-9-
集合ポストに立ち寄り、二〇五の蓋を開いた。中にはピザのチラシが一枚と、服屋からのダイレクトメール。すぐに、ポスト脇に設置されているゴミ箱に捨てる。後からエントランスに入ってきたマンションの住人と軽い会釈を交わして、階段へと向かうが、その途中、住人の手元に目がいって、会社に傘を忘れてきた、と思い出した。
一歩一歩と二階へ。その足取りは重く、息苦しさを感じてネクタイに指を掛け、首を捻る。共同廊下を行くと、数台のバイクのけたたましい音が反響していた。
今月に入ってからというもの、あの騒音は毎晩のように続いている。氷室もバイクに乗っていた時期があった。息子の翔太が生まれたのを期に下りて、それっきりだ。懐かしいと感じることはあっても、また乗りたいとは思っていない。
ふと見ると、二〇五号室のドアノブには何かが引っ掛けられていた。近づくにつれ、それがビニール袋だとわかった。保険屋か新聞屋、それともこのマンションの班長さんが尋ねて来たのかもしれない、と思った。
部屋の鍵を開けながら、袋を手に取って覗きこむと、中には可愛らしい柄の包装紙に包まれた箱が入っていた。氷室は廊下の左右を流し見て、部屋へ上がっていった。
それをダイニングテーブルに置いて、風呂場へ入っていく。乾燥室にもなっている浴室から洗濯物を放り出して、自分はシャワーを浴びた。
全裸にバスタオルを首に掛けて出てくると、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。それを一気に半分以上飲んで、細やかな幸福を感じた。体をあちこち拭きながら、また脱衣所へ戻った。
よれよれになったVネックのシャツに、ハーフパンツ。今夜は出掛けないつもりでいる。テレビを点け、リビングのソファで横になると、もう何もする気になれなかった。ニュース番組を見ていると、遅ればせながら腹が減ってきてしまった。帰宅する前ならどこかへ寄れたのに……。
米ならあるが、今から研いで炊くのか? おかずになるような物がない。醤油でもぶっかけるか。
冷蔵庫に何もないことを知りながら、いちおう再確認。あ~あ~。時刻は二十三時を少し過ぎたところだ。ダイニングテーブルに体重をあずけ、後ろ手を着いた。すると、ビニール袋が手に触れた。
――そうだ、これは何だろう。やけに軽いが、食い物だろうか?
長い背もたれの付いた椅子を引いて座り、雑に包装紙を破った。箱に描かれたきつね色のケーキが、やけに美味そうだった。
それを頬張りながら、中に入っていたカードに目を通した。NEZZO? これは店名か。商品名はマドレーヌというらしい。よく知った名前だったが、どんな食べ物なのかは初めて知った。
――なかなか美味いじゃないか!
氷室は二つ目を口に入れて、熱いコーヒーを淹れた。
結局、五個入りをすべて平らげた。込み上げる胃もたれも含めて、満足だ。
残骸を片そうと包装紙を丸めると、一枚のメモが落ちた。メモには昨夜のお礼、そして最後に、上川美優とあった。文面は丁寧なものだったが、氷室の年代に宛てるには些か失礼な丸文字。彼女がここへ?
普段なら七時までには帰宅しているんだけどね――そんなことを言ったような記憶がある。部屋番は? それも告げたか? それともポストでも見たか。
完食しておいて言うのも何だが……とにかく、こういうのは困る。
美和が、偶然にでも訪れていれば、浮気を疑われて、喧嘩の火種になりかねない。もちろん、順を追って丁寧に説明するが、すんなりと受け入れて(へぇ、アナタもなかなかやるじゃない)なんて、彼女が納得するとは思えない。妻の美和は、そういう人だ。
……と、ここまでは氷室の願望のような想像で、実際は、そんな心配はいらない。
妻は一人息子の翔太に掛かりっきりなのだ。この一年半の間、美和がここへ訪ねて来たのは、たったの二回。それも、志摩スペイン村へ息子と遊びに行った帰り。行きではなく、帰り……。
赴任してすぐの頃は、毎晩電話をしていたが、それもそこそこ早い段階でなくなり、今は放ったらかしにされている。氷室のほうが、本社へ行くついでに家へ帰り、一泊していくといった状況だった。
氷室はリビングのソファに腰掛けた。そして、もし今夜早く帰宅できていたなら、どうなっていただろうか、と空想した。
美優の来訪に驚く、氷室。
(一緒に食べよう)と招くと(じゃ、少しだけ)と頬を赤らめ俯く、美優。
マドレーヌを挟んで、言葉少なげにコーヒーを口へ運ぶ、二人。
そこへ鳴り響くチャイムの音。
(おい、いつまで車で待たせるんだ!)
――ああ、しまった。美優の親父さんを登場させてしまった。
もう少し現実的には……。
少し打ち解けたとはいえ、あの怯え様だ。少し会話しただけの中年男性の部屋へ、ホイホイと上がり込むタイプではないように思う。さらには、あれしきのことで、二度も三度も、お礼に訪れるというのはあり得ない。これっきり、ということだ。
冷えたビール、熱いコーヒー、冷えたビール、で少し腹に来た。明日のためにも、現実逃避パート2、はこの辺にして、氷室はもう休もうと思った。