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自販機の前で水を飲んでいた。どこかに寄り掛かりたかったが、ワイシャツが汚れそうなので立っていた。左手にあるのは、五年ほど愛用しているヘルツの通勤鞄と、背広の上着。いくら酔っていても、どこかに置き忘れないという自信がある。手のひらの感覚自体が真面目なサラリーマンになっているのだ。
週明けからは、また多様でつまらない業務が始まる。三年という定められた赴任期間で、おそらく自分が何かしらの功績を残すことはないだろう、と思う。失態を冒さない。これが一番重要だと言われているからだ。
営業企画室、室長――予定ではあるが、これが本社へ戻ると同時に、氷室へ与えられるポジションだ。義父、つまりは妻の父である大前田氏は、そこの相談役として、定年を迎えたにもかかわらず居座っている。氷室の帰りを待っているというわけだ。
ここで立ち止まると、つい後ろを振り返ってしまう。美優はあれから何事もないだろうか? 氷室はペットボトルを潰して、歩き始めた。
氷室は帰宅してすぐに、パンツ一枚の姿になった。
ストンと落としたズボンは蹴り上げるようにして拾い、上着と絡めてダイニングの椅子の背もたれに放った。キッチンの流しに頭から突っ込んで、水を被るとスッとする。それで少し冴えてきた脳に、微かな違和感があった。
抜け毛に注意しながら、ソフトに水気を拭った。振り向いて首を傾げ、タオルの隙間から部屋中を回視した。
「もぉ! ちょっと、パパ。脱いだものを、すぐそこら辺に放るのは止してよね。翔太が真似るでしょ。あの子が部屋を片付けないのって、絶対、パパからの遺伝よね」
背広をハンガーに掛けながら、溜息をつく美和の後ろ姿が浮かんだ。
続く自分は、だいたいいつも「ああ、悪ぃ」と口だけで、見向きもせずにリビングへ行って、ソファに沈む。
ふっと鼻から息をついた。
タオルを首へ落とし、背広を手に取って、はたと止まった。もう一度、同じ場所へそっと置いて、また取る。――おかしい。
今朝の行動が頭に浮かぶ。
――遅刻して、会社に嘘の電話をした。
違う。もっと前。
ギャッとなった椅子の脚。
そうだ、背もたれに上着が引っ掛かってて、椅子が斜めになったはず。
「私がきちんと戻すわけがない!」
そして、これは威張って言うことではない。
もう一度、部屋をぐるっと見回した。寝室へ行って、抽斗を開ける。現金を確認。保険証、クレジットカードや免許証は財布に入れて持ち歩いている。――何が足りない?
キッチングッズはどうだ? 風呂場へ行ってシャンプーや石鹸は? そんな物を盗っていく奴はいない。駄目だ……頭が回らない。頭といえば、さっきから右後ら辺が少し痛い。片頭痛というやつか。右後ろというと、何だろう? 今度ネットで検索してみよう――。
氷室は帆船模型の前で、仁王立ちになった。




