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正彦という不動産屋の息子が、すぐにでも準備して見積もりに伺うというので、氷室は駅へ急いでいた。
どうせウチに来るのなら、その車に同乗させてもらっても良かったのではないか、と思いついたのが、久居駅の改札を抜けてからで、ホームに立ち、腕時計と時刻表を照らし合わせて、肩を落とした。
陽は暮れていたが風がないので、だいぶ蒸し暑い。電車を待つ人たちの顔が、皆同じように疲れを表している。氷室はハンカチを取り出して、首筋を拭ったり扇いだりしていた。
そこへ氷室の携帯電話が鳴った。
ポケットからさっと取り出し、二つ折りになったそれをパカッと開くと、画面には(佐々岡)と表示されていた。
――また何かのトラブルか。今から会社に戻れ、というのは勘弁してほしい。いやまて、たしか佐々岡は自分よりも早く会社を出たのではなかったか。
どうにも嫌な予感がするので、このまま出ないでおこうかと迷っていると、周りの数人が氷室を訝しんでくる。それで彼は仕方なく応答した。
(丸山ですぅ。今、佐々ちゃんと中原駅にいてるんですけど、氷室さんのマンションへは、どう行ったらええんでしょう?)
――なぜウチに来るんだ? そんな約束はしてないだろう。
(もしもし、氷室さん? もしもーし)
「こっちは久居駅のホームだよ。今から電車に乗るところだけど。君らは何でそんな所にいるんだい」
(ええ! まだ会社を出たとこですか)
「ちょっと寄る所があって、まぁ不動産屋だけど……それで今帰り。それより、ウチに来るつもりなの?」
(ええっと、佐々ちゃんが、どうしてもって……あ、ちょ……)
丸山女史と佐々岡が何やら揉めているようだ。彼女らのやり合っている図は、なんとなく浮かぶ。
氷室にとって、二人が一番近しい女子社員だということは間違いない。
しかし、上役に対する礼儀のことで注意できないのは、若い女子社員に媚びるようでおかしい。もし仮に、今そのことを咎めれば、彼女らはどういった態度を示すだろうか? しゅんとして自分から遠ざかっていくに違いない。そんな彼女らの姿を眺めて、サディスティックにほくそ笑む。
……ナシだな。そんな趣味はない。無駄な長考だった。その証拠に、悪い気がしないでいる自分がいる。これは必要な接待だ。そう思うようにした。極々個人的な職場環境改善ではあるが。
「あと三十分くらいでそっちに行けるけど。君ら、晩飯はもう済ませたの?」
(まだでーす。お待ちしておりま……すみませ……もぉ!)二人の声が混じっている。
電話はよくわからないまま、切れた。
氷室はひとり噴き出して、周囲から白い視線を浴びた。
電話をしまうと、またすぐにそれが震えて鳴った。彼は、佐々岡が非礼を詫びようとして、再度かけてきたのだろうと思った。ポケットから取り出す。画面を見ると、そこには(上川 社長)と表示されていた。
――タイミングが悪い。
(今から……都合つきますか……)
美優は電車の中からかけているらしい。久居駅のホームだと告げたときに、電車がようやく来るのが見えた。氷室は電話を切って、ホームの庇を仰いだ。声の感じだと、深刻な相談ではないらしい、くらいはわかる。
電車が停車すると、美優が顔の前で手のひらをぴらぴらとさせて、降りてきた。
「氷室さん、今日も一日お疲れ様です」
「やあ、仕事帰り?」
美優に微笑みかけながら、並んで電車へ乗り込んだ。彼は座席のポールに掴まり、美優はドアを背にした。
氷室はすぐに、なんでも屋の話をした。
「――言って、その日のうちに来るって凄くないですか?」
「迅速をモットーとしているのか、暇なのかはわからないんだけどね。なんか、不動産屋の計略に引っ掛かったような気がしないでもないけど」
そして、会社の同僚が押しかけて来ていることも話した。
彼女は微笑んだのち、ゆっくりと元気をなくしていった。
「じゃあ今日はご迷惑ですね」美優が俯く。
「迷惑ってことはないけど、会社の人だから……」
どっちが迷惑かなんていうのはわかりきっている。氷室は、自分が美優を支えたい、と感じていることに気づいていた。彼女の言動から見ても、好意を持ってくれていることは明らかだ。ただ、それに応えるには、自分は真面目すぎると思った。ここらで留めておくのが正しいはずだと。
美優が俯いたまま髪を弄っている。ふと、この雰囲気を何とかしなければ、と氷室は思ってしまった。
「新しい部屋に荷物が届いたら、部屋の片付けやなんかを手伝ってくれるかい?」
「あ、ちょっと待ってください」
彼女は鞄に手を入れてごそごそとやりだした。その間が少し長かったので、氷室は自信を失っていった。そうなると、嫌な想像が頭をよぎる。
(はあ? お前アホけ? なんでアタイが、ワレの引っ越しを手伝わなあかんのんじゃい、ボケ!)
美優からの返事が最悪だった場合に備えて、氷室は、漆喰の典子さんバージョンでシミュネーションした。自分が傷つかないように予行しておくのは、彼が昔からやっていたことだった。
「これ私の名刺です。まだ原稿の段階ですけど。今、知り合いの間で、名刺を作って交換するのが流行ってて」
「ああそうなの。うん、じゃあ僕の名刺も渡しておくよ」
氷室は名刺入れから一枚抜き出して、彼女に手渡した。
「う~ん。普通に真っ白で四角いやつですね」
「はは、そりゃそうだよ」
ふいに美優が顔を寄せた。
「ここにメールアドレスも載せてますから、引っ越しの日時が決まったらメールしてくださいね。謝礼は晩ご飯でいいですよ」
氷室の胸は年甲斐もなく高鳴った。
やがて、電車は中原駅に到着した。
氷室が目を見開いたのは、ホームのベンチで二人が待っていたからだ。
佐々岡と丸山女史は、氷室を見つけて手を振った。立ち上がって、彼の乗る車両に近づいてきた。
――タイミングが悪い。なぜホームにいるんだ。
「じゃあ、メールするよ」
氷室は早口に言って、ホームに降り立った。
「すみません。お疲れ様です」
佐々岡は、普段は束ねている髪をほどいて、眼鏡を外していた。
「たった三十分やけど、やることがないと長く感じるわ~」
丸山女史は関西弁になっていた。「これ持ってもらってええですか?」
「これは?」受け取って中を覗いた。
「佐々ちゃんが、氷室さんのために美味しい料理を作るって、張り切ってしもて……。さぁ帰りましょう!」
佐々岡に目をやると、彼女の顔はすでに茹っている。
そんな彼女の手を引いて、丸山女史はとっとと歩き出した。
氷室の背後で電車が発車する。後ろは振り向けなかった。




