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部屋のレイアウトに非凡な才能を発揮しようにも、荷が少なすぎて。
僕は座椅子に納まり、炬燵で脚を伸ばしていた。先ほどから空腹を感じていたが、インスタントラーメンもなければ、鍋もない。自炊するという宣言はただの言葉で、その準備から覚悟から、何一つ整っていない。コンビニが近くにあることだけは確認済だ。でも、出掛ける気にはなれなかった。目の前にあるのは、三号室へ持っていく予定のマドレーヌ。たぶん、最初から僕の腹に入る運命だったのではないだろうか? 誰も見ていないのに、そうっと引き寄せて、包み紙のセロハンテープを剥がし始めた。
すると、絶妙なタイミングで三号室から物音がする。思わず舌打ち。僕は半分剥がしてしまったテープを指で擦ると、立ち上がった。
開いたドアから顔を覗かせたのは、小学生くらいの女の子で、すぐ脇のキッチンに立っていた母親とよく似ていた。どちらかというとブサイク枠だが、初対面の僕に明るい笑顔を向けてくれた。
その子の母親と、先ほどと同じような挨拶を淡々と交わして、マドレーヌを名残惜しそうに渡した。思いの外、母娘とも喜んでくれて、少し気が晴れた。この一Kに母娘二人か。頭に離婚の文字が浮かんだが、大きなお世話でしかない。
寒空の下、玄関ドアを開け広げさせ続けるのも迷惑な話なので、早々に辞去した。
部屋へ戻ろうとしたとき「川上さん」と呼ぶ声があって、僕は辺りを見回した。すぐに、氷室さんだとわかった。が、同時に溜息が漏れた。
氷室さんは、誰かに車で送ってもらったようだった。ダンボール箱を両手で抱えて、運転席の人に浅くお辞儀していた。
車を見送ったあと、僕のほうへ小走りにやって来て「スマンね。今から、どう?」と訊いてきた。
僕は断るつもりで「もう、腹がペコペコで。どこかへ食いに出掛けようとしてたんですよ」と言った。
「それならちょうどいい。食材も片付けてしまわないといけないから、うちに来なよ。カップ麺なら沢山あるし」
それは……欲しいかもしれない。
氷室さんの着替えやら諸々のことを考えて、では十五分後に、と話がついた。
恥を忍んでお湯も貰おうと一号室を訪ねると、すぐに中へ通された。
まず目に飛び込んできたのは、一メートルはあろうかという帆船模型だ。その向こうの壁に大海原の写真が掛けられていて、疾走感を演出してあった。部屋の広さは十畳ほどあるので、所狭しとまで思わないけれど、邪魔だと言えば、邪魔。僕がそれに意識を取られていると「まさか、それは要らないよね」と先に言われた。苦笑いして、すばやく二回頷いておく。
「今ここにある物は、本当に何でも持っていっていいからね。これなんかどう? 持ってる?」
広げた手の先には、コーヒーメーカーがあった。そういう必需品外の電化製品に、衝動買いをするときの心躍るような気持ちになって、僕の顔がぱぁっと開く。
「マジでいいんっすか。俺、これから自炊しなきゃとか思ってたんっすけど、本当に何にも持ってないんっすよ。助かります」
「ハハ、そうなの? こっちも助かるから、遠慮しないで。もしかして、包丁やまな板もないとか?」
「はい!」
ウケた、というか呆れられて、炊飯器から風呂掃除セットまで、あれもこれも二号室へ運んだ。それも手伝ってもらって。これは初日からラッキーだとしか言いようがない。これだけの物を、例え中古品で揃えたとしても、諭吉さんが何枚飛んで行くかわからない。なるほど、挨拶は大切だ。氷室さんには本当に感謝しきりだ。
「これぐらいかな。じゃ、一号室で少し飲もうか」
「そうですね……」
途端にテンションが下がった。僕は所謂ゆとりと呼ばれる世代だけど、ここまで良くしてもらっておいて、それはちょっと、と邪険に突っ撥ねられるほど、ドライじゃない。
ただ、気になったのは、氷室さんが帰宅したときに抱えていたダンボール箱。今はキッチンの脇にポンと置かれているけれど、中からは何かの書類やら文房具が飛び出ている。詮索するわけじゃないが、ついついリストラなんて言葉を思い浮かべてしまう。それは近からず遠からず……じゃないだろうか。暗い身の上話になるのだけは勘弁してほしいんだけど……。
昨日はお別れ会と称して、劇団の人たちに弄られながら飲んだ。今夜もということになったけれど、昨夜と違うのは肴がしみったれているところ。チーズ鱈とサラミだけというのが、空腹に鋭く突き刺さる。
氷室さんとの歳の差を考慮して、なるだけ明るく地元の話を展開していると、小さくチャイムが鳴った。
「川上君の部屋だろ?」
本当によく聞こえる。ここの住所を知っているのは、今のところ家族だけだけど。
「誰だろう? ちょっと見てきますね」ゆっくりと立ち上がって玄関に出た。