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「大丈夫? こういうことはよくあるの? アイツにずっとつきまとわれているとか?」

「いえ、こんなことは初めてです」


 試してみようか……。

 氷室がそんな気になったのは、十階建てのマンションが見えてきたからだ。当然、自分の目的地は、あのマンション内の自分の部屋だ。かといって(じゃぁ、私はこの辺で)と言うのは、あまりに忍びない。彼女を部屋に匿えるほどの信頼関係は構築されていないし、あの男について来られて、こっちの住所が知れたりしたらそれこそ面倒だ。


 路地はいくつかの四つ辻が連続していて、右へ緩くカーブしている。電柱を避けるために時折膨らんで、二人の腕はその都度軽く触れた。ずっと右側を歩いていた氷室は、徐に美優の左へ回って言った。

「この先に身をかわせる場所があるんだけど、やってみる?」


 美優の返事を待たずして、氷室は彼女の背中に手を当てて押した。戸惑って見上げる彼女を半ば強引に右折させた。腰の高さほどのレンガの花壇に沿って、その切れ目をまた右へ。

 この角地の家屋は、氷室がこの街に越して来たときから、空き家になっている。蜘蛛の巣がびっしりと張ったカーポートをくぐり、狭い庭に設置されている物置小屋の裏へ回った。あの男との距離は、二十メートル以上開いていた。二人が隠れる様子は見えなかったはず。氷室は、少年の頃に抱いた悪戯な高揚を感じていた。が、それはすぐに困惑に変わった。


 男が花壇のすぐ横を足早に行く。彼女を見失ったことで、狼狽しているように見えた。

 疑いようがない。明らかに彼女を探していた。氷室の微かな思い、あるいは願いのような、彼女の自意識過剰、の線が消えた。

 今夜の電車内発だろ? 初期段階のストーカーなら、もっとコッソリしろよ! と、氷室は胸の内で強がった。

 このあとの男の行動いかんでは、覚悟を決めなければならない。冷静になって見回せば、ここしか隠れるような所がないと気づくだろう。

 男は諦めたのか、こちらへ戻ってきた。

 こちらから向こうの姿が窺えるということは、男からも見つかるということだ。同じことを思ったのか、美優が身を翻して、氷室と向き合った。ぐっと氷室へ体を寄せてくる。彼女はそうとう恐怖しているのだろう、と思う。ペットボトルのお茶を奢られただけの、見知らぬ中年男性に抱きついているのだから。氷室のみぞおち辺りに、彼女の豊かな胸が押しつけられていた。美優の持つ鞄の角が尻に当たっていて、少々痛い。それが冷静さを失わせないでいてくれた。


 氷室は呼びかけるように美優の背中をノックした。ぎりぎりまで後退しようという合図。

 物置小屋の反対側の隙間から、男が戻っていく様子が視認できた。

 もう一度ノック。

「行ったみたいだよ」

 美優はハッとして、氷室から距離を置いた。


 物置小屋を回って、レンガの花壇に手を着いた。美優へ手招き。二人して身を乗り出し、男の去った方を覗いた。

「もう大丈夫でしょうか?」彼女の表情は硬いままだ。

 もう心配ない、と安易には答えにくい。自分たちが元の路地へ戻ってくるのを、待ち構えているような気もする。

「じゃぁ、こっちから行こうか」

 男が去って行った方とは逆を指差して言った。

 彼女が細かく頷いて、同意した。


 そっと路地へ出て、右方向へ歩き出した。氷室は、自分が中腰のまま固まってしまっているのに気づいて、照れるように首を掻いた。関連性は低いが肩も解しておいた。

 後ろを時々振り返る。あの男はおろか誰もいない。角を曲がる際には、顔だけ出して先を窺う。

 二度そんなことを繰り返すと氷室は、自分は何をしているのか、と馬鹿馬鹿しくなってきた。それは美優も感じていたようだが、表情は氷室と違って、怒っているようだ。二人は妙な一体感を味わっていた。氷室が電柱の陰から覗きこんで、ヨシっと真剣な表情で親指を立ててみせると、美優がプッと噴き出した。が、さっと髪を掻き上げると真顔になって、親指を立てるサインを返した。

 ノリのいい子だ、と氷室は笑った。

 結局二人はワンブロック分を遠回りして、元の道へ戻った。


「本当にすみませんでした。タクシーを呼びたいんですが、ここは何ていう所でしょうか?」

 もう氷室のマンションの前まで来ていた。

「私はこのマンションに住んでいるんだ。車で送っていくよ」

 美優は、そんな……と、かぶりを振る。

 彼女は断るだろう。想定内だ。

「松阪だっけ? タクシーなんか使ったら、ここからだと三千円以上はするよ。もったいないって」

 氷室の身振り手振りに、美優の表情は幾分解れてきた。「いえ、本当にもう……」と言う彼女がもっと強く断る前に、氷室は「すぐに車のキーを取ってくるよ」と、駆けだした。三千円でこの言い様。生活のレベルが知れたかもしれない、と思った。


 氷室の住居は二階。エレベーターを使うよりも、階段で行くほうが早い。オートロックではなく、誰でも出入り可能なマンションだ。彼が息せき切って下りてくると、美優はエントランス内の集合ポスト前で待っていた。

「それじゃ行こうか」

「本当にすみません」

 車内では、お互いさっきのストーカーについて触れなかった。

 氷室が当たり障りのない、単身赴任ならではの苦労話を展開すると、美優は、両親がなにかとうるさい、実家暮らしの話で対抗した。氷室の持論によると、すべての女性はお喋りで、話したいときだけでなく、気持ちを落ち着かせたいときにも口数が増える。少なくとも彼女はそれに当てはまる。本来の彼女は明るい人なのだろう、と思った。

 美優のほうが詳しく知る土地まで来ると、あとは彼女のナビゲーションに従った。

「ここで?」

「ええ、ご迷惑をおかけしました。本当に助かりました」

 松阪駅近くのコンビニの駐車場で、美優は降りていった。

 彼女はすぐ前の交差点を渡っていった。向こう岸でこちらを振り返ると、また深々と頭を垂れた。

 それに片手を振って返した。

 せっかくなので、氷室は弁当を買おうとコンビニへ寄った。雑誌のコーナーから外を見たが、もう彼女の姿はどこにもなかった。


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