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氷室が目覚めたのは昼になってからで、当然、隣のベッドにいたはずの妻は、すでにいない。
スリッパをペタペタと鳴らして一階へ下りていくと、ダイニングテーブルに置きっぱなしだった、携帯電話のランプが点滅していた。――メールだ。さっそく開いて読むと、翔太を車で送っていくとの旨が書かれていた。そういえば、夏期講習会だとか言っていたか。それにも全く気づかなかったということは、自分はよほど熟睡していたようだ、と思った。
氷室は冷蔵庫から麦茶を取リ出して、喉を潤した。あまり冷えていなかったが、これはこれで美味い。食パンにバターをひと切れ載せて、電子レンジへ放り込む。洗顔。パンを食って食器を片して、コーヒーを淹れる。
リビングに行って、吐き出し窓を開いた途端、むっとした空気に襲われた。それには、死にもの狂いとも思える、ジィージィーとミィンミィンという競い合うような唸り声が付属している。氷室はそれらに気圧されるようにソファへ座り、部屋の一点を見つめてしばし放心した。
もう、することがない……。
ふと我に返って、頭を働かせようと努力した。
せっかく自転車に目覚めたのだから(たったの三日前からだが)荒川の土手をサイクリングしてみようか。目的地は……そう、最寄りの模型店だ。ここから一番近い店舗だと、どの辺になるかな? 専門店がそんなに都合よく近所にあるわけがないか……。あんまり遠ければ熱中症になってしまうかもしれないし。……と、どんどん弱気になってくる。
そこで氷室はふと思った。――もう帰ろうか。
ここが氷室の家なので、厳密にいえば帰るというのはおかしい気もするが、彼の頭に浮かんだ言葉が、そうだった。
土曜日といえど、今から出発すれば、暗くなる前までにはアパートに到着することができる。そうすると、日曜日はゆっくりと模型製作に没頭できるはず。それとも、もっと遅くに出て東名高速ナイトクルーズはどうだろう。季節的にはそれもいいような気がする。
氷室は着替え、ゆっくりと準備を整えて外へ出た。すぐ横のガレージにある、車に鞄とスーツを放り込むと、運転席に回った。
背後からダチダチと水を撒く音がしている。その音は玄関を出たときから聞こえていたのだが、それが、だんだんこちらに近づいてくる。あまり会いたくはなかったが、無視するわけにもいかないので、振り向いた。
「お義父さん、ご無沙汰しています」
「おぉ、貴文くん。帰ってたのか」手元で放水を止めた。
「ええ、昨日の報告会に出席しまして」
氷室はリモコンで車をロックして、大前田氏に近寄っていった。
「それはご苦労だったな。――にしても車で帰って来るとは珍しいな」
大前田氏はリールのハンドルを回し、偏らないようにホースを巻き取っていった。そのしゃがんだ後ろ姿を見ていると、どこにでもいるような痩せ型の老人だが、氷室からすると、義父という立場も合わさっているので、なかなか苦手な人の部類に入るのだ。
「せっかくの夏休みですし、翔太をどこかへ連れていってやろう、と思ったんですけど」
「なるほどな。でも翔ちゃんは、塾の夏期講習で忙しいんだろう?」
男同士ということで、てっきり義父は、こちら側に立っているものだと思い込んでいた。夏休みぐらいは遊ばせてやればいいのに、と同調してくれるものだと。
「そうみたいですね……」
大前田氏は呻きながら立ち上がり、氷室と正対する。
「それより、貴文くんに、ひとつ言っておこうと思っていたことがあるんだがね」
大前田氏が一瞬、険しい顔つきになったのを見逃さなかった。自分が、何か怒られるようなことをしたのだろうか、と氷室は咄嗟に身構えてしまった。
「えっとっと、それは、何のことでしょう?」
大前田氏からふっと笑みが零れた。
「まぁまぁ、こう暑くちゃかなわん。うちに来ないか?」
疑問口調になっているが、それは命令みたいなものだ。
そのまま、義父のあとについて、隣家へお邪魔する。
大前田家は、玄関を開けた所から、すでに冷房が利いていた。一階部分はぶち抜きでダイニングリビングが一つの部屋になっている。補強のためか、太くて丸い柱が部屋の中央ラインに沿って二本あり、ちょっとしたパーティー会場のようになっている。
無類の酒好きだった大前田氏は、一人暮らしになったのを期にリフォームに着手し、太い柱の一つに、ぐるりと一周するバーカウンターを備え付けた。夜ごと誰かを招いては、マスターを気取っているようだ。
氷室も幾度か招かれて酒を酌み交わしている。ちなみに、以前に空けたブラントンも、じつはこの義父からの贈り物である。「商談事に、ここを使ってくれていいんだぞ」とは言ってくれるが、心情的においそれと使わせていただくわけにもいかず、もっぱら大前田氏の腹心が集う場となっている。
「まあ、掛けてくれ」と言われて勧められた場所は、やはりカウンター席だった。
氷室は促されるままに腰掛けて、義父がカウンターを回り込む様子を目で追った。同時に、今日中に帰るのは、断念せざる負えないと思った。
「あれ? お義父さん、また改築されましたか?」
大前田氏は手を洗いながら、ニヤリと口を歪めた。
「最近はワインに凝っていてな。これを設置するために、少しカウンターを広げたんだ」
とんと手を置いた場所に、仰々しいワインセラーがあった。
話がある、と言うのは誘い文句で、じつはこれを見せたかっただけじゃないのか、と氷室は思った。
大前田氏は嬉しそうにワイングラスを二つ出してきて、綺麗なのに、さらに布巾で磨いて置いた。その仕草をも楽しんでいるようだった。
やがてグラスに赤い液体が注がれ、まぁ飲んでくれ、というように手のひらを差し伸べた。
氷室はペコッと頭を下げて、グラスを回した。何周させるとかはわからなかったが、ひと口飲んでから、また回した。それは、ぬるっと喉を過ぎてから鼻に抜けた。背筋に震えが走るようだ。
うおっと笑って「これは、濃いぃですね」と顔をしかめた。
「ブラマーレ マルベックのな」瓶のラベルを見て「マルキオリ、ビン……ヴィンヤード メン……メン? メンドーサだ」と言って、大前田氏は照れた。
彼も、銘柄はまだ勉強中のようだった。
幾度かの乾杯で、大前田氏は外へ出きて、氷室の隣に座った。
一本のマルベックが空になると、とりあえず一番手前の一本をまた持ってきて、スポーンとコルクを抜いた。また高価な物なのだろうが、訊かないでおいた。グラスを回して空気を含ませるなんて作法は最初のうちだけで、今は、お互いのグラスにドボドボと注いでいる。要するに飲めれば何だっていいのである。
大前田氏は上機嫌だった。時折、氷室の飲みっぷりを見て、横でうんうんと頷いている。その目は遠く過去を見ているようだった。
氷室と美和は、大前田氏の画策で出会い、結婚している。
当時、大前田氏の胸の内には、三人の娘婿候補がおり、どれも似たり寄ったりということで、決めかねていたようだ。
そんな中、大前田氏は三人の候補者を一同に自宅へ呼び、会食を催した。その立ち振る舞いを、美和に観察させて、選ばせようという腹だったようだ。美和と氷室たちは何も報せれていなかった。
初めて伺った次期社長候補のリビングで、候補者の三人はただ恐縮して、勧められるがままにグラスを空けた。美和もただの同僚として、甲斐甲斐しく料理をふるまい、馬鹿話に興じていた。
やがて、度を超えた者から潰れていった。訳のわからない行動を取りだしたのは氷室で、突如、大前田氏をおぶって、ヒンズースクワットを始めた。
それのどこら辺に、氷室の株が急上昇した理由があったのかは不明だが、その後、招待されるのは氷室だけになった。
だいぶ酔いが回ってきた状態で、ふいに大前田氏が言った。
「ワシのところへ、上半期の入退職者名簿が回ったきたんだがな。――貴文くんは、兵藤武彦という奴を知っているのか?」
氷室の速くなっていた鼓動は、さらに速度を上げた。




