第三十一章
彼の記憶が頭から離れ、僕は目の前にいる幼い二人に意識を向けた。ネオとキラが囚われているのは“憎悪”だ。
「ネオ……キラ……」
何度も呼びかけているけれど、リラの時と同様に何の反応も返してこない。僕は両手を広げ、幼い二人の体を抱きしめた。
「ネオ、キラ……どうやったら、君たちを救える? 君たちは、僕を友達だと言ってくれたのに……僕は何も出来ないのか?」
二人の体から温もりを感じない。目をギュッと瞑り、懇願するように両腕に力を込める。それでも、彼らから温もりを感じることが出来ない。
「……憎い……よな、二人とも。両親を失って……悲しむ暇もなく一人にされて。辛かったよな。失った存在は大きいのに……」
眼球が熱くなり、彼らの肩に顔を押し付けた。しかし、止まることなく涙が二人の方を濡らす。
「ネオ、キラ……リュウヤ……」
リラの声が聞えた。くぐもっていて、泣いているような声。リラにも見えたはずだ。二人の過去が。優しい彼女は、自分の痛みのように苦しみ、涙を流しているんだろう。
「目を覚ましてくれ、ネオ、キラ。お願いだ……これ以上傷ついてほしくない。あんな奴らのせいで、二人が憎んで、悲しんで、苦しみ続けるなんて嫌だ。これ以上、君たちが傷つく鵜方を見たくない! だから、目を覚ましてくれ、ネオ、キラ! 失ってしまった両親のためにも……今、ここにいる新しい家族のためにも!」
自分の温もりを与えるように、更にきつく抱きしめる。冷たい……死人のような二人。あんな奴らのために、二人を手放したくない。バグに飲み込まれたまま……こんな悲しい記憶を見続けたまま、二人を失うのは嫌だ。
「ネオ、キラ!」
ドクンッと脈打つ鼓動が耳に響いた。それは、まるで周囲に響き渡るように、はっきりと聞えてくる。
「ネオ……キラ……?」
微かな温もりを感じ、僕は二人を解放した。閉じられていた瞳が開き、僕たちを見つめていた。しかし、彼らの瞳から光を感じられない。それでも、二人とも必死なんだと分かった。
「ねぇ、二人とも。今度は何が食べたい? 結局食べさせてあげてなかったね。今度は作って欲しいもの言ってみてよ。頑張ってみるからさ。だから……一緒に家に帰ろうよ? ネオ、キラ」
二人に伸ばす手。幼い二人より、少し大きい僕の手。その手を、戸惑いながらも握ってくる。二人の手を強く握り返してやった。ネオが、僕にしてくれたみたいに。そして、僕はとびっきりの笑顔で二人にこう言う。
「お帰り、ネオ、キラ」
「おう、リュウヤ」
「ただいま」
幼い二人が消え、本当の二人が目を覚ます。二人の瞳には、以前より強い光が灯っている。そして、何よりも笑っているのだ。また、いつものように。
「これで全員揃ったね、リラ」
クルッと振り返り、リラに顔を向ける。案の定、泣き崩れたリラの顔があった。けれど、彼女も満面の笑顔へと変わる。
「うん! 帰ろう、私たちの家に!」
いつの間にかいなくなっていたバグ。遮る壁を失い、僕ら四人を太陽の日差しが体を包み込んでいく。キラがネオの縄を解き、ようやく自由の身となったネオ。リラに回復魔法をかけてもらい、多少は元気になったようだ。
「リュウヤ、帰ったら、ちゃんと作ってくれよ!?」
「そうだな。俺も食べたい料理がある。楽しみだな」
「二人だけズル~イ! リュウヤ、私もお願いね!」
「そんな一気に作れないって。でも、うん。作ってあげるかあら安心してよ」
「「やったぁ!」」
大喜びするネオとリラ。キラも小さく拳を握っている。先ほどまでのことが嘘のように笑い合った。ようやく揃ったんだ。リラも、ネオも、キラも。皆、自分の過去を乗り越えた。そして今、ここにいる。その嬉しさに胸が一杯になった。けれど、それを破るように下卑た笑い声が高らかに響き渡る。その声に僕たちの喜びは吹き飛ばされてしまった。
「ソイツらがお前の仲間か? ネオ」
急斜面から顔を出した人狼族の一人。ネオの耳と尻尾がピンッと立ち上がり、唸るように低く喉を鳴らす。
「ネオ……誰?」
睨み合っている二人の間に割り込むように、僕は声をかけた。目を向けてきたネオはさきほどと同じように、復讐に囚われた瞳をしている。
「キオン。人狼族の現・長だ」
「じゃあ、アイツの父が……」
「あぁ。キオンの父親が、元・長。俺の父さんや母さんの仇だ!」
再び人狼族へと目を向け、ネオは今にも飛び出しそうな体勢を取った。
「そっか……アイツの父親が……そして、今は、アイツのせいで……」
「……リュウヤ?」
ネオの記憶を思い出し、僕の中でも腸が煮え返る感じがした。怒りで我を忘れそうだが、頭の中は冷えきっていた。まるで頭から水を被ったように、体温が引いていく気がする。
「リュウヤ?」
無言で前へと進み出る僕に誰かが呼びかける。
知っている。
知っている声のはずなのに……誰が呼んでいるのか分からない。
『リュウヤ!』
「っ!」
二人の声が重なった瞬間、鼓動が跳ねた。目前に黒い玉が浮んでいるのが見える。けれど、他の景色は何も見えなかった。その玉に呼ばれているような気がした。手が無意識のうちに伸びていく。そして、黒い玉に指先が触れた。その瞬間、黒い玉は空中で大きく広がり、僕の体を包み込んだ。真っ黒な暗闇の中で一つの光が近づいてくる。
「?」
その光は、僕の前で弾けた。
「やめ、ろ……」
目を瞑り、耳を塞いだ。しかし、体の内側からも溢れてくる記憶。
『ねぇ、リュウヤくん。遊ぼうよ?』
「っ!」
幼い少年が目の奥で浮かび上がり、目をカッと見開いた。すると、目前にその少年の姿がある。僕に手を差し伸べてくる少年。
僕の……最初の友達。
『……』
笑っていた表情が、一瞬にして変わった。無表情のまま涙を流し、僕を見てくる。
そう、まるであの時のように――……
『今日、この学校に天候してきた折原智也です。よろしくお願いします』
その子は転校生だった。隣の席となった彼と友達になるのに、そう時間はかからなかった。一緒に遊び、共に学び、最高の友達だったんだ。なのに、僕は彼を裏切ってしまった。
それは些細な始まりだった。僕たちのクラスでは仲間外れゲーというものが流行っていた。ある子を標的にし、一週間近く一緒に行動しない、または口を利かないというルールだった。一人が始めたそんなくだらない遊びが、一瞬にしてクラスに広がり、最初の餌食となったのは僕の親友。転校生で優等生。そんな絵に描いたような彼への妬みからか。今となっては下らない遊びだ。いや、遊びではなく、苛めだった。
『一番の親友だったんだ……なのに僕は……傷つけてしまった……』
うっすらと目を開けると、数年前の自分の姿があった。顔を俯かせ、静かに涙を流している。
「……」
そんな自分を、僕はジッと見つめていた。幼い自分がゆっくりと顔を上げる。
『どうして裏切ったの? リュウヤくん』
「っ!」
上げた顔に、彼の姿がダブり、僕は自責の念に駆られた。目を逸らし、耳を塞げたら、どれほど楽になれるのだろうか。けれど、僕は目を逸らすことも、耳を塞ぐことも、まして無視をすることさえできない。彼は僕の友達なのに、恐怖しか感じられない。
『ねぇ、リュウヤ君。僕は辛かったよ? 友達だと思っていた君が、急に僕を無視し始めて……苦しかったんだよ?』
「うっ……ぁあ……」
口から嗚咽が漏れる。口もとを手で押さえても、吐き気がわいてきた。
『ねぇ、僕を殺したリュウヤ君』
「っ!!」
彼の泣き顔が目前まで迫ってきた。泣いているはずの彼の口元は薄ら笑いを浮かべている。なのに、彼の瞳は悲しみの色しか映していなかった。
流れていた記憶があるシーンで止まっていた。血まみれの彼の体、呆然と見つめている僕、見知らぬ大人や警察官たち。
『智……くん……?』
震える声が、彼の名を呼ぶ。けれど、彼に反応はない。見たこともないほどの血が、たくさん流れていた。
「『っ……智也――っ!』」
幼い僕の姿がダブり、彼の名を叫んだ。それでも、彼は起きない。二度と目を覚ましはしない。二度と話すことは出来ない。彼の死の報せを聞いたのは、翌日のことだった。
『僕のせいだ……僕も一緒になってやっちゃったから……智也は死んじゃったんだ。僕のせいだ……僕が死ねば良かったんだ!』
「「「違う!」」」
「『っ!?』」
突如響いた声に、僕は驚いた。知っている声のはずだった。けれど、思い出せない。三つの声……とても懐かしい声。それなのに、姿は見えない。周囲を見回しても、僕以外の姿はなかった。
「違う……違うよ、リュウヤ」
「『だ、れ……?』」
「お前が死んだって、智也は戻ってはこない」
「『っ……!』」
「誰の代わりも出来ないんだ。リュウヤは、リュウヤだろ?」
「『ちが、う……僕は……』」
両耳を塞ぎ、その声を遮ろうとした。しかし、それらの声は手をすり抜けて耳に届いてくる。
「リュウヤ……あなたは私に、自分を認める勇気をくれたわ。誰もが否定した力を肯定し、受け入れてくれた。私自身を受け入れてくれた。ありがとう、リュウヤ」
「リ、ラ……?」
震える口が名を刻む。その名を呼んだ瞬間、少女の姿が脳裏を過ぎった。尖った耳に、おっとりした表情。ニッコリと笑いかけてくる笑顔。彼女を思い出すと、リラの姿が現れた。彼女は、いつもと変わらない優しい笑顔を向けてくれる。
「リュウヤ。お前は俺に憎しみ続ける悲しさを教えてくれた。急に居なくなった両親と、一族への憎しみにかられ、自分が苦しんでいたことすら気付いてなかった俺に、お前は新たな家族を思い出させてくれた。一人じゃないんだと教えてくれた。ありがとな、リュウヤ」
「キ、ラ……」
今度は違う名前を呼んだ。黒い猫耳がピンッと立っている。いつも冷静であまり表情を変えないように努力している。そんな彼を思い出した。目の前に、リラ同様にキラの姿が現れ、フッと笑って頷いてくる。
「リュウヤ。俺に追い手を思いやることを教えてくれた。一緒に涙を流してくれた。帰ろうって言ってくれた。だから、俺もお前に言うぞ。帰ろうぜ、リュウヤ」
「……ネ、オ……」
涙声で、もう一人の名を呼んだ。ネオ、リラ、キラ……僕の大切な友達で、家族。ずっと呼びかけてくれたのは智也ではなく、彼らだったんだ。
「み、んな……」
三人の揃った姿に、僕は溢れる涙が止まらなかった。そんな僕に、ネオは手を差し出してくる。
「帰ったら、何か作ってくれよ」
ニッと笑うネオに、僕はプッと噴出した。
「分かってるよ」
そう言って、彼の手を勢いよく叩いた。パンッと良い音が響く。
『リュウヤ……君……僕を、置いていくの?』
楽しそうに笑っている最中に、幼い智也の姿が目に入った。所々が消え、まるで不安定なデータのように、ノイズを走らせながら立ちすくんでいた。胸が痛まないなんて言ったら嘘になるけど、今の僕には、その姿が何とも寂しい姿としか映らなかった。
『リュウヤ……くん……』
手を伸ばしてくる小さな少年。それは、まさに自分の姿だった。幼い頃、彼を追い詰めてしまった自分を責め、他者に縋ることはいけないことだあと決めつけ、他者との関係を断ち切ろうとしていた自分。縋る相手が分からなかった。だけど、自分を助けてくれない周囲に苛立った。そう、世の中なんてつまらないものなのだろうか、と思ってしまうほどに。けれど、本当につまらなかったのは僕自身だったんだ。自分を否定し、他者を否定し、
世界を否定した。最初からつまらなかったのは世界に対してではなく、ちっぽけな自分の存在に対してだったんだ。
「……」
ようやく思い知った。彼は僕自身から生まれてしまった罪の意識。そして、自分が楽になろうと生み出してしまった悲しき存在。
幼い少年を、僕は抱きしめた。
「ごめん、智也。君を追い詰め、助けられなかった。どんなに謝っても謝りきれない。責められても仕方ない。単なる自己満足かもしれないけど……君の分も生きるから。もう、自分で自分を殺さない。それと、ごめん。今まで気付いてやれなくて。罪の意識を消すことはできないけど、もう大丈夫だから。帰ろう、リュウヤ」
『っ……うん……うん!』
小さな腕が僕の首を抱きしめる。不思議と、その感覚が分かった。消えていく少年は僕の中へと入り、真っ暗だった世界に光が溢れていく。その途中、ずっと思い出せなかった智也の表情が、笑いかけてくれた気がした。