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会社に自転車をあずけ、久居駅までは徒歩で行く。近鉄名古屋線の津駅で降りて、そこからはタクシーを使った。
運転手に店の名を告げると「少し前にも、三人組を乗せていったところですよ」と、どうでもいい情報を教えられたのち、タクシーは雑な運転で伊勢街道を北上していった。
目的地の海楼亭へは十五分ほどだった。
ちまちまと移動手段を替えずに自分の車で来たかったのだが、飲酒は避けられないだろうと思っての遠回りだ。彼の頭の中は、すでに帰りのことを考えていた。
耳に意識を集中すれば、志登茂川のせせらぎが聞こえてくる。こんな所だったか、と氷室は一瞬不安に駆られたが、船木彫りの看板を見上げて、間違いないと頷く。
そこへ、海楼亭の店員に見送られて、女性客が一人出てきた。
ごちそうさまでした、と軽く会釈して振り返ったのは、丸山女史だった。
「丸山さんも来ていたのか。もう帰るの?」
氷室が声をかけると、彼女の背筋がぴょんと伸びた。店員に向けていた笑顔も消える。
「――ええ、なんぼ専属秘書やっていうたかて、いち社員なんやから、仕事が終わったらさっさと解放してほしいですわ」
失笑――彼女の関西弁を久しぶりに聞いた気がする。
「そんなことより、氷室さん」声をひそめて言った。「佐々ちゃんが、筋肉バカと付き合うことになってしもたんですよ」
「え、渡辺くんと? どうして、いや、どうしてはないか。う~ん」
氷室は口に手をやって、噛むように頷いた。
「あんなゴリマッチョに攻められたら、佐々ちゃんが壊されてしまいますやん」と陋劣な物言いに続けて「ええんですか?」と、言う彼女の目が血走っていて怖い。
「いいもなにも……」と言いよどんで、彼女から目を逸らし「どうせすぐに別れるよ」とてきとうに返した。
氷室は、それでも丸山女史がまだ睨んでくるので「そういうのは仕方ないだろ」と宥めにかかった。
すると彼女は「氷室さんのせいですやん!」と怒って踵を返した。丸山女史は酔っているようだ。
上司とか年上なんてイニシアティブは、肌を重ねたときの試合内容によって消し飛んでしまう。彼女は佐々岡で遊べなくなるのが相当つらいのだろう、と氷室は解釈した。
氷室は彼女が帰っていく様子を、しばらく眺めていた。彼女は一度躓いてバランスを崩したが、怒りにまかせて地面を蹴り、スタスタと歩いていった。辺りはビルの照明で比較的明るい。どこまで歩いていくつもりなんだろうと気になったが、これからの自分よりはマシだろう……と海楼亭へ入っていった。
店の大将によく似た女性店員に荒木か原田と名を告げると、すぐに奥の座敷へ通された。
襖の向こうには、三畳ほどの空間に四角い木のテーブルと、座椅子が四つ。荒木と原田は奥側で向かい合って座っている。
「どうも遅くなりして」
「おお、思ったより早かったやないの。私らは冷やでいただいとるんやけど、氷室さんは何にしはる?」
原田が自分の隣へ氷室を誘った。
「同じで、いえ、とりあえずはビールがいいですね」振り向いて、店員にビールの中瓶を注文した。おしぼりで手を拭いながら「今そこで、丸山さんに会いましたが」
「ああ、ここんとこ調子が悪いみたいやったんで、たまにはと思ぅて連れてきたんやけどなぁ」
荒木は原田を一瞥する。「あんまり付きあわせても逆効果やし、ここでは寿司だけ食わせて帰らせたんや。――それにしても、あの子はなかなか嫁に行かんなぁ」
「そんなこと聞かれて、うちの裏番長は怒らせたら、あとが怖いさかいな」と原田。
「番長の富山でも、丸山くんは避けとるみたいやし」ダッハッハ……と荒木支店長は笑い上げた。
オヤジらしい会話がそのあとも続く。
ビールを持ってきた店員は、最初の一杯だけを注いで部屋をあとにする。またすぐ違う店員が、氷室の分の寿司下駄を持って現れた。
たったこれだけで六千円かと文句をつけるのは無粋であるし、もっと高級な寿司屋はいくらでも存在する。氷室は、ガリまで残さず食べてやろうと思った。
それからしばらくは今日の点検内容と報告書の話をしていた。
「それで、なんや相談事があるんとちゃうの?」と話題を振ったのは、原田だった。
それにコクッと頷いて見せた氷室は「じつは、今年いっぱいで、私に移動命令が出ます」と切り出した。
本社行き、地方行きにかかわらず、このグループ内では、役付きの者に出向任期途中で移動命令が下ることはない。その意味を、彼らはもちろん知っている。昨今の新入社員がほいほいと辞めていくのとは、わけが違うのだ。二人は頬を擦ったり頭を掻いたり、それぞれに氷室の言葉を吟味していた。
やがて、お猪口をくいっと空けて溜息をついた、荒木支店長が言った。
「いったい、何を仕出かさはったんや?」
氷室はできる限りさらりと、妻と離婚したことを二人に報告した。
通常だと、それで職を追われることにはならないので、自分の浮気が原因であることや、その妻というのが、大前田という実力者の一人娘であること、自分の立ち位置を加えて話した。
荒木物産のM&Аで直接交渉にあたったのは、大前田氏である。この二人が知らないはずはないので、実力者云々の説明は省いても良かったが。
荒木と原田はポカンと口を開けて、聞いていた。二人にとって氷室の話は青天の霹靂といった感じだったのだろう。
離婚を理由に解雇されることはないので、会社にしがみつくという選択肢もある。そう言うつもりだったかもしれないが、大前田氏の名が出たことで、各々の表情はあからさまに渋くなっていく。大前田氏のやり口を、味わったことのある者たちの沈黙だった。
「大前田さんか……」
荒木が呟いて、腕をきつく組んだ。
「あの人やと、そうやな……」
原田の額には(そりゃ、どうにもならん)と書いてある。
せっかくの酒の席で、支店のツートップに解決策を練ってもらうのも忍びなく思い、氷室は自分の中で出ている結論を言った。自分がもう留まることを諦めて、これからのことを考えていると。
それを聞いて、荒木が徳利を突きだすと、原田も真似た。氷室は二杯分の冷酒を呷って、けろりと頷いて見せた。
もう一献注文しようかというときになって、荒木が訊いた。
「氷室さんを呼んだって言うたら、丸山が急に帰り支度を始めよった気がしたんやけどな。――もしかして、相手は、その……うちの丸ちゃんか?」
氷室は二重に驚いて、顔の前で手を振り否定した。
「そしたら、もしかして佐々岡さんかいな?」
氷室の頬は引きつった。この二人に疑われているようでは非常にマズいと思った。
「いえ……。社内じゃないんです。えっと、それに佐々岡さんは、営業のキ、渡辺くんとくっ付いたという噂があります」
原田は一瞬目をむいたが、荒木の酔眼はなおも氷室を訝った。
氷室は「遅くなった日がありまして……」と兵藤の話に触れないように、美優との経緯を搔い摘んで話した。
そんなことまで喋る必要はない。しかし、二人には聞いてくれそうな温かさがあり、氷室には同情されたいような願望が残っていた。




