよりマシだな」
「もう……あっ、日頃のお礼といっては何ですが、もしグレイさんが怪我したら私全力で治しますから言ってくださいね!怪我する前より元気にしてみせます!」
やめてくれ、エトお前なんて恐ろしいことを言うんだ。
怖すぎる。
「……お前に頼るような怪我を、しないよう気を付けるさ」
「グレイさんなら、特別にかすり傷でも治してあげますよ」
「そうか。なら、かすり傷もしないように戦う」
「もー、確かにグレイさんは強いですけど慢心は駄目ですよ。油断につながるんですから」
「ああ、そうだな」
油断など微塵もないけどな。
全力で本気だ。むしろ怯えすら感じている。
俺は剣を持っていない方の手を伸ばして、彼女の頭を軽く撫でた。
随分と軽そうな兜と鎧の小手が当たって、ガシャガシャと音を立てる。
「まあ、頑張れ。適度にな。あくまで、適度に」
「ああもう、グレイさんの心配性!」
――不服そうに拗ねる彼女の隣で、俺はばれない様にこっそり溜息をついたのだった。
エトこと夏樹が「融通が利かない頑固者だけど頼りになる人」だと思っている人の実情はこれである。男前は、残念な方が好きです。作者の趣味です。
グレイ=ランバート
年下の仲間から『グレイさんって経験豊富っていうか、女性関係は酸いも甘いも噛み分けてますよね!』とよく勘違いをされる不憫な男。悩みは、今更経験が無いなんて周囲に言えないことと、護衛対象の聖女様が日々自分に悪気なく悪質な(治癒魔法という名の)催淫魔法をかましてくること。