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「せっかくの休みなのに、いつまで寝てるつもりなのよ!」
昨夜、ひと月ぶりに妻と話したからだろうか。夢の中の美和に起こされた。
せっかくの、だからこそ寝ていたいという気持ちが、なぜわからない。氷室は目を眇めて時計を見た。七時を少し過ぎたところ。リモコンを探しあて、冷房を切ってから、もう一度眠った。
「……よ! ……ない!」
次に起こしてくれたのは、よくわからない女の声。どこからするのかも曖昧で、途切れ途切れに、ほとんど語尾しか聞こえない。
――時刻は十時。二度寝は最高に気持ちいいが、そこから、ふわっと自然に目覚められなかったことが残念だった。
氷室はのっそりと起き上って、壁に耳を当てた。それから、ダイニングを通って玄関へ。声は外の廊下からだった。どこかの女が怒鳴っている。
ドアスコープを覗いてみると、そこには男がいた。角度的にはっきりしないが、おそらく隣の若夫婦だ。
「どこの誰なんだって聞いてんだよ。この野郎!」
少しだけしか見えないが、相手は奥さんだろうか。巻き舌になかなかの年季が感じられる。
「だからぁ、さっきから知らねえっつってんだろ」
若旦那のほうも頑張ってはいるようだ。氷室の部屋の前まで押されてきたことを考えれば、かなり劣勢なのだろう、と思う。――何にせよ、はた迷惑な話だ。
氷室夫婦も、ふとしたことが切っ掛けで、言い争いになったことは何度もあった。最近の(……最近とは言えないか)一番新しいのでは、息子の進路についてだ。
翔太を有名私立へ通わせたいという妻に対して、氷室は地元の公立中学校でいいじゃないか、と反対票を投じた。そのときは隣の若夫婦のように罵り合うことはなかったが、お互いにヒートアップしていった。
結局、翔太自身の意思を尊重させる……なんて、もっともらしい意見に落ち着いたのだが、もうそうなれば、結果は見えていた。息子が美和に逆らえるわけがないのだ。当然、受験させることになって、氷室は単身赴任者になった。
翔太に転校するときの負担を強いてしまうことを思えば、氷室は最初からそのつもりだった。ただ……(家族は一緒にいるべき、だからついて行く)と、妻や息子に言われて(いやいや、たった三年じゃないか。独りで行ってくるよ)なんていう、嬉し恥ずかしな流れの途中経過が欲しかった。
氷室は顔を洗って、歯を磨いた。その間も、外はまだ続いているようだった。新聞を取りに行きたいと思った。……しかし、この状況では何とも。
そして、リビングへ行ってテレビを点けようとしたときだ。
「おい、馬鹿! 止めろって!」突然、若旦那が怒鳴った。
氷室は、奥さんが手摺りを乗り越えようとしているでは、とそんな想像して、玄関のドアを開けた。
「田中さん、うちの前で何やってんですか!」
見ると、若旦那が奥さんの両手首を掴み、防御に徹している。奥さんは腕を拘束されながも、蹴りを繰り出していた。三人は顔を見合わせて動きを止めた。
奥さんは、いつもの漆喰壁のようなヤンキーメイクだった。「離せよ!」と悪態をついて、若旦那からプイッと顔を逸らし、氷室をひと睨みして帰っていった。奥さんは怒りに任せて、ドアをバンッと閉めたかったのだろうが、あいにく、このマンションのドアはクローザーが強力で、ふわ~っと閉じるようになっている。
田中は太腿の辺りを擦りながら、ほとほと困ったといった様子。
「どうも、うるさくしてすんません。ノリッペのやつが、急に訳のわかんないことを言ってきて、いきなりブチ切れたんすよ。俺は本当に何も知らねぇっつうのに……」
漆喰の典子さんが怒りだした理由に、興味がなかったわけでもない。が、今それを尋ねることには、気が引けた。
田中はペコッと頭を下げて、部屋へは帰らず、エレベーターのほうへ歩いていった。
氷室は集合ポストへ新聞を取りに行くためだが、田中のあとを追う形になった。




