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各務原市から帰った氷室はティアナを駐車場に入れた。
怒りに任せてドアを閉め、アパートへ向かって歩き出した。自分の愚かさに歯噛みして、蹴飛ばせる物がないかと周囲にギラギラとした目を向けている。そうしているところへ、携帯電話が鳴り出した。
呼吸を止めた。
ポケットの中で電話を握りしめ、遠くに暮れかけている陽を見るともなく頭を傾げた。
氷室は自身の勘違いという線を、未だ捨てきれないでいる。気づいていても認めてしまうのが嫌でどうしようもない。美優に会ってどうするつもりなのか、と激しく懊悩していた。
兎にも角にも、まずは彼女の言い訳を聞こう。それがどんなに嘲笑の言葉であっても、おざなりな謝罪の言葉であっても。冷静に、冷静に……たいしたことじゃない。まだ恰好をつける余裕がある。
しかし掛けてきたのは、氷室が履歴書を送った内の残りの一社だった。
(今回は、弊社の求人にご応募してくださってありがとうございます。予想を上回る反響がありまして、多数様にご応募をいただきました。そのひとつひとつを人事部で慎重に検討いたしましたところ、まことに残念ではありますが……)
「うるせぇバーカ! お前の会社なんか潰れろ」
あまりに大人げない啖呵を切って、氷室は携帯電話を閉じた。
一号室のすぐ傍まで帰ってきていた。彼がそのままの歪んだ顔を上げると、絵美里ちゃんがアパートの階段を下りてくるところだった。
「一号のおっちゃん、誰と喧嘩してるん?」
千田さん親子が、母と娘でイントネーションが違うことを今さらながら不思議と感じる。
氷室は気恥しさからぎこちない笑みを向けて言った。
「ずるい奴がいっぱいいて困っているだけだよ」
答えになっていないし、自分でも何を言い出すのかと思う。絵美里ちゃんとっては、もっとだっただろう。二人はだいたい同じ角度に首を傾けて、ポカンと口を開けた。その顔がお互いおかしくて噴き出した。
氷室がシャワーを浴びてから三十分ほど経過したときに、一号室の呼び鈴は鳴らされた。同時に三号室の千田さんが表で名乗っている。
彼はスウェット上下をさっと着用して、玄関のドアを開けた。
こんばんは――彼女が手に持っているのはシーチキンの缶詰?
「お客さんから、缶詰をたくさんいただいたのよ。よかったらと思って、三つほど持ってきたんだけど……。あぁ寒い。上がっていい?」
変な人だ。前々から思っていたことだが。千田さんはけして美人ではない。が、しかし妙に色っぽい。
「はあ、えっと、それじゃどうぞ」
千田さんは部屋を見渡して帆船模型に留まり、ひとしきり感想を述べたあと、コタツに脚を入れて飲み物を要求した。なんのことはない。絵美里ちゃんからさっきのことを大袈裟に聞いて、野次馬根性が出てしまっただけのようだ。
ちょっと、ムシャクシャとしていたものですから――。
そんな曖昧な理由では、彼女は帰る素振りさえ見せなかった。仕方なく、コーヒーを飲み干すまでのお付き合い。
アパートの外観が綺麗になったという話やら、めっきり寒くなったとどうでもいい会話から始まって、話は氷室の知り合いらしいお爺さんに、娘が遊んでもらったときのことにまで及んだ。それについて礼を言われて、氷室はあの日のことを思い出してしまった。その感情は表情に現れていたらしく、彼女はここぞとばかりに突っ込んだ話題に触れた。
彼女の年齢にそぐわない喋り方、振る舞い、距離から、ふと、氷室はどこかの店に来ているような錯覚を起こした。
「氷室さんが、上半身裸で女の人を追っていくのを、あたし見ちゃったのよねぇ」
どうしても訊きたかったことは、それか……。あれを見られているとは知らなかった。周りが見えるような状態でなかったと認める。
「もしかして、あれが奥さん?」
氷室は睨むように一瞥をくれたが、彼女は素知らぬ顔で答えを待っている。
鼻息をついて、首肯した。
「妻……元妻ですよ。じつは、その一件から離婚にまで発展しちゃいましてね」
彼女は首をすぼめて両手でカップを握った。反応は極々薄い。
しばしの静寂があったあと、千田さんは嘆息して言った。
「男の人って馬鹿よね。素人なんかに手を出すからよ。ご飯を食べさせたり、プレゼントしたり、結局は風俗よりも高くつくんだから」
美優が素人か、という疑問が沸き起こったが、氷室は愛想笑いでごまかした。
「あたしだったらリーズナブルなお値段で、後腐れなく抜いてあげるのに」
「は?」
氷室は、突然首に腕を回され口を塞がれた。いきなり、レロンレロンのヌロンヌロンで激しく舌を吸われた。顎まで舐めるようにして唇が離されたあとも、ぎゅうぎゅうと抱きつかれたままだ。
「あたし、箱ヘルで働いてるの」
「箱ヘル?」
「デリバリーじゃなくて、店舗型のファッションヘルスよ。ちゃんとお風呂もマットもあるし、要望があれば、なるべく応えてあげるようにしているんだから」
彼女と最初に会ったとき、パーソナルスペースがやたらと狭い女性だと感じたので、たぶん水商売だろうとは思っていた。が、ちょっと驚いた。
「いや、ちょっと待って。酔ってますか? ご近所すぎてマズいような気がするんだけど」
コーヒーの香りしかしない。
「あら、もう独り身になったんでしょ? だったら誰とどうなろうと御咎めなしでしょ」
また激しいキスが始まった。力で押し退けることは可能だが……。氷室は簡単に観念したように、彼女の少し肉のついたウエストと背中に手を這わせた。
彼女の唇は氷室のヘソの辺りで一旦離れる。そして両手がスウェットズボンに掛かった。
「それでも、やっぱり今はそんな気分になれなくて」と言いながらも、氷室は腰を浮かして協力した。
行為が終わったあと、二人は体を重ねたままで荒い息を整えていた。戦場はベッドへと移っている。
「たいへん結構な物をお持ちで……」
それが冗談でリップサービスなのはわかっている。氷室は上気する頭をフル回転させて洒落た返しを探したが、見つけられずに「お疲れさまでした」と言ってしまった。
「店では本番までしないんだけどね」
「本番?」
「セックスまでは駄目ってこと」
利用したことがあったので知っていたが、氷室は、ふ~んと言っただけでとぼけた。




