コップス・パーティー 〜彼らの復讐宴〜
この屋敷の主人はコップの扱いがひどい。
ある日のこと。
「お茶でございます」
メイドが麦茶の入ったコップを、主人が座る正面のテーブルに置く。「ありがとう」とだけ言い、主人はまた新聞に目を通し始める。
この屋敷にはメイドが三人と主人の一人しかいない。
そんな静寂が占める屋敷で、新聞を捲るカサカサとした音だけが響き渡る。
「ふぅ」
一通り目を通したのか、新聞をテーブルの上に置き冷たい麦茶が入ったコップに手を伸ばす。
豪快に煽り、飲み干したそのコップを──
投げた。
ぽいっという擬音がつきそうな軽い投擲。緩やかな弧を描き、質の良さそうな絨毯に落ち──ガシャン。当然割れる。
それを見て、一つため息をつくメイド。それに気づかない主人はアイマスクをつけて寝始めた。なんとも豪胆な男である。
絨毯の上に散らばった元コップの残骸を、一つ一つ、手が傷つかないように拾っていく。そんなメイドの胸中を占めたのは、『諦観』であった。
またある日のこと。
別のメイドが、足りなくなったコップを買い出しに出ている最中。
珍しくも主人がコップを投げずに、しかも自分でキッチンまで持ってきた。
「お呼びくだされば、わたくしが取りに行きましたのに」
そんなメイドの声も無視。
そして主人が洗い物溜めのところにコップを置こうとしたその瞬間。
投げた。
シンクでコップが跳ね、割れる。
メイドが目を剥く前で、大した表情の変化も見せず主人は元の位置、テーブルの前の椅子へと戻る。
結局割られてしまったコップを、メイドはため息をつきながら掻き集めた。
またまたある日のこと。
その日は少しだけ違った。
結果を見れば、また主人がコップを割った、となるのだが、この日コップを割ったのは主人一人ではない。
メイドの一人が、溜まった疲労からコップを取り落としてしまったのだ。
重力に従い落ちるガラスの塊はもちろんガシャン。
そこまでは良かった。問題はその後だ。
普段しないようなミスから、メイドはひどく取り乱し冷静ではいられなかった。
慌ててコップの破片を掻き集めて指を切り、さらにはその現場を主人に見咎められてしまった。
その時のメイドの心中たるや、想像などできない。
主人は何を思ったかメイドに近づき、その肩をポンと叩き──
食器棚に並べられたコップを横薙ぎに落として割った。
何個になるかわからない多くのコップが次々と落ちていく。
それを見て笑みを浮かべる主人。
それを見て白目を剥くメイド。
一体この主人は、何を考えているのだろうか。
コップが割られ続けて何年になるだろうか。
すでに何百何千と割られてきたコップのことを思うと胸が痛む。
見ればメイド達は、最初にこの家にきた時と比べるとひどくやつれていた。
一人は狂ったようにいつもブツブツと何かを呟き、
一人は何かに思いを馳せるように遠くを眺めることが多くなり、
一人は常に泣き腫らしていた。
なぜだろう。ただコップを割られるだけなのに。何がメイド達をこんなにも憔悴させているのだろう。
人間にとってコップとはただの道具に過ぎない。
誰かから貰った大切なコップ、とかならわかるが、今まで割られたコップはすべて市販の安いもので、彼女ら自身が買ってきたもの。そこに思い入れなどなかろう。
では何が。
答えは簡単。主人の狂った行動である。
人の狂った様を見て、この屋敷にいたら、いつか自分もこうなるのではないか。そんな思いが彼女たちの心を占めている。
──もう、我慢の限界だった。
夜も深まった頃。
泊り込みで働くメイドたちは皆眠っている。
日に日に憔悴していく心は身体にも影響を及ぼし、かなりの疲労を生んでいるのだろう。おそらく、夢を見る間もないほどに深い眠りについているはずだ。
屋敷の主人は寝室を持たない。いつも定位置の椅子に座り、寝る時もその椅子で寝ている。
標的は、そのふんぞり返る主人である。
既に彼らは説得してあり、あとは実行に移すだけ。
メイドたちに頼んで、たくさんのそれを主人が眠るその部屋を出たそこ、冷たい廊下に並べて貰っている。
正直メイドが頼みを聞いてくれるか不安だったが、自身が憔悴し切っていることを自覚していたのだろう。三人とも、虚ろな目で作業をこなしてくれた。
あのメイドたちは、これからもやつれていくかもしれない。
今日これから行うこと。その結果がどうなろうと、主人は今まで通りコップを割り続けるかもしれない。
でも、やらねば気が済まない。
さあ、命を投げ打つ覚悟は決まった。
──突撃だ。
カチャカチャと音を鳴らし大量のそれが、主人の眠る部屋へと入っていく。その音に気付き目覚めた主人が立ち上がり、それらを壊そうと蹴り飛ばし、踏み荒らし、次々と『コップ』を割っていく。
割られたコップはその命の灯火を火の粉にし、最後の最後まで主人に噛み付く。方法としては、鋭い破片として足場を失くすまきびしと化すことで。
最初は驚愕の表情を貼り付け、次に喜々とした表情。
コップを割るのが、そんなにも楽しいか。
だが、やがて主人の勢いは衰える。なぜなら、ついに足の踏み場が消えたからだ。
割られたコップの数は総勢73個。床を埋め尽くすには充分すぎる数だ。その命散らしながらも、主人に報いたと言えよう。
結局いつもの定位置、椅子の上へと避難する主人。
そこへにじり寄る大量のコップ達。
残りのコップももう少ない。
そして、追い詰められた主人は──
「う、がぁああああ!」
──足が傷つくのを厭わず床に降り立ち、コップを割った。
主人の足裏にはコップの破片が突き刺さり、深い傷を生んだ。
こうして、とある夜の、コップによる復讐宴は幕を閉じた。
ただ一つ、割られずに残ったコップ──『私』を置き去りにして去って行ったコップ達は、次の日の朝、主人が丁寧に丁寧に、片付けた。
それから主人がコップを割ることはなく、三人のメイドも次第に心穏やかになっていく。
一体なぜ主人はコップを割り続けたのか。その理由は未だ知ることはない。
だが、これだけは言える。
──今まで私は食器棚の奥に眠っていたお陰で割られずに済んだ。
──だがそれは、コップとしての価値がないも同然。その時はそう思っていたのだが。
『こんなむさい唇と触れ合わなければならないのなら、ずっと食器棚の奥で眠っていた方が良かった』
その後主人は、あの夜に生き残ったコップを使い続けている。
コップは大切に扱いましょうね。