第百六十一話 ホワイトデーのお話
三月十四日。今日はホワイトデーである。
早朝、自室のベッドで目を覚ます。時刻は四時きっかりだ。まだ薄暗い空を、カーテンを全開にして仰ぎ見る。ついでに窓から見える理紗の屋敷を見る。……ふぁあ、ほのかに屋敷から栄養分が送られてくるようだよぉ……。
ここ最近は『IWO』でのレベル上げ作業のため、睡眠時間が三時間ほどになっているが、なんだか調子が良い。やはり毎日、理紗の手料理を晩御飯として頂いているからだろう。魔王を倒すまで理紗断ちをしようと一時期は覚悟した俺だが、やはりそんな生命の理に反するような行いは無理だった次第で、今では晩御飯だけは必ず理紗の屋敷に行って食べることにしている。
一口食べれば体中に活力がみなぎり、二口食べれば宇宙の真理を悟りかねない理紗の手料理は、本当に素晴らしいな。睡眠時間ゼロでも、多分あの料理さえ食べれば人間は生きていけるだろう。女神様の慈悲とはかくも偉大である。思いだすだけで眠気も吹き飛ぶ思いだ。
脳内で幸せな妄想に浸りながら、一階に降りてコーンフレークと牛乳、ついでにウイダーイ○ゼリーを摂取する。このゼリー、果たして本当に言うほどのエネルギーが取れているのか甚だ疑問何だが、飲まないよりはましかもしれないということで、買って来た次第だ。たぶん、十秒で取れるエネルギーとしては効率が良いんじゃないかな。
顔を洗って歯磨きをして、頭をすっきりさせたところで二階に戻る。VRギアを装着し、今日も俺は『IWO』の世界へと旅立った。
―――
ギルド『花鳥風月』の自室にて、仮想の体は目を覚ました。相変わらず殺風景だが、ここに手を加える予定もない。
ホテルみたいに扉が並んだ廊下に出て、階段を降りる。喫茶店風味な一階部分に顔を出すと、エリザの姿が見えた。昨日の夜ぶりである。今日も可愛いな!
「おはよう、エリザ」
気を抜いたら抱きしめて頬ずりをしそうになるのを抑えて、慎重に挨拶をする。
「あら、おはようクノ。今日も早いわね……少し、紅茶でも飲んでいきなさい」
エリザは小さく微笑んで挨拶を返し、ちょっと俺を見つめて考えてから、紅茶を入れるための機器を用意し始めた。
「……ああ、いや、今日は別に」
「飲んでいきなさい」
「……はい」
にっこり笑顔だが尋常じゃない圧力を感じて、すごすごと引き下がる。……本音を言えばすぐにでもアドルミットのもとに行って、ドッペル君を延々収穫する作業に勤しみたいのだが、このエリザの言葉には逆らえない。それにエリザは、俺が魔王を倒そうとしているのを知っているし、それを受け入れて、応援してくれると言った。それはエリザのためでもあるし、何より俺のためでもある。
そんなエリザが、紅茶に誘ってくれたのだ。彼女の目から見て、それが必要だと判断したのだろう。……おかしいな、俺、そんなに疲れているように見えただろうか。むしろ絶好調なんだけど。
ギルド内に、紅茶の芳醇な香りが広がる。そういえば、この紅茶の香りは、エリザが屋敷で食後に出してくれるものと同じだ。偶然なのか、それとも現実の茶葉をどうにかしてVRにインストールするような機能があるのか。その辺りは詳しくないから分からないが、落ち着く香りなのは確かだった。
「はい、どうぞ」
カウンターの向こう側から出て来て、丸テーブルに紅茶を二つ置くエリザ。最近はカウンターごしでなくて、こうして二人でテーブルについて紅茶を飲むことが多くなった。
エリザは円に対して均等に置いてある椅子の一つを引っ張って、俺の椅子とくっつけるようにして座った。当然、肩と肩を寄せ合うような距離感が作られる。
そんな体勢から、エリザは濡れたような紅い瞳を上目遣いにして、こんなことを言うのだ。
「ねぇ、ちょっとゆっくりしていきなさいよ。私、貴方の体が少し心配だわ。ちゃんと寝てるの?」
「ぐはっ」
思わず胸を抑える。仮想世界とはいえ、エリザと触れあっているという事実、そして彼女がいじらしくも俺の事を心配してくれているという事実。それだけで、体に一大必須栄養素エリザミンが補給されていくのを感じる。ああ、なんか俺、チョロくなってる気がする。キスまでした仲だというのに、こんなことで満たされてしまうだと……流石はエリザ、なんて女神力だ。
「え、ちょっ、どうしたのいきなり!? やっぱり体調が悪いのかしら!?」
「いや、大丈夫だ、むしろ体調はすこぶる良くなった」
「良くなった……?」
怪訝そうに形の良い眉をひそめるエリザ。
「エリザがあまりにも可愛いから、ちょっとびっくりしただけだよ。いつものことだ」
「う……い、いつものことだって言うのなら、早く、慣れなさいよ。ばか」
ちょん、と彼女の小さな肩が、俺の肩を押す。抗議のつもりらしい。しゃらんと小さく揺れる黒髪から、一瞬花のような匂いがした。ナイスフローラル。
「エリザ、時を止めることができないように、俺がエリザの魅力に慣れることもないのだよ」
「まじめくさって、何を言っているのかしらこの男は……もう」
「ちなみに、エリザが時間の流れとともにどんどん可愛くなっていくという意味だ」
「解説までつけなくていいから!」
直球な俺の言葉に、耳まで赤くする様子がよく見える。相変わらず、なぜか褒められ耐性は付かない。おかしいな、一日十回はエリザを褒めるようにしてるのに。
「だからこそ。エリザがどこまで可愛くなるのか、俺は見届ける義務があると思うんだ」
「……クノ」
「そのためにも、魔王を倒さないといけない。絶対に。他の誰でもなく、俺のためにな」
にっこりとここで微笑むことができれば、俺のポイントも高かったのかもしれない。実際は表情筋がまったく仕事をしやがらないが。なんなの、ホント、もう。
「……貴方はいつもそうやって、自分のためだ、自分ためだって言うわよね」
「実際、その通りだからな。俺は、俺のやりたいことをやっているだけだ」
「……そうやって、少しでも私の負担が軽くなるようにって。私が気に病まないようにって、思って言ってくれているんでしょう。貴方のずるいところは、それが本心からの言葉だって点だわ。本当に、もう……馬鹿なんだから」
ちょっといじけたように、エリザが言う。
表情からではなく、雰囲気から俺の感情を読み取れるという彼女に、嘘をつくことは難しい。俺専用の嘘発見器みたいな精度で、こちらの嘘を指摘してくるようになってしまったエリザだからな。
俺の発言が、自分に気を使ってのものではないか? という疑念があっても、それが本心を内包しているのなら、彼女が俺を糾弾することはできない。確かにある意味で、俺はずるいのかもしれない。
「……ねぇ、クノ。最近、思うことがあるの」
「なんだ?」
「……私は本当に、貴方に頑張ってもらえるような、価値のある人間なのかしらって」
「そんなの、」
当たり前だろ。
そう言おうとして、その前にエリザの言葉が被さる。
「勿論、貴方が本心からそう思ってくれていることは知っているわ。それは嬉しいし、とても、感謝しているの。……だからこれは、私の問題なのよ。私が私を許せるかどうかという問題。あなたに負担をかければかけるほど、何もできない私が悔しくなってくるの……」
後半は、絞り出すようなか細い声だった。
何も心配しないでくれと、そう言うのは容易い。でも、言葉一つで変えられるほど人間の心は単純じゃ無いし、そうじゃないから、人は悩み続ける。
だから、
「……もし、エリザがそれを悩みに思っているなら。それも含めて、ずっと俺の隣に居て、答えを出して欲しいと思うよ。いつか納得できる日がくるまで、エリザは生きなくちゃいけない。そう思わないか?」
「…………あなたって、本当に……――――」
『なんて、私に都合がいいのかしら』
声に出さずにちいさくエリザが呟いた言葉。読唇術をマスターしておいた俺に、死角はなかった。都合が良いだなんて、尽くすタイプの俺にとっては、最上級の褒め言葉だな。
「そのうち、後悔するかもしれないわよ」
「それだけは絶対にない」
「……馬鹿ね、本当。……貴方も、私も」
それは、お似合いだという意味だろうか?
「ありがとう、クノ。……貴方の言う通り、少し、悩んでみることにするわ。だから、その…………お願いね」
ちょっと吹っ切れたような顔で、エリザがはにかんだ。
何を『お願い』されたのかなんて、言うまでもないだろう。都合のいい男なのだ、俺は。
「――ああ、それと」
「ん?」
「対価を支払う準備は、しておくから。姉さん達に、ディープなのとか、い、色々、習っておくことにするわ。だから、その、無理しない程度に頑張りなさい!」
――え。
ガタン!
思わず腰を上げて、椅子を盛大に倒してしまう。
デ、ディープ……色々……だと……!?
エリザを見ると、顔が真っ赤だが、引く気はないとでも言うようにこちらを見ている。
おお、神よ……。
ひょっとすると、もしかして、……魔王を倒すことよりも、倒した後の方が大変かもしれません。
動揺しながら着席――しようとして、椅子がないことに気付き、床に尻もちをつく。
エリザは、勝ち誇ったようにこちらを見ていた。顔真っ赤だけど。ちくしょう、可愛いな!
椅子を直して、気分を落ち着かせようと紅茶を飲む。
カタカタカタ……おう、右手の野郎が震えてやがるぜ、な、なんてヘタレな奴だ、ハハッ。
一気飲みしたストレートティーの味は、ちょっとよく分からなかった。
「お、あ、それじゃあ、行ってくるから。うん。おう」
「……待って」
たまらず席を立ち、ドッペル君のクソつまらない鉄仮面でも見にいこうとすると、エリザに呼び止められる。
「――――大好きよ、クノ。いってらっしゃい」
エリザミンの摂取量が許容値を越えた。
一周回って、ふっとなんか冷静になる。
今のうちに、なにか、挽回しなければ。
「……エリザ」
「な、なによ」
「もう一回言ってくれるか。録音する」
「言わないわよっ!」
ぷい、と横を向くエリザ。額の上で明石焼きがつくれそうだ。
「……い、一日一回なんだから」
俺の向こう一生分の幸せが確定した瞬間だった。
―――
ルンルン気分で踏み台の神様に経験値をたかりに行き、連日の成果により俺のレベルはついに150となった。ドッペル君のいいところは、常に俺と同レベルになるので、レベル差を気にせず効率よく経験値が取れる点だな。あと、最近は死に物狂いといった雰囲気で必死に抵抗してくれるので、いい戦闘訓練にもなる。四月の頭に始業式があるが、それまでにはレベル200に到達し、春休みの間に魔王の首を貰い受けたいものだ。
晩御飯時になったので、一旦ログアウトして理紗の屋敷を訪れる。
今日はホワイトデーなので、バレンタインの時のお返しを携えてだ。
理紗がバレンタインに送ってくれた手作りチョコは、それはそれは美味しかった。そこで俺も、お返しとして美味しいガトーショコラでも作ろうと思ったのだが、はたと思いだした。俺、料理をするとなんでもかんでも無味無臭の食品サンプルみたいなものになってしまう。
しかし、そこで市販品に逃げるのもなんか違うような……かと言って、腐る食品サンプルを渡すわけにも……と、しばらく悩んだ後に、料理以外のものを手作りすればいいんじゃないかと思いあたった。
気持ちのお返しなのだし、無理に食べ物にこだわらなくてもいいだろう、と。
「――――という訳で、ゴシック趣味の理紗にはこれ! 1/300スケール、ノートルダム大聖堂模型だ!」
ゴシック建築を代表する建造物、フランスはパリにあるノートルダム大聖堂のミニチュア模型を作ってみた。もちろん、プラモデルとかそういう意味では無く、パーツ成形から着色に至るまでメイド・イン・俺である。睡眠時間を多々削って仕上げた逸品だが、理紗のためだと思うと自然と疲れなんて感じなかった。むしろ作れば作るほど元気になったくらいである。
「すごいもの持ってきたわね!? え、ちょ、えぇ!? 凄いけど、どうやって作ったのよこれ!?」
両手で持てるくらいのサイズになったノートルダム大聖堂を見て、理紗も驚いている。ふふふ、これぞホワイトデー。やっぱり、インパクトのあるお返しが重要だよね。
「……あ、ありがとう九乃。まさか、ここまでのものを返されるとは思ってもいなかったわ……私のチョコなんて、原価二百円くらいなのに……」
「千倍返しはホワイトデーの基本だろ?」
「これ作るのに二十万円もかけたのかしら!?」
意外と工具と材料が高かった。
「理紗の手作りチョコは本来値段なんか付けられない程価値があるんだから、お返しもそれなりのものが必要だろう。丹精込めて、細部の彫刻や内部まで再現してあるから、是非受け取って欲しい」
「……え、ええ。あの、その、本当にありがとう……逆に申し訳ないわ……」
ノートルダム大聖堂は、理紗の寝室に飾ってくれるらしい。
喜んでもらえたようで、なによりだな!
……季節が、ついに合致してしまった…
なお、他の花鳥風月メンバーへのお返しは『後日』渡した模様。花とか動物とかガオガイガーの模型。