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 泥んこになった野球のユニフォームを着た少年たちが、自転車で走っていく。

 テレビなどでは、よく少子化問題が取り沙汰されているが、この地域は子供が多い。つい先日も、市内に新しい小学校が建ったくらいだ。また、前から別の子供たちが駆けてくる。その大きな荷の雰囲気からすると、剣道少年なのだろう。警察署の格技場へ向かうのか、それとも、近くにそんな施設があるのだろうか。その子たちは氷室とすれ違ったあとも、走るスピードが衰えなかった。陽も暮れて、だいぶ涼しくなっているとはいえ、羨ましいほどの持久力だ。

 それに引き替え、氷室は小料理屋(鶴丸)へ向かって、とぼとぼと歩いている。黒のポロシャツに、ベージュのスラックス。足元は通勤にも使っている革靴で、運動には適さない恰好だった。


「はい、いらっしゃい、どうぞぉ。――あら、氷室さん? いつもスーツやのに、一瞬誰かと思いましたやん」

「ハハ、今日は休みなもので」

 氷室が私服でこの店に来たのは初めてではないが、そこは、まぁ挨拶の延長みたいなもの。

 すぐにビールが出てきて、まずはそれをぐっと空けた。


「今日も暑かったですなぁ。んで、何にしはります?」大将が包丁を拭きながら訊いた。

「鳥で、あっさりした物がいいです」

 大将は軽く目線を上へ巡らせて「あいよ」と返す。

 女将さんが、Tシャツとエプロンという恰好なのに、袖口を押さえるような仕草で、氷室の前に小皿をトンと置いた。今日のお通しは、ゴボウの極細切りを鳥の巣状にして揚げた物の中に、高野豆腐の角切りが盛り付けてあった。


「今日はこないだの子と、一緒ちゃいますの?」

 隣の席の常連さんが、ま、ま、一杯と、氷室へ中瓶を傾ける。

「あの子は会社の部下でしてね。あのときは、偶然、電車が一緒になって、奢らされただけなんですよ」嘘は半分くらいだ。

「部下にあんな別嬪さんがおったら、ワシやったら仕事にならへんけどな」

 ナイスなツッコミが思いつかなくて、適当に笑っておく。

「なんぼ奥さんと離れてるっていうたかて、浮気なんかしたら、すぐにバレるさかいな。気ぃつけんとな」女将さんは大将に向かって「あんたは去年ので、何回目やったかいな?」と言った。

 大将は振り向いて、ムスッとした。

「女っちゅうのは、終わったことをいつまでも、しつこぉ言いよりますわ」と言って、春菊とササミの和え物をカウンターへ置いた。

「へぇ、氷室さんは単身赴任かいな? そりゃ羨ましい。遊び放題ですがな」

「いや、まぁ……そうでもないんですがね」

  

 女将さんがふんと鼻を鳴らして見上げた先に、テレビがある。天井の角に固定してある。

 女将さんは「あ、これ。捕まったん?」と言って、テレビに近寄った。「ちょっとお客さん、ゴメンな。音量上げますぅ」と、リモコンを手に取った。

 テレビには、大阪で起きた一家惨殺事件の続報が流れている。容疑者逮捕の文字があって、レポーターの上擦った声とともに、フードを被った男が捜査員に挟まれて歩く姿が繰り返されていた。

 そのニュースは常連さんたちへの話題提供程度のこと。


「この家の長女の元交際相手やて。やっぱりな」

「警察に何度か相談してたらしいで。これ、ストーカーってやつやろ」

「家の人まで、みんな殺さんでもええやろに」

 店の方々で感想が出る。

 画面がスタジオに切り替わると、容疑者の顔写真が大きく出た。三十一歳とあるが、写真は学生服を着ている。

「えらい男前やんか。こんなモテそうなんでも、ストーカーになりよんやな~」女将さんが言った。

 氷室はテレビから目を離して、ビールを飲んだ。美優をつけていた男のことを考えていた。

「こういうモテてきたような奴が、ちょっと思い通りにならんことがあると、やってしまいよんのとちゃうか?」常連さんの一人が言う。

「あぁワシ。全然、モテへんで良かったわ」

 店がドッと笑った。

 違う話題に移ると、テレビの音量が戻された。

 女将さんたちと常連さんは、まだ先ほどの容疑者の動機について推理し合っている。女将さんが怖いわ、と言うと、大将が、ストーカーにも選ぶ権利がある、と失言して張り倒されていた。

 和やかな雰囲気の中、氷室は大皿の何品かに箸をつけ、最後にお茶漬けを貰った。

 そして時刻は、まだ二十時。氷室は一人笑えずに、店を出た。


 こんな時間でも、駅を通り過ぎると途端に寂しくなる。歩行者は疎らで、時折、車が向かって来る程度。(スクールゾーンにつき徐行)という看板が、いたる所に立てられているが、この一方通行に進入してくる車は、だいたいが飛ばしている。ヘッドライトが皆上向きになっているので、氷室はその都度、目を眇め顔を逸らせた。

 そして、また一台の車がやって来た。しかし今度のは、少し氷室のほうへ寄っている。彼は電柱に隠れるようにして脚を止めた。その車を視線で追い、舌打ちして向き直った。

 またマンションへ向かって歩き出したが、その脚はぎこちなく震えた。さっきの車が照らした先に、あの男がいた。まさかな、と思った。が、疑念は簡単に拭えなかった。


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