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氷室は昨夜と同じく、ガラガラに空いた電車に揺られていた。長いベンチシートの一番端、ドア付近の鉄棒に肩を寄せていた。
遅くなることは、今朝家を出る前から覚悟していたので、昨日とは気構えが違う。昼飯もきちんと摂れたし、十八時頃には、経理の佐々岡さんが調達してきた弁当をいただいた。それで昨夜ほど腹は減っていない。
午前中ずっと降っていた雨も夕方にはあがったが、気分が晴れることはなかった。その原因はもちろん、今抱えている会計の問題。要は金がどこへ流れたのかを、証明できる書類が出てくればいいだけなのだ。だが、それが半日探しても出てこない。
収支の入力を一手に担っている佐々岡は、その数字を入力した覚えがない、と小さな声で弁解した。
営業からぽんぽんと飛んでくる書類の詳細を、よほど纏わるエピソードでもない限り、いちいち覚えているわけはないだろう、と思った。しかし、彼女を責めるのは、氷室の役目ではない。そして仮に、佐々岡がずば抜けた記憶力の持ち主だとするなら、誰かが勝手に、佐々岡のコードを使って不正を行ったことになる。心苦しい展開だ……。
氷室は本社からの出向社員で、急遽作られたような(総務部部長代理)という肩書を与えられていた。支店では管理者というより、遊軍扱い。何もしなくていいわけではないが、しゃかりきに支店を盛り上げるということはしない。
そんなところが、支店側の目には、本社から送り込まれたスパイ、と映るのだろう。実際に、氷室は本社への業務報告を定期的に行っていて、しかもその内容は支店長以下、誰にも知らせる義務がないときたものだ。かといって、別段悪意のある告げ口を、氷室がすることなどないのだが。
そんな氷室に、係長が一番に相談してきたことを、今になって疑問に思う。氷室に上手く取り入って、本社への転属を目論んでいるのだろうか、それとも、この支店内の誰かを失脚させたいと思っているのだろうか。氷室にそんな権限はないのに。
氷室は電車の窓に映る自分を見ていた。
その姿は、次第に本社の営業企画室相談役の姿に変わっていった。表情は冷たく、そして厳しい。義父を前にして、氷室は姿勢を正した。これが顧客との信頼関係に、影を落とすような問題にまで発展すると、本社への報告は免れない。そして本社からどのような措置が下るかは、目に見えていた。
(本社へ戻ってからも、その汚点はずっと貴文くん、君について回るんだぞ!)と、義父は窓の向こうから忠告していた。
中原駅の改札を抜け、どんよりとした夜空を見上げた。
まだ誰も口にしないが、今日一日で内部不正の色が濃くなったことは、誰の目にも明らかだ。氷室には、まだ話したことすらない社員が何人もいる。なので、アイツならやりそうだとか、アイツが困窮しているなどといった、アイツという者に全く見当がつかないのだ。
とにかく、明日朝の会議で支店長がGOサインを出せば、いよいよ社員一人一人からの聞き取りが始まる。その役の中に氷室が入る可能性は高かった。比較的小さな支店なので、四十人ほどを順次面接していくことになる。
溜息を声に出して、歩き出した。もう、なるようになれ! だ。
自販機群の前まで来ると、上川美憂のことを思い出して、来た道を振り返った。昨夜の出来事は……不謹慎にも楽しかったな、と思ってしまう自分がいた。それが現実逃避と呼ぶことを、もちろん氷室は知っている。