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清田部長の帰りを延々待つわけにもいかず、氷室は防災、防火の件で役所へ出向き、帰ってからは、溜まっていた書類に目を通していた。その間に、原田部長の携帯電話が鳴り、今回の件は(支店長預かり)になったと伝えられた。もう誰も動くな、触るな、ということか。
やがて終業時刻が訪れても、支店長らは帰って来なかった。それから一時間もすると、三階のオフィス内は、原田部長と氷室、佐々岡、支店長付き秘書の丸山、この四人だけになった。
原田と氷室は給湯室でコーヒーを淹れてきて、ひと息ついたところ。
便宜上、総務部の所属になっている丸山女史が「今、荒木支店長から直帰すると連絡がありました。私もお先に失礼します」と、帰り支度を始めた。
「あぁ、そうなん? ご苦労さ~ん」
原田は片手で応えて、氷室と目を交わす。
「氷室さんは、これからどないすんの?」
氷室は一瞬、深い意味で捉えてしまった。が、すぐに「二階(営業部)に顔を出したら、私も終いにしようと思います」と答えた。
「そう……。お~い! 佐々岡さんも、今日はこれくらいにしときぃ」
「はい。そう、ですね」佐々岡はそう言って、氷室を見た。
氷室が頷いて応えると、またパソコンへ向かい、画面を閉じにかかっていた。
三階のオフィスが空になるのを見届けてから、氷室は二階の営業部フロアに立ち寄った。本社から新しくテスト配布された商品の受注具合を聞く、という今日でなくてもいい話をしに行った。
氷室がオフィスへ顔を出すと、営業の者はほとんどが出払っていた。個人商店などへの訪問が遅くからになるからなのか、それともこれからに向けて腹拵えの最中なのか。残っていた連中も忙しそうに、パンフレットやらタブレットPCの準備をしている。氷室に気づいたのは、課長だけだった。氷室が足を止めた場所が、偶然にも兵藤のデスク前だったようで、課長は渋面を作って寄ってきた。
「うちの部長から折り返しの連絡がないんですけど、そうとうマズいことになってますんやろか?」
残っている課員に聞かれないよう、課長は声を潜める。
「とりあえず、この件は支店長預かりになったんですよ」
本当は、兵藤がどういう人なのか、と尋ねたかったのだが、今さらという感じがした。そして、課長を見ているうちに、その気は萎えてしまった。富山部長と同じような表情が、課長の顔にも浮かんでいるからだ。それは、兵藤が自分を飛び越えて、支店長に相談しにいったことに対しての怒りと、自分へは明かしてくれなかった、という不甲斐ない気持ちが入り混じったような。
「それで、私もまだ何も聞かされてないんですよ」
「ほうですか……」課長は沈んでいくように背中を丸めた。
「今のところ、何もしようがないですね。兵藤さんへの個人的な連絡も止めましょう」
「はあ」と、返事とも溜息とも取れるような声を出して、課長がますます沈んでいった。
氷室は一応の用向きを伝え、今週中の提出を求めて、オフィスを出た。
時刻は十九時半――。
氷室の待つ、久居駅のホームに電車が入ってくる。ゆっくりと、しかしなかなか停車しない。電車内は混雑しているようだが、朝の通勤ほどではない。そう、だいたいこの時間帯はこんなものだ。氷室は列の一番先頭に立っていた。後ろには六人ほどが並んでいる。――そして、目の前を上川美優がゆっくりと横滑りしていった。
彼女のほうも氷室に気づいたようで、会釈をしようとしたのか、乗降口のガラスに頭をぶつけていた。
氷室は噴きだしながら、その乗降口を追った。




