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「そんなことはせんでいい。するなら……」

「すでに美和には! それで、袖にされたというか、なんというか」

「――そうか。まぁ貴文くん、頭を上げなさいよ」

 氷室は顔を上げたが、目線を炬燵テーブルに落としたまま言った。

「一回の過ちで、もう駄目なんでしょうか」

 しばらく考えをまとめるような間が空く。

「そうだな、一回はちょっと厳しいな。でも、ここにはちょくちょくと女性が何人か来ているそうじゃないか。さっきのお嬢ちゃんが教えてくれたぞ。

 まあ、わしもスリーアウトチェンジなんて考え方を持っているんだがな」


――美優と丸山女史と佐々岡で三人だ。が、丸山女史と佐々岡はセットみたいなもんだから、二回じゃないのか? 無理があるか……。絵美里ちゃん、余計なことを――

「それは会社の同僚で、その、引っ越しを手伝ってくれたお礼に……」

 大前田氏は顔の前で手を振って、笑みをこぼした。

「あぁ、いい、いい。――そうだな、美和はそういうのが駄目かもしれん。とにかく、もう一緒には暮らせない、とわしに言ってきたんだ。旦那が地方で少し火遊びした程度だろう。男だったら云々と言ったら、今度はわしが怒られた」

 氷室は正座する太ももに手を置き「すみません」と呟いて、肩を強張らせた。

 大前田氏はまた手を振った。


「あれの母親が中学生のときに死んだことは聞いているだろ?」

 大前田氏の目を真っ直ぐに見て、首肯する。

「入院中の妻が危篤に陥ったとき、わしは出張中だったんだ。今みたいに携帯電話もなくてな。ポケベルが鳴ってな。そこから電話を探して、それから会社に電話して、病院に連絡を取って……。

 まぁ、携帯電話があっても結果的には同じだったがな。――とにかく急いで駆けつけたんだが、すでに遅かった」

 氷室は返事をせず、頷くだけにした。

「あのときの美和の目は忘れられんよ。なんせ、わしを仇のような目で見てくるんだ。ひとりで心細い思いをして、わしに裏切られたように感じたのかもしれんな。――貴文くん」

「はい」

「昨日の美和は、そのときと同じ目をしていたぞ」

 説教ならいくらでも聞く。間に入ってなんとか収めてくれないか、と氷室はまだ義父に甘えていた。続けて大前田氏が「これで、お終いにしないか。離婚届は持参してきた」と言うまでは。

 それは命令であり、決定事項だった。


 氷室の頭はその言葉を充分に咀嚼(そしゃく)できていなかった。おもむろに立ち上がり、夢遊病患者のようにテレビ台の横の抽斗を開けた。そこから、ボールペンと印鑑を取って戻ってくると、ふわふわとしたままサインした。

 大前田氏は、それを大事そうに大判の封筒へしまい、立ち上がる。氷室には立って見送る気力が残っていなかった。


「それと、今年いっぱいで本社への転属辞令が出る。残念ながら、氷室くんのポストはないがね」

 氷室は夢から醒めたように驚いて「お義父さん! それとこれとは、別の話じゃないですか」と、片膝を立てた。

 大前田氏は手のひらをかざして怒鳴りつけた。

「わしの大事な娘と孫を裏切ったんだぞ! どこの部署のどの席に座れると言うんだ!」

 氷室は金縛りになったように動けない。

 それから静かに「あの家を出たら、きみには何も残らないだろう。慰謝料とか養育費なんてものは言わなことを約束させるよ」

 氷室は腕にぐっと力を込めて「いえ、父親として翔太の養育費は、きっちり払っていきたいと思います」と絞り出した。

 大前田氏は、じっと氷室を見て「次の仕事が上手いこと見つかったらな」と言い、部屋を出ていった。



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