プロローグ
世界は急激に色を失った。
忘却の街ヴェイン。空から音を立てずに降り、積もったら長い間、なかなか消えない『星の脱穀』だ。
それは光が死んだ証であり、情報の燃えカス。ここに住んでいる人々の肩に、石畳に、そして死にかけている街の中心に終止符を打つかのように、銀色のノイズとなって堆積していく。
「ねえ、今日も、解像度が合わないの」
誰かの絹を通すような、か細い声がこの街に小さく響いた。その声の主は降り注ぐ銀の砂に霞んで判別できなかった。いや普通の霞ではない。この街の住人は全員、存在の密度を見失い、輪郭が四角いブロック状に崩れ始めていた。
この世界において、情報の欠如は死より重い残酷な『劣化』を意味する。
そんな灰色の絶望を切り裂いて、彼女は銀の砂の向こう側から現れた。
完璧な曲線。
乱れのない妖艶さを携えた色彩。
この後先もわからない不明瞭な街で、唯一『本物』だと感じさせてくれる程の圧倒的な情報量。
聖女セラヴィナ。
彼女が銀の鏡を天に掲げた瞬間、ヴェインの街は本物より美しい『偽物の夜明け』にジワーッと包まれていく。
それは救済ではない。
重すぎる真実を捨て、誰もが『手軽で安価なコピー』として楽に生きるための、甘い断罪の始まりだった。
その儀式は短時間では終わらなかった。掲げた鏡から雪のように白く、稲妻のように鋭い光が溢れ出す。
それを浴びた民衆の肉体から『悩み』『病』『老いの記憶』など誰もが消し去りたいと思う負の感情が、黒い鱗状になってその当人の体に絡みつき、次第に地面に崩れ落ち始めた。
当人である一人の老人はセラヴィナに対し、感謝を述べた。
「前より体が軽くなった気がします。聖女様、本当にありがとうございました。この御恩は一生忘れません」
この言葉を聞いて、セラヴィナは微笑みながら言った。
「あら、感謝なんかいらないわ」
老人はその言葉を聞いて少し戸惑った表情になり、なにか言いたそうにしていたが、セラヴィナの圧があり凛とした雰囲気に圧倒されて何も言えなかった。
何も言わない老人を見てセラヴィナは言う。
「人からの善意をもらうためにやったんじゃないの、ただ単に自分のためにやっただけよ」
老人は言う。
「自分のためとはどういうことですか?この行為が自分の利益になるとは失礼ながら到底思えませんが......」
「せめてどう利益になるか教えてくれませんか?」
そう言って老人はセラヴィナに一歩近づいた。
「あなたには関係ないことよ、あなたにも利益があって私にも利益がある、それでいいじゃない」
そう言うと、老人の頭からなにか溢れ出してきた。今しがたセラヴィナに対してした『感謝』さえも銀色の砂となって剥がれ落ちてきたのだった。
老人は最初、パニックになりそこら中を動き回っていたが、時間が立つにつれて次第に大人しくなっていった。
その時、老人の前に、星の脱穀を完璧に結晶化したかのような、透き通る人影が舞い降りた。
数多の群衆はその姿に一言も言葉を発しずただただその人影に釘付けだった。
ルミナだった。この辺の地区では有名な人物であった。透明感がありながらも、どこが背筋が凍るような声で言った。
「あらら、随分と無様な姿だね、このままだとすぐにバグっちゃうよ?」
男性の身長に比べたら低い身長で、華奢な体、白銀のウェーブヘア、そして性別という重い情報を削ぎ落とした、発行しているかのような綺麗な白くて滑らかな肌。
彼は醜くなったこの街に降り積もる『星の脱穀』を本物の糸かのように紡ぎ、自分が着る服として繕っている。
そのため、彼の輪郭は風で揺らめく炎のように不規則に揺らめき、この不鮮明な街においてさえ、誰もいない現実離れしたただ一人の『高画質な偽物』として君臨していた。
ルミナは個性を失いのほほんとした顔で直立不動に立ち尽くす老人の頬にその細い指先を滑らした。
「僕が、もっと見栄え良くしてあげる。僕はこうみえて手先が器用できれいなものが好きだから安心したほうがいいよ」
ルミナが指を動かすたび、老人の周りにピンクや水色と言った色のエフェクトが爆発した水風船のように四方八方飛び散っている。
その狂乱とも言える色彩の飛沫を、聖女セラヴィナは一滴たりとも逃さぬよう、掲げた銀の鏡で冷淡に吸い上げていた。
彼女は加工される老人にも、作業するルミナにも、もはや一切興味を示さない。ただ削ぎ落とした情報の残骸が『自分の利益』としてその鏡に蓄積されていく様子を、少し嫌な笑みを浮かびながらただ見つめているだけだった。
シワだらけだった老人の顔面が、まるで強力なフィルターを通したように不自然なほど滑らかになり、大きな瞳と凹凸がない綺麗な頬が『上書き』されていく。
「これで完璧!ほら、中身なんてない方が人間はずっと『綺麗』でしょ?」
ルミナが得意げにあざとく愛らしい仕草で小首を少し傾けた。
老人は自分の娘の名前も、妻との思い出も、そしてさっきの『感謝』さえも失った新しい自分になった。だがルミナの手によって『最高の偽物』への加工された自分の姿を鏡で見て、うっとりと自惚れた表情で息を漏らす。
「これが私!?なんて素敵な....」
老人は、中身のない表面の絵画絵画だけの美しさに心の底から酔いしれ、まるで操り人形のような軽やかな足取りで街の向こうへと消えていった。その後彼をみた人は誰一人いなかったという。
「それじゃあ僕も帰ろうかな、ここにもう用はないし」
そう言ってルミナが去りかけたとき、脱穀の中に這いつくばる小さな影が目立った。
小柄の体躯を更に小さく丸め、地面の泥にまみれながら下を弄る一人の少年。名をハルという。
彼は老人の体から剥がれ落ちた情報の殘骸ーー黒い鱗をひたすら指先の感覚が麻痺するほど必死にバケツに掬い取っていた。
ルミナは一旦帰るのをやめ、ハルのもとに軽い足取りで近づき、高い位置からその泥で汚れきった頭を愛らしく、どこか見下しながら頭を撫でた。
「あらら、ハル、またそんなゴミ拾ってるの?ゴミに執着しても自分に利益ないよ、重いだけでなんの価値もないのに.....」
ハルはルミナの手の温もりを感じながら、その視線はルミナの背後に立つ聖女セラヴィナに対して釘付けになっていた。ハルにとってルミナは『美しく可憐な同胞』だが、セラヴィナは自分のすべてを無慈悲に全て奪い取ってくれる『唯一の絶対神』だった。
「それは違う、この行動だって自分に利益がある行動だ、この破片を集めて聖女様に渡せば、いつか必ずあのおじいさんみたいになれるんだ。」
ハルの声はどこか震えているように感じたが、その言葉は真っ直ぐだった。狂気さえ感じた。
「僕の最低でこの醜い記憶も、このひどく文字化けした皮膚も、全部聖女様に食べてもらいたいんだ。」
「僕という一つのデータがあの方の鏡の中で一つのドットという存在になれるなら、僕はなんだってする覚悟がある。それ以上に幸せになれることなんて、僕が生活してるこの環境にはこれしかないから」
ハルが言い切って安堵した表情で自分のそばにあるバケツを抱きしめたとき、遠くの方から色濃く大きい人影だんだん近づいてきた。
「リ、リトスが来たぞ!」
民衆の中の一人がそういったとき、残りの民衆がその一人に続くようにその影の方向を見始めた。その大きい人影がだんだん近づき、リトス本人の姿がはっきりとするようになってきた。
「相変わらず、お前は鮮度の低いゴミに執着しているようだな」
リトスは鑑定士として、数多の情報の価値を厳格に選別する男であり、この歪んだ街で唯一、ゴミに『値段』をつける。
リトスはハルのバケツをジーッと見て、バケツを爪先で小突き鼻で笑った。
「その老人の感謝の殘骸....解像度はとっくに死んでいるが、中身のない連中にはこの程度の『劣化した記憶』が丁度いい気付け薬になる。引き取ってほしかったら引き取るが、どうする?」
ハルはそれを聞いた瞬間、即座に口を開いた。
「お前には渡せられない、これは僕が幸せになるための材料なんだ!」
リトスはそれを聞いて嘲笑うかのように言った。
「このゴミがお前を幸せにする?馬鹿言うんじゃねえ、これはただの中身のないゴミだ。」
この言葉でハルは怒り、声を荒げた。
「そんなことない、これは本当に僕を幸せにするんだ。分からないんだったら僕に口出しをするな」
ハルに拒絶されたリトスは呆れ、冷たく笑う。
「いいだろう、最後に笑うのは俺かお前か、お前にはきっと最悪の現実がいつか来るぞ」
そう言うとリトスは、ここを去っていった。
リトスがここを去って間もないうちに、街を包んでいた『星の脱穀』が目に見えるほど小刻みに震え始めた。
銀色の静寂を切り裂いたのは、地響きを伴い重苦しい鉄の音だった。
「ーーいつまで、その薄汚いままごとをやっている」
執行官エリスラが上空から石畳を砕きながら降りたった。エリスラの上陸は周りの石畳が破壊され周りに飛び散る。
彼女の降臨は、この街の理そのものを真っ向から拒絶した。ルミナが紡いだパステルカラーの服も、セラヴィナが鏡で整えた平穏も、彼女が放つ『圧倒的な情報量』に世界のシステムが耐えきれず、バリバリとガラスが割れるようなバグが起こる。
エリスラが繕うのは、血に似た錆びた鉄の匂い、凝固した血の質感、そして一切のフィルターを通さない『高解像度の現実』だ。
「あ、あ、ああああああ......っ!」
ハルは激しい嗚咽感に襲われた。エリスラがこの世界に存在するだけで、周囲の空気の密度が数万倍に膨れ上がったかのような錯覚に瞬時に陥る。
ハルの劣化した脳では彼女の放つ圧倒的な情報量の前では処理できず屈服することしかできなかった。視界には真っ赤な警告ノイズがハルの視界全体を包み込み、ハルが命がけで守っていたバケツの中の『黒い鱗』がエリスラの踏みしめた衝撃で泥にまみれ、ただの中身が空っぽの汚物へと変わってく。
「やめてくれ!来ないでくれ!せっかく.......せっかく聖女様に幸せにしてもらえるはずだったのに......僕の幸せを汚さないでくれ!」
ハルは泥をすすり、自然に白目を剥きながら激しく身悶えた。彼の『文字化けした皮膚』から黒い煙のようなバグが溢れ出し、存在そのものが崩壊の危機に扮していく。
混迷を極めるその戦場の中で、ただ一人、聖女セラヴィナだけは一人だけ時が止まっているかのように微塵も動かなかった。
彼女は絶叫するハルを、道端に落ちているただの石ころを見るかのように温度のない瞳で見下ろした。
「ごめんなさいね、今のあなたじゃこの鏡に映る価値は微塵もないわ」
その慈愛に満ちた宣告とともに、彼女が掲げた鏡が眩い閃光を放つ。まるで膨大なエネルギーが溢れ出しているかのように。
ハルの視界は強制的にホワイトアウトした。
自分が集めた『黒い鱗』もルミナのあざとい微笑も、エリスラの放つ現実の重みも。
すべてが『過負荷』という名の白い虚無に身体全体が飲まれていく。
意識が遠のく寸前、ハルの耳に届いたのは、システムが正常に処理を終えたことを告げる、無機質なただの機械音が鳴り響いただけだった。
「ーー対象の全データをゴミ箱へ移動しました」




