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「少しの間、一緒にいてもらっていいですか?」
女性はしきりに周囲を気にしていた。
氷室が訝しんで首を捻ると、自販機の灯りで彼女の額の汗が光った。熱帯夜、理由はそれだけではないだろう。そんな様子からこれはただ事ではないと感じたが、同時に、面倒なことに巻き込まれくないと思った。それなのに、氷室の声帯は「どうかしたの?」と発していた。仕事終わりにでも、部下から相談事を持ち掛けられたときと同じような口調だった。
仕事帰りの電車内――ふと、携帯電話の画面から顔を上げると、向かいに座る男と目が合った。こちらはすぐに俯いて逸らしたが、どうにも、男のほうがずっとこちらを見ているような気がした。無意識に膝でも開いていたか? こんなことはよくある。一つ咳払いして姿勢を正すと、じろじろ見るな、と彼女は心の中で毒づき、男を無視した。
しばらくするとアナウンスが流れて、視界の端に、向かいの男が立ち上がる様子が窺えた。
次の駅で降りるんだ、と胸を撫で下ろしたのも束の間。電車が再び走り出してから車内を見渡すと、さっきの男が少し離れた座席から、こちらを見ていた。
その男の目と口元には微かな笑みが浮かんでいた。
途端に首筋に走る悪寒。気のせいだと自分に言い聞かせるほどに、嫌な予感は増していった。
居た堪れなくなったタイミングと、電車のドアが開くタイミングがマッチして、彼女はさっと立ち上がり、逃げるように電車を降りた。いつもより二つも手前の駅だった。
そこまで聞いて、氷室は表情を歪めた。彼女にではなく、その男に同情していた。
氷室がここへ転勤してきて間もなくの頃――帰宅途中にそんな経験をしている。
あるとき、前を行く女が、氷室を振り返って、何の脈絡もなく睨んできた。舌打ちするような顔つきを残し、走り出したことがあった。
――いったい私が何をした?
こちらはというと、ただ呆けて立ち止まってしまう始末。
そのときの、妙に腹立たしい気持ちがぶり返してくる。
あのときは……。
おそらく女は急に屁がしたくなって、後ろにいる私に悟られまいと距離を取ったのではないか、とか、自分が一緒に走り出して後を追ったら、この女はどうするだろう、とか、さらに追い抜いていったら……などと空想して、笑い飛ばしたのだが――。
氷室は鼻を鳴らして、自販機の角から路地へ顔を出した。目の前の灯りが邪魔で、来た道は見えにくかったが、手を翳し目を細めて凝視すると、氷室の顔は一変した。
「うわぁ、確かに何かいるねぇ」
言ってから、後悔した。彼女が見るからに身を硬くして震え出したからだ。偶然だ、気のせいだ、あれは近所のおばさんだ……咄嗟にフォローする言葉が浮かばない。
「じゃぁ、しばらく一緒に行くよ」
逡巡したあと、氷室がそう言って微笑むと、女性はやっと顔を上げた。自販機の無機質な電灯が、彼女の憂いを増大させている。浮かぶのは、ちょっとでも揺すれば、すぐに泣き出してしまいそうな表情。自分もたぶん同じような表情をしているのだろう、と思った。
氷室は、見てくれだけは立派だが、一方的に殴られたことはあっても、殴り合った経験はない。五月頃に行われた会社の健康診断では、タンパクが下りていると診断され、そのうえ、肩、腰、膝に痛みが出始めている。こんな自分でも、今の彼女にとっては頼れる楯に見えるのだろう。夜道を一人で歩くよりか、幾分かだけは……。
空き缶をゴミ箱に落とすと「それじゃ、帰るとしようか」とはにかんだ。
彼女は無言で頷く。
安全なシェルターから久しぶりに外出するように、二人して自販機群から顔を出した。
まだいる……。距離にして約三十。ゴミ集積所と電柱の間で、壁を背にして立っている。こちらの顔が見えると、途端にしゃがみ込み、何やら靴紐を結び直しているような素振り。
なんだ、そのベタな演技は。じつは大した奴ではないのでは、という気がしてきた。
腕も肩も組まずに、二人は歩き出した。
「あの、氷室です」
彼女が一瞬、ぽかんと氷室を見上げた。
「私、上川美優といいます。変なことに巻き込んじゃって、ごめんなさい」
美優はあたふたと髪を指で梳きながら言った。語尾は、周囲を賑わせるカエルの声に負けていた。