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-20-  模型店

 

 氷室は昼前に車でスーパーへ行って、いろいろと食材を買い込んだ。それを冷蔵庫へ放り込んで、昼食はベーコンとほうれん草で中華風の何かを作って、簡単に済ませた。

 それから、ここ一週間で溜まったワイシャツにアイロンをかけ、部屋を掃除し、新聞に目を通して、やっと模型の製作に取り掛かった。

 なにぶん毎日触れていないので、製作はまずは埃取りから始める。毎回のこの作業を面倒くさいと思ってしまうあたりは、まだ模型への愛情が薄いといえるのかもしれない。

 最初のうちは、部屋に掃除機をかけるついでに、アタッチメントのブラシでやっていた。あるとき、細かなパーツを吸い込んでしまい、ゴミの塊からほじくり出すといった苦汁を味わってから、専用の刷毛で丁寧に行っている。

 ハンドクリーナーを併用し、刷毛をサカサカと動かしながら、何とかならないものかと思案に暮れた。

 二時間ほど製作に没頭して、舳先の細かな部分を手掛ける前に一度休憩を取った。コーヒーを淹れ、ネットで解決策をちょいちょいと検索して、氷室は模型店へ相談しに行くことにした。


「やっぱりエアモーリシャスですね。今はあの3BのNBMを製作中なんですが、窓の材質をプラから、透過率五十%のグレーガラスに変更しましてね。あと……ほら例のあれ。尾翼のトレードマーク。あの赤いラインを一日かけて、何度も引き直したんですよ。いや~あのカーブラインには、ほんと参りましたよ。とにかく、仕上がったら店に展示しますんで、見に来てくださいよ」

 店主は下手なパントマイムを使って、楽しそうに解説した。

 例のあの尾翼、と言われても困る。せめてその画像を見せてくれれば、調子を合わせてやることもできるのに、と氷室は愛想笑いを繰り返していた。


 さんざん旅客機と戦闘機の話を聞かされたのち、本題に入ると、氷室の悩みは一分で解決した。ディスプレーケースに入れるのが一番良いが、製作途中ということで、厚手の専用ビニールカバーを勧められた。

 

 専用のビニールカバーは四角く折り畳まれ、ビニールのケースに入って売られている。レジを通したときに、店主がそれをまたビニール袋に入れようとしたので、氷室は要らないと断っていた。おかげで、これには持ち手がない。見た目より重量のあるそれを抱えて歩くと、抱えているほうの腕はすぐに汗でヌルヌルとしてきた。

 氷室は小さな商店街を抜け、バスに乗った。

 車内は閑散としている。それでも、冷房と陽射しの強さがちぐはぐな感じがして、息苦しさをおぼえた。降りたときには、やはりほっと息をついた。しかしバス停から家路を急ぐと、すぐに冷房が恋しくなってくる。太陽が年々大きくなってるのではないかと思うほど、暑い日だった。

 

 やっとマンションに到着してポストを開けていると、田中が駐車場へ直接出られる、横の鉄扉から入ってきた。暑さのせいか、パチンコで負けたのか、険しい顔つきだった。

 田中は氷室と目が合うと「あ、ども」と軽く会釈した。同様にポストの裏蓋をチョイと開けて、雑に閉めた。お隣同士なので、二人は並んで階段を使った。


「あいつ、まだ怒ってんのかなぁ」氷室の後ろで、田中が言った。

「奥さん、凄かったねぇ。田中さんが何かやらかしたの?」並んで共同廊下を歩く。

 田中はすぐに頭を横に振った。

「ノリッペがポストを覗きに行って、帰ってきたと思ったら、いきなりっすよ。なんか、うちのポストに変な手紙が入ってて(おい、これはどういうことだぁ!)って……」

「手紙?」

 田中は溜息をつくように頷いた。

 氷室の部屋の前まで来たときに「あ、なんだったら見ます? ちょっと取ってきますよ」と言った。

「べつに見たいわけじゃないって」と言ったが、田中は小走りに帰っていった。


 その手紙とやらを読んでしまえば、何かしらの意見なり、感想なりを言わなければならなくなる。そうなると、自分も田中宅の夫婦喧嘩に巻き込まれてしまう。田中は年配者を味方につけよう、と考えているのかもしれないが、二対一でも、あの漆喰の典子さんには勝てそうな気がしない。

 ビニールケースを持ったままの左腕が、ちょっと前から怠くなってきている。氷室は仕方なく、田中宅のドアの前で立っていた。


「なんだテメェ! それをどうしようってんだよ。証拠隠滅しようとしてんじゃねえぞ。コラ!」

「そんなことしねえよ! ちょっと貸せって言ってるだけだろ。隣のオッサンに見てもらうだけだって」

――いやいや、聞こえているよ。それに、隣のオッサン、は口が悪いだろ。

 氷室はドアの前で頭を掻いた。完全に巻き込まれた、と思った。


「いいから、ノリッペは出て来んな!」

 田中の後ろで、ドアがゆっくりと閉じていく。その隙間から典子さんがちらりと見えたが、意外にも泣いたような痕が、目の下にあった。


「すんません。コレなんすけどね」

 田中が差し出してきたのは、四つに畳まれた紙。広げてみると、何の変哲もないA4サイズのコピー用紙だった。その中央に、赤い文字で縦書きにタイプしてあった。フォントは二十八くらい。

 氷室は文字を読んだ瞬間、それを引き裂いてクシャッと丸め、ポケットに突っ込んだ。

 え? と呆気に取られている、田中の肩に強く手を置いて、

「君に心当たりはないんだろ? じゃあ、怒鳴り合うようなことはしないで、もっと淡々と諭せよ。しょっちゅう、くだらないことで喧嘩してるみたいだけど、ここの住民だって本当に迷惑しているよ。奥さんに信用されないのも、君が普段からちゃんとしていないからだろ。これから子供が生まれたらどうするんだ。そんな、いがみ合う二人の姿を見せ続けるのかい。もっと、しっかりしろって、な?」


 続いて、氷室は田中宅のドアを力任せに開けた。

 玄関先で盗み聞きしていた、典子さんを上から一瞬睨みつけ、

「本当に心当たりがないみたいなんだ。いつものはどんな火種か知らないけど、少なくとも今回のだけは、誰かの悪戯だと思うよ。奥さんもわめき散らす前に、まず静かに旦那さんの話を聞きなさいって。一方的に怒鳴るだけじゃ、そのうち、旦那さんは安らげる場所を失ってしまうよ。それで、どうなるかはわかるよね。いいかい?」

 典子さんは目を見開き、キョトンとしている。

 氷室は田中の肩を今度は軽く叩いて、部屋へ戻っていった。


 リビングへ行き、先ほど破いた紙を取り出すと、ソファに浅く腰掛けた。コピー用紙をガラステーブルの上で元通りに並べて、じっくりと見る。 


『ミューチャンニチカツクナ』

 氷室は夕飯の支度をする気がなくなった。

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