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渡辺の車はまだ板金屋から戻ってきていない。
この地域の営業マンが、車で移動できないことほどもったいない時間の使い方はないので、渡辺は社用車の使用許可を申請していた。
遠藤課長は「代車は用意してもらえへんたんかいな? ほな、お前の車が直るまで、自腹でレンタカーでも借りてこいや」と言ったそうだが、総務に社用車の許可用紙を届けに来たのは、遠藤である。
しかし原田部長は、使用者欄に渡辺の名があったことで、許可しなかった。それは、友人の息子が短期間に二度の事故を起こすことへの不安なのか、まだ反省が足りないと戒めているのか……。
「それとな、渡辺くんが提出してきた事故の顛末書な。あんなガキの言い訳みたいなもん、本社への報告書に添付でけへんで。何してたん遠藤くん、ちょっとチェックが甘いんとちゃうか?」
普段は見せることのない、厳しい表情をした原田部長が言った。
「その、申し訳ないです。書きあげたら、一度私に見せに来いと言っておいたんですが……」
ギャップというものなのか、原田が語気を強めると迫力がある。遠藤課長が畏まってしまった。
渡辺はチャチャっとてきとうに書いて、原田部長のデスクに置いていったようだ。
氷室は、そのやりとりを隣のデスクで聞いていた。
あーあー、渡辺くん。可哀相に……と思っていたら、おどおどした遠藤課長と目が合った。
「明日の午前中に、渡辺が行かなあかん得意先っていうのが、以前、氷室部代に手伝ってもろた会社なんですけど……。ちょっとだけ、午前中だけ時間を貰えませんでしょうか?」
遠藤がはにかんだように眉尻を下げて言った。
「そらまぁ、氷室さんが運転するっちゅうなら、使用許可を出さんわけにはいかんけどな」
原田がニヤリと氷室を見る。
――なに言ってんだ、この人たちは。
次の日の十四時すぎ。
得意先にて企画の提案――もっとこんな感じにしていただければ、売り上げが伸びると思うんですけど……どうですか? やってみてくれませんかねぇ? といったお願いをする――を終えて、氷室と渡辺は少し遅い昼食を摂っていた。
チャーハン大盛り、ラーメン、若鳥の唐揚げ、餃子、ゴマ団子。これだけを、氷室より小柄な渡辺が一人で食うのだから、彼の食欲は旺盛といわざるを得ない。氷室は野菜炒めとごはんを注文していた。餃子の王将に来るとついビールが欲しくなるのだが、もちろん我慢している。
「……なんだかんで、営業課以外で一番先に様子見に来てくれたんは、佐々岡さんやったんっすよねぇ」
あ、餃子やったら二個くらいええっすよ。
「へえ、そうなの」
唐揚げを一個くれよ。
「以前に何人かで食事に行ったときも、こっちをチラチラと見てくるんすよ」
――その量に、その食い方。とくに女子はびっくりするだろうね。
「あそう」
「どうも、俺に気があるような感じがするんすけどね」
――おれ? 口の利き方がなってないな。べつに気にしないけど。
「なに? 告白しようとか迷っている感じなのかい?」
「ほら、俺たちって歳も同じですやん? 話とか合うんすよね」
――知らねえよ! 知ってるけど……。
「きみは、清田さんと原田さんに睨まれているように見えるんだけどね」
「そうなんすよ~。あの二人がいるから、三階へは行きづらいんすよねぇ、ちょっと邪魔っすよね~」
あ、これチクらんといてくださいね。
ああ、わかってるよ。
――職場で大切なのは、ホウレンソウ。報告、連絡、相談だ。ふふ、チクってやろう。
「いきなり二人っきりってのは、佐々岡さんも嫌がりますよね。最初はやっぱ、三対三ぐらいがええんですかねぇ?」
「いやぁ、どうなんだろう。僕は佐々岡さんのことをよく知らないから……」
交際の事実を周知させるカップルは多くないにしても、社内結婚は多い。その始まりに立ち会っているような気がして、氷室は複雑な思いでいた。嫉妬はしていない。それは確認できたような気がする。そうすると、どうしても丸山女史のことを考えてしまう。彼女の反応が見てみたい。ふと、氷室はそう思った。
それにしても……。
自分が運転手をしていることについて、渡辺から何も言ってこないことが気になった。原田部長の憂惧が移ったような感じさえしている。ついでに、全国で百万人以上いるとされている、渡辺姓の人、みんな嫌いと思った。




