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「うわ! びっくりしたぁ」

 ドアを開けた美和は、上半身裸の男がいきなり目の前にいて、声をあげた。

 しかし、もっと驚いているのはやはり氷室のほうで「なんで……」と呟いて、喉を詰まらせた。

「話は聞いていたけど、本当に狭いわね。パパ、奥の部屋はもう少し広いの?」

 きょろきょろと左右の壁を観察する。

 氷室はキッチンの扉へチラッと目をやり、流しへコップを置いた。

「いや、それよりどうして……。来ないって言ってたじゃないか」

「え、ああ、うん。昨日の同窓会が盛り上がっちゃって、そのあと二次会にも誘われたのよ。だいぶお酒も入っちゃったし、遅くなったものだから、急遽ホテルを取ってさ。それで、まぁせっかくだから寄ったの。――ちょっとさぁ、突っ立ってないで上がらせてよ」

 美和は靴を脱ごうとして背を向けた。

「い、いや、ほら、今日は日が悪い。えっと、なんだ? おぉそうだ。今日だけは、奥へ行くとママは確実に呪われて死ぬ」

「はあ? なに言ってんのパパ。なんの冗談よ」

 彼女は笑っていたが、ヒールストラップを外そうとして屈むと、動作も笑みも止めた。彼女の顔の角度が、氷室の視線を誘う。その先には美優のパンプスが綺麗に揃えてある。氷室は心の中で悲鳴をあげた。


「なんの冗談よ……」

 スッと背筋を伸ばした美和は振り向くや否や、氷室の頬にビンタを飛ばした。そのまま土足で上がっていき、キッチンの扉を勢いよく開いた。氷室は一瞬出遅れたが、阻止しようとして美和の肩に手を掛けた。

――事態を察知して、吐き出し窓から逃げていてくれ!


「あなた誰よ?」静かな声だった。

 しかし二度目は金切り声になっていた。「あんた誰よ!」

 美和は肩を揺すって氷室の手を外し、ベッドへ大股で歩み寄った。

 美優はタオルケットで裸の胸を押さえ、茫然としている。その美優の頬を、手首のスナップを充分に利かせて張った。湿気を含んだ音が予想以上に大きかった。


「おい、暴力は振るわないでくれ!」

 美和は制止に入る腕を振り払い、返す刀で氷室の頬をもう一発張った。そして、体当たりするように肩で突き飛ばし玄関へ向かった。

「こ、こんな屈辱、初めてだわ! おぼえてらっしゃいよ!」

 そう言い残してドアから出ていった。

 美優は頬に手を添え、限界まで見開いた目で氷室を求めていた。タオルケットは滑り落ち、彼女の裸体が露わになっている。


「その、ごめん。大丈夫かい?」

 頷いたのかどうか、彼女の首はカクッと折れて、視線はベッドのシーツをさまよっている。

 氷室は踵を返し、もう一度「ごめん」と言った。玄関へ向かう。サンダルを引っ掛けて外へ飛び出すと、タクシーが発進するところだった。

――なぜタクシーがこんな所に? 待たせていたのか?


「待ってくれ、美和!」

 すーっと離れていくタクシーに何の躊躇も見られなかった。その後を追ったが、タクシーは嘲笑うかのように加速した。氷室はポケットに車のキーを探す。上半身が裸であることに気づくと、舌打ちして部屋へ走った。

 ドタバタと急いで部屋へ上がると、美優がのろのろと衣服を着けていた。

「来ないって言ってたんだよ。本当にごめん」

 カジュアルシャツに袖を通しながら、早口で弁解する。

 美優は口元を上げ、無理に笑みを作ってから頷いた。その大きな目には涙が浮かんでいる。

 玄関ドアに手を掛けると、背後で微かに声がした。しかし、今はそれにかかずらっていられない。


 氷室は日産ティアナを久居駅のロータリーへ無造作に着けて、すぐ横の階段を上った。ホームへ下り、端から端まで走ったが、すでに美和の姿はどこにもなかった。もう行ってしまったのか、と時刻表を一瞥して唇をかんだ。

 氷室は思いついたようにハッとして、すべてのポケットを漁った。だが、間抜けなことに電話は部屋へ置いてきてしまっていた。兎にも角にも連絡が取れなければ、言い訳も謝罪も何もできない。


 とりあえず、アパートへ戻ろうと思って駅の階段を下りていると、氷室のティアナを訝しんで足を止めている人が数名いる。自衛官の姿まで見えた。近所に自衛隊の駐屯地があるので、ここらでは珍しくない。エンジンは掛けっ放しで、ドアは開けっ放しなのだ。当然だろう。

 それらは氷室が運転席に着くと、チラチラと野次馬の目を残しながら、さっと離れていった。その替わりに、バスの運転手が顔を怒らせてこっちへ来る様子が、ルームミラー越しに見えた。氷室はそれには取り合わず、車を発進させた。追ってくることはないだろうと思ったが、いちおうはバックミラーで確認する。

 すると、公衆電話が目に入って、氷室はロータリーをもう一周させた。


 今度はバスの邪魔にならないように、コンビニの前に寄せて停めた。

 公衆電話なんていつ以来だろう……。だが、そんなに使い方は変わっていないはずだ。変わってしまったのは記憶力のほう。どうにも美和の電話番号が思い出せなかった。昔は十件くらいの電話番号を記憶していたのに、とメモリー機能に頼りきっている自分に舌打ちした。

 氷室は小銭を取り出して投入口に入れると、唯一自信のある東京の自宅の番号を押した。

 なんの変哲もない呼び出し音が鳴っている。

――翔太、電話に出ろ……いや、出るな。

 氷室家の電話は、四回のコールで留守番機能に切り替わった。

「美和、とにかく話したい。帰ったら連絡をくれ。何時でもいい」

 そうメッセージを残して、静かに受話器を置いた。

 車に戻ると、ギュッと目を瞑る。頭に浮かんだのは美和ではなく、美優の顔だった。出掛けに見た表情……。自販機の前で初めて会ったときの……不安でいっぱいの顔だった。

 氷室は頬を両手で挟むようにして強く打った。


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