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 時刻は二十二時。氷室はいつものように中原駅で降車して、ふらふらと駅を出た。

 電柱に謝ったり、看板にキスを迫ったりしたことはまだないが、ここ数年で急に酒に弱くなったと自覚している。今夜もこのまま道なりに歩いて、歯医者の看板を右折して帰宅する。暑いのか、涼しいのか、その感覚が曖昧になっていた。あの自販機で水を買ったほうが良いと判断できるのだから、まだ大丈夫なはずだ。


 氷室は先ほどまで(濱なか)という割烹料理屋にいた。

 集っていたのは、昨日の朝に支店長室にいた面々。それと、支店長付き秘書の丸山と、経理の佐々岡。丸山女史は、佐々岡が若い女性1人になってしまうことへの配慮参加と思われる。問題の中心人物が顔を出すという話を小耳に挟んでいたが、さすがに出て来られないだろう、と氷室は思っていた。

 氷室の正面の月見障子の向こうに、ライトアップされた庭園が少しだけ見えている。そんな灯かりに、虫が集っていないことが不思議だった。部屋の隅で、紫紺の布に隠れている大きな物体は、琴か。隣からどっと湧く声に拍手が混ざって聞こえてきた。この部屋では、荒木支店長と富山部長以外は、まだ誰も喋っていない。呼ばれた理由は皆が承知しているので、なかなか箸も進まないのだ。通夜の席のようなこの部屋を、仲居が訝しんであとにした。

 各々が手持無沙汰に二杯目を空けたくらいに、やっと荒木支店長が最終結論を出した。


「会社としてはアカンことやろうなぁ。そやけど、告訴なんちゅうことは止めにしたわ」

 荒木は言ったあと、ここにいる全員を見回した。

 氷室と佐々岡以外は、皆がゆっくりと頷いてる。普段なら真っ先に反発しそうな清田部長が頷いているので、すでに話はついているようだ、と氷室は思った。


 いわゆる横領というやつだが、内々の事件だった。兵藤という営業マンの単独行動であり、社外に関連はないとわかった。

 名前を聞いてもパッと顔が浮かばなかったので、氷室は午前の内に社員名簿を検索していた。

 生年月日からすると、兵藤武彦は今年で五十六歳になる。既婚。地元の出身で、グループ傘下に入る前(荒木物産)からの古参組。

 兵藤本人は、時期外れの経理調査と、部長級が揃って睨み合っている雰囲気に、観念したそうだ。それで、夜更けに支店長宅まで出向いての、自白。薄くなった頭に垂れ下がった濃い眉。彼が支店長宅へ向かう姿を想像すると、胃の辺りがしくしくと痛む。

 しかし、同情するのもここまでで、驚いたのはその兵藤への処遇。

 懲戒解雇ではなく、自主退職という形を取り、しかも相応の退職金が支払われる。おまけに今期のボーナスは振込み済ときたものだ。横領という犯罪に手を染めた理由――年老いた母の介護のため。それが支店長の胸に響いたようだった。

 

 荒木の発表を受けて、部長たちは一斉に胸を撫で下ろした様子。さすがに拍手までは起こらなかったが……。それで兵藤という人物が、ずいぶんと慕われているのはわかった。しかし、氷室には納得がいかない。

 佐々岡はどう感じているだろうか。グラスを口へ運び、そっと斜め前の彼女へ目をやると、佐々岡も氷室を見ていた。彼女の表情に怒りや落胆といった色は窺えない。氷室の胸辺りを、ただぼんやりと見ているようだった。


「ちょっと、失礼します」

 氷室は障子を開けて、廊下に出た。全員の視線を浴びたが、気づかないふりをした。

 日本庭園と障子に挟まれた桧葉の縁側廊下。全ての照明は磨り硝子で覆われていて、柔らかい灯かりが足元を照らしてくれる。出入り口とは逆方向へ進み、二つの個室間の前を通りすぎると、行き止まりに、WC、という英語表記がある。何とも惜しいプレートの付いたトイレだ。

 氷室は用を足したついでに顔を洗った。鏡に映る顔は、今朝よりも頬が若干こけているように見えた。

 ペーパータオルで水気を拭っていると、トイレの扉が開いた。

 氷室は後ろを横切る荒木を、鏡越しに追っていた。


「氷室さんよ。ちょっと外まで、ええかいな?」

「はあ」と返事をして、顔を急いで拭った。


 トイレを出ると、荒木がすぐ横のガラス戸を開いて先に外へ出ていた。そこから氷室を手招きする。沓脱石に木製のサンダルがあって、ここから庭園に出られるようになっていた。荒木の足元を見て、氷室もそれに倣った。ムッとする外気に包まれた。それでも緑に囲まれている分、塀の外よりはマシなのかもしれない。

 荒木は煙草に火を点けて、ゆっくりと美味そうに吸った。どう考えてもここは禁煙だろうと思ったが、指摘するのも躊躇われた。


「氷室さん。この街はどうや? もう慣れはったかいな」

 こちらに来て、まだ一年半。だが、すでに一年半も住んでいるのに、今さらだ。氷室はそれに答えずに、言った。

「告訴して話を外に出せば、顧客からの信頼を失い、いずれ何らかのアクションを起こされるでしょうね。当然、うちの業績は悪化するでしょうし、もしそれが、一時的なことであったとしても、大問題です。それ以前に、本社からはコンプライアンス推進委員の一団やって来ます。それでまた時間を取られれば、社員の負担も増えますね。――社員のことを一番に考えての判断だと、私は理解しています」

 荒木は笑顔を絶やさず、煙を空へ噴き上げた。

「まぁ、そういうことにしといてくれたら、助かるわな」

 氷室は鼻を鳴らして頷いた。

「経理は、すぐにでもわしが穴埋めしとくさかいな。それで兵藤君と個人的な貸し借りっちゅうことにするわ」

「そうですか。なるほど」

「氷室さんは知らんかもしれんけど、あの兵藤君はな、荒木物産が倒産の危機に瀕したときに、よう動いてくれよったんやわ。今回のことも、ひと言相談してくれてたら、わしは躊躇なく金を貸したやろうな。あれは、それぐらい信用のできる男なんや」

 横領が発覚してもなお、信用できる、とは? 氷室の頭上に疑問符が生えて咲く。

「さんざん動いてくれた経理と、総務の一部は仕方ないとして、その他の者には報せたくないんやわ。穏便にっちゅうか、内密にっちゅうか……」

「損害なく無事に解決したことですし、支店長のおっしゃる通りで宜しいんじゃないでしょうか」

 氷室は止まったままの鹿威しに視線をずらして、言った。

 荒木は、氷室の肩に手を置いて「すまんな。納得いかへんやろうとは思うけど、頼むわな」と言って、縁側廊下へ上がっていった。


 氷室は、荒木が踏み潰した吸殻を拾い、空を仰いだ。(嘘をつくな!)そう言って、息子を叱ったときのことを思い出していた。


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