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月を掬う  作者: 雲丹
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1話

「誰か......誰か助けてくれ!」

その声はその場では響かずただ近くで籠もるかのように聞こえた。


「誰もいないのか?おーい、いたら返事してくれ!」

ハルのこの声も響かずずっとそばで籠もったままだった。


「はっ!」

「なんだ夢か.....」

「僕は寝てしまっていたのか...さっさと帰らないと」


そう言って重い体を支えてゆっくり立ち上がろうとしたハルは、自分の声が、まるで水の中で浸透圧にやられて重くなっているように感じて、声がはっきりと出ず、濁っていことに気づいた。


言葉が空気と混同せず、自分の耳元だけ、はっきりと響く不快な(ノイズ)そして彼が『夢』だと思ったその叫び声は夢などではなく、また別のものだった。


「...あ.....あ、いい....」

暗闇の奥、データのゴミ溜まりのような汚く醜いところから、気味が悪い何がが這い出してきた。


それはルミナによって『最高の偽物』へと姿を変えられ、うっとりと自惚れていた老人だった。


だが、今の彼には前と比べて美しさというのは一欠片もなかった。ルミナが老人に対して施した滑らかな皮膚は、あちこちと剥がれ落ち、剥がれ落ちた皮膚はまた下の地面を明らかに退化させていた。


老人の下からは赤黒い剥き出しの文字列がドロドロと、老人の近くで噴火した火山のマグマのように溢れ出している。大きな瞳は左右で解像度が、鮮明に異なり、一方はとても大きく、もう一方はなにかに塗りつぶされていた。


「あ...ハ....ハル......」

老人は壊れたスピーカーのように音割れをしていて、ハルには騒音(モスキート)にしか聞こえなかった。


ハルはその光景を見て、すごい恐怖で後退りする。とても小さな体躯が、冷たくてひどい情報の殘骸(はい)に触れて震えた。


「あなたはおじいさんなのか?どうしてそんな姿になったんだ...聖女様に心も体も浄化して救ってもらったはずじゃ」


「救い?違う....。聖女様は私の『名前』や『思い出』といった大切な情報を食べて......代わりにこの『空っぽになった殻』を無理やり押し付けたんだ.......」


老人が力強く骨ばった、ノイズの走る指でハルの足首を掴んだ。その指先からは、ハルの肉体を病的な何かで汚染するかのように、黒い染みが伝わってきた。


「ハルくん....老人の些細の頼みを聞いておくれ.....。君の綺麗な『記憶』を少しだけでいいから....私に流し込んでおくれはくれぬか?このままじゃ、私は人間の皮を被った『無』になってしまう.....!」


老人の『情報』への執着はもはや人間の生存本能ではなく、システム上のゲームで言ういわゆる『上書き保存』を求める狂気だった。


「もし断るのだったら.....こっちにも手段はある.....!力づくで君の『記憶』を奪うまで.....!」


そう言うと老人はハルの方へ一直線に襲いかかってきた。もはや老人はハルのことを人間としてではなく一つの『素材』としてでしか見ていなかった。


ハルは恐怖で最初の数秒は足がくすんで、動けなかったのかその場で止まったままだったが、人間の防衛本能が勝ったのか足が動き咄嗟に逃げた。


「聖女様の救済がこんな結果になるはずがない!聖女様が悪いのではなくお前が悪いことをやったからだ!」


そう叫びながらハルは逃げ続けた。逃げても逃げても、老人は追ってくる。まさに獲物を見つけた肉食動物のように一向に諦めようとしない。


「はあ、はあ、まだ追ってくるのかよ!いい加減諦めろよ」


ハルは必死に逃げた。どこまでも。

ただハルが逃げた先、道はなく行き止まりだった。


「もうここで終わりか....聖女様どうか僕をお助けください」


逃げ場を失ったハルの背中が、冷たくザラついた『未定義の壁』つき、ハルはずっと祈り続けた。眼の前には、マグマのようなノイズを吐き出す老人がこっちに向かってくる。


人間のシルエットは吐き出すバグに隠れて一ミリも見えなかった。


「もうだめだ....おしまいだ」

ハルは体を小さく丸め、目をつぶり頭を伏せながらジーッとしていた。


老人がハルに追いつき、老人の手がハルの眼球に触れる寸前、ある一点、闇を切り裂くパステルカラーの閃光。そこに目線をやるとルミナだった。


「やあやあ、お二人さん。こんなところで何をしているんだい?」

ルミナはハルと老人に目をやった。


「あー、そういうことね、理解。」

ルミナは老人の手を振り払い、ハルを強く抱き寄せた。

「あーあ、怖かったね、もう大丈夫だよ、安心して」


ルミナは猫なで声で耳元で囁いた。ハルはそのルミナの行動に安心した小動物かのようにいかにも身をあずけるかのようにじっとしていた。


だが、その手はハルの喉元を、獲物を品定めするかのように愛撫している。


老人はルミナの圧に押されて、先程よりだいぶ落ち着き、特に何もしては来なかった。その場でずっと立っている、まるで一つのもともとこの場にあったオブジェのように。


ルミナが指先を鳴らした瞬間、老人の全身が途端にバキバキと音を立てて折れ曲がり、人が座れる『椅子』の形に変形した。


変形してもなお、かすかに老人の意識が残っているのか時折、「あ、あ.....」とノイズ混じりの吐息が漏れ出ていた。


この光景を見たハルは、さっきまで話していた人間が『動かない物体』に変えられ、恐怖した。


「目障りだ」

どこからともなく声が聞こえた。その声が聞こえたところに目をやるとそれはリトスだった。


「俺にこんなひどく醜い人間の皮を被った(カス)を見せるな」


リトスはそう言うと老人のデータが強制的に圧縮され、手のひらサイズの『黒い立方体』に変化した。

老人はもう意識は残っていなかった。リトスはそのブロックを無造作に放り投げ、ハルに対して投げかけるかのように言った。


「これがお前が救いを求めた結果の成れの果てだ、お前もいつかこの老人のようになるだろう」

「だからお前に僕の何がわかるんだ?それになぜ僕の心配をする?」


「ただ鑑定士として、この世の中にゴミを増やしたくないからだよ」


ハルはそのブロックから、老人の絶望の叫びが微かに振動として伝わってくるのを感じた。


「いつかこうなる....?いや違う、僕はこの老人とは違う、ちゃんとした聖女様からの救いを受けるんだ!」

ハルは少し震えながらも堂々としていた。


「ねえ、ハル、僕が『上書き』してあげようか?聖女様に捨てられた記憶も、今の恐怖、全部僕の色で塗りつぶしてあげるよ」

ルミナはそう言うとハルの文字化けした部分にルミナ自身のデータ流し込もうとした。


「やめろ...!ルミナ、僕はお前のデータで一杯にされたくない!僕には聖女様がいるんだ!聖女様が幸せにしてくれるんだ!」

ハルはルミナの手を振り払い、ルミナの近くから離れようとした。


「なんで僕を避けるの?僕はハルのことが好きなんだよ?」

ルミナがハルを追い詰めようとしたその時、暗闇のさらに奥から「カチ、カチ、カチ......」と何処か不安定だが、一定のリズムを刻むメトロノームのような音が響き渡った。


その音はある一点からではなく、ハルたちを囲むようにそこらじゅうから聞こえた。ハルの心拍数も強制的に同期させられるような強い音だった。


ルミナですら、自分の手で耳を塞いで一瞬眉をひそめ、音の主を探そうと暗闇の奥を睨む。ただ複数のところから聞こえていたので、音の主は見つからなかった。


「はあ、、めんどくさい.......なんなのこれ......うっざ」

「これどうやって止めんの?音を発しているやつも暗いから見つからないし」

「落ち着け、ここで苛立っても何も変わらない」


リトスはそう言うと懐から鑑定用の端末を取り出し、空中に不可視の音を遮る『遮断壁』をハルたちの周りに展開した。


その効果もあってか周りの音はピタリと止まり、ここに誰ひとりいないかのような静寂にこの空間が襲われた。


「ただの無能が、こっち側から音の源を探す必要は一ミリたりともない。ここはすでに『腐り始めている』だけだ。ルミナ、もう遊びは終わりだ。このガキの鑑定はまだ済んでいない。ゴミかどうかの判別する鑑定がな」


リトスはハルに『泥まみれのバケツ』を無造作に放り投げた。ハルの足元の転がっている『老人だった立方体』がバケツの中にカランと乾いた音を立てて綺麗に収まった。


「本当にあの聖女を信じるなら、そのゴミの塊を持って俺について来い。ルミナの『お人形』として人間の思考を止めるか、それともそのバケツを抱えて自分の人間としての価値を証明するか。選ぶのは俺じゃない、お前だ。ハル。」


「僕が選ぶ!?」

リトスの圧力に、ルミナが肩をすくめて引き下がった。リトスに対して何もせず、ただ体がひとりでに動いたかのように引き下がるしかなかった。


ルミナは去り際にハルの耳元で、舌なめずりをするような温度で囁いた。


「あーあ、せっかくの二人だけだったのにいらない邪魔が入っちゃった、残念。でもいいよ、ハル。リトスと一緒にいた方が、君はもっと『いい絶望』を必ずしてくれるだろうし。.......またね。君が今以上にもっとボロボロに壊れた頃に、迎えに行ってあげる」


言い終わると、ルミナの体がノイズと共に暗闇へ無造作に溶けていった。


ハルはその光景をみて涙が少量溢れた。ハルは震える手でバケツの取っ手を強く握りしめた。バケツの中のブロックからはまだ老人だったものの悲鳴とも取れる振動が伝わってきた。この振動を感じてハルはなんとも言えない感情になった。


「聖女様、見ていてください。僕はまだ、ゴミじゃありません。あなたに一番に愛されるために、この地獄を必ず這い上がってみせます」


ハルはそう言うと深呼吸をし、行く準備を始めた。ただハルの心の奥底にはまだほんの僅か『恐怖』という感情が残っているのをハル自身も知っていた。


もう先に行ったリトスの背中を追ってハルは、ゴミ山の奥、さらなる暗闇へと足を踏み出した。



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