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二号室の前には、先ほど挨拶へ伺った三号室の千田さんがいた。
「あら、そっち?」
ええ、と頷いて、ちょっと、と濁した。
千田さんは手に持った皿をちょいと掲げる。なぜ僕が一号室から出てきたのか、は気にならないようだった。
「お腹、減ってると思って多めに作ったの。もう夕飯は済ませちゃったかなぁ? まぁ、美味しくできたからちょっと食べてみてよ。若いんだから、いくらでも入るでしょう?」
受け取った皿にはラップがかかっていて、それが白く曇っている。それでも何となくコロッケだとわかる。正直にいうと、めちゃくちゃ嬉しい。
「――えっと、ありがとうございます」
何とかお礼の言葉を絞り出したけれど、ぐいぐいと迫ってくる千田さんには閉口した。
とりあえず食べ物で釣っておいて、最終的な狙いは僕の体だろうか……。年齢はとても聞けないけれど、だいぶ年上だろうし、初めての女性が子持ちというのは、僕の人生設計から外れている。
「こんばんは。千田さん」
僕たちの会話が聞こえていたんだろう。遅れて出てきた氷室さんが、僕の背後から声をかけた。
「なになに、歓迎会でもやっているの? それとも送別会かしら」
千田さんは僕の横をすり抜けて、氷室さんと向かい合った。
「ちょっとした歓送迎会だよ」
氷室さんが一号室のドアを大きく開けると、千田さんは当たり前のように上がっていった。
僕は皿を持たされて、ただ突っ立っていた。皿から伝わる温もりが物悲しい。
氷室さんが、どうかした? と訊くような顔をしてから、首を部屋の中へクイッとやった。僕は頷いて、一号室へ戻っていった。
「この船はこれで完成なの? 前に見たときとあまり変わってないようだけど」
「これで完成という形はないなぁ。完成したくないというか、なんとでもなるんだよ。最近は全く触ってないような気がする。まぁ元々生活費の節約と時間潰しで始めたものだから」
二人は帆船模型の前にいたけれど、僕はとっくに炬燵に着いて胡坐をかいていた。
「ここも荷物がないと結構広いのよねぇ」
「川上くんにだいぶ持っていってもらったけど、千田さんも何か持っていく?」
彼女は首と手を同時に振った。
「私の所はいっぱいいっぱいよ。逆に物を減らさないといけないくらいだもの」
千田さんがようやく僕の斜向かいに座り、氷室さんは新しい缶ビールとグラスを持ってくる。
僕はすでに皿のラップを捲っている。小判型のコロッケが扇を広げたように重なっていて、肉なしの焼きそばが中央で小山になっている。小分けできる皿をきょろきょろと探したけど見当たらなくて、それを氷室さんに言うと、
「コロッケを一つ貰うよ。腹減っているんだろ? あとはどうぞ」と、コロッケを一つ摘まんでいった。
続いて僕はいちおう千田さんの顔を窺う。彼女が微笑んで頷いたので、全部が僕の物になった。踊る心は隠さない。――いただきます! と久しぶりに合掌した。
「まだ越して来て半年くらいでしょう。やっぱり出ていくの?」
「賃貸契約が会社名義だったからね。個人名義に書きかえればいいだけなんだけど、もう少し広い所へ引っ越すことにしたんだよ」
やっぱりリストラなのか? 何で千田さんが、そんなことを知っているんだろう? とにかく、あまり聞いてはいけないような気がして、僕は懸命に食べていた。それでも一つの炬燵に着いているわけだし、耳に入ってくるのは仕方ない。
グラスをぐっと煽る姿を、彼女は悲しげに見つめていた。歳も近いだろうし、二人はお似合いだ、と思った。
グラスが空になると、千田さんは横からすかさず注ぐ。そんな行為と間合いを、氷室さんは自然と受け入れている。すでに二人はデキているのか……。
ふと、目が覚めると、電波が目に見えるようになっていて、僕の部屋を右から左、左から右へと、氷室さんと千田さんのこっ恥ずかしいメールが飛び交っている。メールは電話機から電話機へ直接飛んでいくわけでもないのに――。
そんなくだらない想像をして、僕はほくそ笑んだ。そんな単純な中年カップルじゃないと知ったのは、もう少しあと。
二人の話が暗い方向へ落ちていくので、僕はわざと大きく息をついて「ごちそうさまでした」と笑顔で言った。
千田さんは目を丸くする。「食べるの早いわね」
氷室さんはチョンチョンと口を指差して、ティッシュを箱ごと押して寄こした。
「……ところで、絵美里ちゃんは?」
「テレビ。これ飲んだら、そろそろ帰らなきゃ」
千田さんは残りをぐいっと飲み干して、立ち上がった。
「そうそう。空き缶はまとめといてくれたら、私が出しておくから。じゃ、お邪魔しました」
皿をすくい上げ、サンダルを引っ掛けて忙しなく帰っていった。
そうか……ゴミの分別も、これからは自分でやらなきゃいけないのか。
「いい人ですね」
「はは、飯に釣られた? まぁ何ていうか……。うん、いろいろと世話好きな人だよ」
「へぇ、そうなんすか」いろいろと? どうしても下卑た想像をしてしまう。
そんな表情を悟られないうちに話題を変えた。すぐにシマッタと思ったけれど、僕は「氷室さんて、半年前に引っ越してきたんですか?」と言っていた。
「そうだよ。まぁいろいろあったんだよね―」語尾を伸ばしながら立ち上がった。キッチンへの扉を開けた所で振り向いて「川上くん、日本酒は?」
「あ、いや、はい。何でも」
「んじゃ、ちょっと腹が冷えてきたから、燗にするよ」
普段ビールしか飲まない僕はすぐに赤くなった。顔には出るが、泥酔するまでにはまだだいぶ余裕がある。そこそこ飲めるようになったのは、劇団の人たちのおかげとでもいっておこうか。
とにかく氷室さんが喋って、僕が聞き役。
それからの長い話は、今年の夏頃に氷室さんがストーカーから女性を救った、というところから始まった。