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 義父の家をあとにして、隣へ帰っていく。

「もう! 無駄にデカいんだから」と言う美和は、氷室の背中を何度も突いた。

 よっこらせ~と、ダイニングテーブルに着くと、水の入ったコップを荒々しく目の前へ置かれて、それをちびちびと飲んだ。

 氷室は、大前田氏がボソッと言った「一度裏切った奴は、また裏切るよ」について、美和に叱られながら考えていた。

 さっきの話の流れからだと、それは兵藤のことを指していた。

 しかし、氷室にはそう思えなかった。大前田氏と兵藤が顔見知りである可能性が低いからだ。ならば、一般論として、こんな奴には気をつけろよ、という話なのだろうか。それだけであるなら、返答は「ええ、そうかもしれませんね」で終わるのだが……。


 氷室が大前田氏に苦手意識を持つのは、なにも義父であるとか、元上司だということだけではない。一番は、頭の回転が鈍い奴だ、と思われたくないのだ。だから、アルコール抜きで彼と話すときは常に臨戦態勢であるし、言われた言葉の意味は吟味する。

 世の中には、少々馬鹿だと思われるくらいが一番楽な生き方だ、と諦める人が多い。氷室もそのタイプだが、なぜか大前田氏にだけは見放されたくなかった。(君ならわかるだろ。君ならできるだろ)と、言われているうちだけが華なのだ、と思ってしまう。

 しかし、そんな氷室の努力も、美和から告げ口されているようならば、無駄になる。それに気づいたのが、今だった。やっと冷房が利いてきたせいなのか、肩の荷が下りたように感じたせいなのか……。氷室はスーッと楽になったような気がした。


「――パ! パーパ! 聞いてんの?」

「は、はい?」

「ハン、何がハイよ……。昼間っから飲んでたら、その日一日が潰れちゃうじゃない。それより……」

 美和は、氷室の顔の前に手のひらを差し出した。

 氷室は仰け反った。「なんだよ? ――ああ、土産はないよ」

「違うわよ。引っ越したんだって? さっき、美奈子と会ったのよ。なんで妻の私が、後輩の美奈子から、パパが引っ越したことを報されなきゃいけないわけ? 美奈子、私が聞いてないって言ったら、すごく勘ぐっていたわよ。もうずっと半笑いで……。ああ、腹の立つこと! もぉ、なんでちゃんと言っといてくれないかな。フゥ、ほら、合鍵。早く出しなさいよ。それと、住所も」

「合鍵は、作ってないよ。どうせ来ないんだろ」

「スゥ――ど、どうせって、パパがちゃんと言わな○△$◇¥□▽しょー!」

「ああ、ああ、わかったって。作ってくるよ」

 美和は肩で息をついて、懸命に抑えているようだった。

「――ついでに、支店の方へお土産とか、そういうことちゃんとしないと、ますます孤立するわよ」

「べつに、孤立してねぇよ」

 氷室は立ち上がって、リビングへ行った。ソファで横になると「ちょっと、酔いを醒ましてから出掛けるから」と言って、目を閉じた。


 大前田氏は、ワインのボトルを持って氷室家の庭先に立っていたが、大きく頷くと、踵を返した。

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