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 原付のスクーターは快調だったが、体のほうがへこたれた。徒歩なら汗ばむような恰好をして出てきたのに、走行中の体感温度が想像を超えていた。助けを求めるように津新町の駅近くで天ぷらソバを食べ、その店の裏に積み上げられていたダンボールを拝借して、ジャンパーの下に風防として潜り込ませた。


 のべ二時間ほど冷風に晒され続けてたどりついた新居は、田圃と狭い道路に挟まれて建っていた。築二十年、鉄骨二階建てで、一Kのアパートだ。部屋数は十。外観はチョコレート色をしているが、汚れているわけじゃない。最近、塗り直した、と不動産屋が言っていた。

 不動産屋が鍵を置いて帰っていったあと、僕はビニールに包まれたままの布団に突っ伏した。今夜からは一々布団を敷いて眠ることになる。それもいつまで続くかはわからないが。

 カーテンを吊るさなきゃならない。電気とガスに電話しなきゃならない。やることをやってしまってから、ゆっくりするほうがいいのはわかっているけど、少しだけ……。僕は仰向けになって、天井を見つめた。

 室温はひと桁だろう。それでも、原付でずっと走ってきた僕からすれば、ほんわかと暖かく感じられた。そんな感覚が危ないことは承知している。いきなり風邪をひいたら格好悪いし、自己管理が何とかと、また係長に弄られそうだ。だから眠ってしまわないように、目は開けていた。


 どこからか、足音。そしてドアが閉まる音がした。

「ほら、やっぱり全然片付けてないじゃない!」

 玄関で姉貴がそう言った、ような夢を見た。体を捻って解しながら起きあがる。

 上の住人か? 結構、響くものだな……。キッチンで顔を洗い、手を伸ばした所にタオルはない。まだ寝ぼけていた。

 のろのろとダンボール箱をバラしにかかる。洗面具などから所定の位置に置き始めて、ふと思った。上の住人が在宅なら、先に挨拶を済ましたほうがいいか。


「最低でも、上下と両隣と大家さんで五つ。大家さんへは、ちょっと良い品をよ」

「今時、そんな律儀な奴がいるのかよ」

 姉貴に言われたから用意したわけじゃないが、手土産はここに来る途中で、ちゃんと買ってきてある。じつは寒さに耐えきれず、暖を取った折に思い出したんだけど。

 ここは不動産屋の管理物件で、大家はどこの誰だかわからないし、僕が二号室なので下はない。それで三つ用意した。クッキーみたいな、ケーキみたいな……何だかわからないが、五個入りで九百円もした。美味いに決まっているだろう?

 さっそく髪を整えて、僕は、確実にいる二階の七号室へ向かった。


 どうにも、上の住人は無口な奴だった。毛布を和服のように羽織り、帯で腰辺りを縛っている。やたらと埃っぽい男だ。彼が発した言葉は「あぁ、どうも」だけ。だから名前はわからないままだ。

 一旦、二号室へ戻って挨拶の品を持ち、三号室へ。――が、こちらは不在。男か女かもわからないが、ただただ面倒くさい。そのまま一号室へ行って、呼び鈴を鳴らした。


 一号室から出てきたのは、アラフォーの男性。背が高く、真面目そう、という印象を受けた。場末の散髪屋に貼られたポスターのカットモデルみたいな、昭和のハンサムといった顔だ。


「隣の二号室に引っ越してきた、川上です。ご挨拶に伺いました」

「氷室です。よろしく」

「これ、つまらないものですが」

「これはご丁寧に、どうも。あぁこれ、ネッツォのマドレーヌだよね。結構好きなんだよ。ありがとう」

 僕はそれを食ったことがないので、どんな物なのかわからない。ただ、喜んでもらえたようなので、これで正解だったと思う。

「わからないことがあれば、何でも聞いてよ、と言いたいとこだけど、じつは明後日には、ここを出るんだよね」

「へぇ、そうなんすか」べつに、どうでもいいけど。

「そうだ! うちにまだ残っている物は全部処分するんだけど、欲しい物があったら、どれでも持っていっていいよ」

 僕は返答に困って、曖昧な笑みを浮かべた。日用品を、知らないオッサンのお古を貰うというのは、どうだろう……。


「ただ、これから出かけなきゃならないもので。う~ん、夜の八時以降なら帰っているはずだから、もう一度来てよ」

 えぇ、はぁ、と相槌を打っている間に、そういうことになってしまった。


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