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二十二時台の電車は、座る席に迷うほど空いていた。
今の職場に出向してから一年半ほど経つが、飲み会など以外でこんなに遅くなったことはない。
氷室貴文は、普段は座れることのない座席に、どっかりと腰を下ろした。わずか三駅の区間だけだが、ありがたいと思った。
今日の昼過ぎ――
氷室が食事を終えてデスクに戻ってくると、係長が、必死なのか怒っているのか、よくわからない顔をしてやって来た。いつもは七三にぴっちりと撫で付けられている髪も、心情を現したように上手く乱れている。後ろには、佐々岡という経理担当の女性社員を伴っていた。
「部長代理! ちょっとよろしいでしょうか。これを見てもらいたいんですが」
係長が突き出してきたのは、幾重にも蛇腹に折られた長いコピー用紙。出入金記録の詳細だった。
氷室は要所をチェックしながら「何か問題ですか」と訊いた。
「ええ、赤でマークしてある箇所なんですがね」
氷室はコピー用紙にもう一度目を落とし、係長の言葉を待った。
「領収書が見当たらないんです。それで用途が不明といいますか……」
「しかし、データを入力したときにはあったわけでしょう?」
「もちろん、そのはずですが」
係長は一歩引いて控えている佐々岡を一瞥して、しきりに自分の耳たぶを擦っている。
氷室は目を細めて、赤ペンでピックアップされた数字をたどっていった。
マークは六か月も前の記録から始まっている。ひと月と飛ぶ箇所や、週に二箇所もチェックされている箇所があった。詳細記録であるはずなのに、出入金先の記載が所々抜けている。
なんと杜撰な経理か。サボり気味の主婦だって、もう少しマシな家計簿をつけているのではなかろうか、と思った。
この会社を買収して、支店とした当初はもっと酷かった……と、そう言っていた前任者の垂れ下がった眉を思い出した――。
リズミカルな振動に身を委ねながら、車窓の向こうの暗い田園を見るともなしに眺めていた。
当然、解決するまでは、こんな調子が続くだろう。まだ発覚したばかりで、再度確認してみるという段階だ。見つかりました、勘違いでした、なんて報告が……そんな淡い期待を胸に、何度も溜息をついた。
氷室は中原駅で降車して、家路を急いだ。
単身赴任なので、三つ年上の妻も、小学六年生の一人息子も待っていてはくれないが、とにかく部屋に帰って、冷房をつけて、ビールを飲んでひっくり返りたかった。暇潰しに始めた帆船模型の製作も、あまり進んでいない。
駅から離れ、五分ほど行くと、周囲に人はいなくなり、ビルも店舗も消える。代わって立派な塀で目隠しされた家屋が、氷室のマンションまでずっと続く。その一方通行の路地を、氷室は毎日駅まで二十分の距離を歩いて出勤していた。
今夜は空に月がない。あちこちからカエルの声が聞こえてくる。
明日は雨かと思うと同時に、晩飯を食っていないことを思い出した。しかし、駅まで戻らないとコンビニがない。脚を止めて、来た道を振り返ってみた。すっと伸びる暗い路地に電線が沿っている。その向こうは冷たく明るかった。遠くに女性が一人。こちらに向かって来ているようだ。氷室はまた自宅マンションへ歩を進めた。
いつもは何気に通り過ぎる何の変哲のない場所だが、今夜は自販機がやけに光り輝いて見えた。数台の自販機が、コの字に固まっている。虫がへばり付くその灯かりを、一旦は通り過ぎた。
氷室は戻って、背広の内ポケットから財布を抜いていた。千円札を投入しようとしたが、ビールの自販機は年齢認証が必要なタイプだった。途端に面倒くさくなって、隣の自販機に目が移る。缶コーヒーを買うことにした。
どんどん近づいてくる靴音が、コツコツコツとやけに忙しない。急いでいるのか、極端に脚が短いのか。さっきちらっと見えた女性だろう。こんな田舎でも、遅くに歩く女性はいるだろうし、気にすることではなかった。
おや? と思ったのは、その靴音が氷室の背後で止まってからだ。そこから動く気配がしない。飲料水メーカーに、よほどこだわりでもあるのだろうか?
クジのピロピロという音を聞きながら、氷室はさっさと場所を譲った。その際に女性へ目をやる。OLふうで、歳は二十代の前半といったところだろうか。
氷室は缶のプルトップに指を掛けた。この場で飲みきっていくつもりだ。
そのときに機械音が鳴った。
「お、当たった」思わず声にしていた。
その女性と初めて目を交わす。驚いたような目が丸くて可愛らしい。会ったことのない人だ、と正面から確認できた。
「えっと、良かったら、どうぞ」
独り言を誤魔化すように言い、自販機に向けて手を広げた。
いいんですか? 二本も要らない。――そんな短い会話のあと、彼女はお茶のボタンを押した。受け取り口に手を入れて、そのまま鞄に落とすと、また氷室に礼を言った。
氷室は澄まして微笑み返し、コーヒーをひと口。そして、沈黙した。
なぜだか、その女性はこの場を離れようとしなかった。
もう一口……。これくらいのことで恩着せがましくする気はないし、話すことなんてないのだが。氷室は彼女に背を向けて飲んでいたが、じっと見られているような気がしていた。それならもっと胸を張って、腰に手を置いて飲んだほうが、恰好よく見えるかもしれない。
「あのっ!」
突然、女が上擦った声を上げた。
氷室はグビリと飲み込んで、少し咽た。