第八章 揺らぐ常識
第八章 揺らぐ常識
報告と波紋
1 学舎への帰還
旧水路から戻った僕らは、すっかり夕闇に染まった王都の街を歩いた。
街路に灯された魔光灯が揺れ、行き交う人々の影が石畳を横切る。
普段なら市のざわめきが心を弾ませるところだが、この日は皆、疲労と緊張を顔に張り付かせていた。
甲虫の群れ、胞子嚢、そしてあの不可解な魔道具――。
それらの記憶が重くのしかかり、まだ胸の鼓動は落ち着かない。
「……よく生きて戻れたわね」
イリスが小さく呟いた。
「ラース教官の言葉が正しかった。命を残せれば、それでいい」
「俺たち、結構無茶したよな」
ルークが風袋を背負い直し、ため息をついた。
「レオンがいなかったら、マジで危なかった」
その言葉に、セレンも頷く。
「圧縮炎に瞬間凍結……私でも理屈は分からなかった。でも、確かに効果は凄かった」
ブラムは黙っていたが、時折こちらを見ては口を開きかけ、結局閉じる。それでも視線に込められた色は、以前よりも確かに信頼に近かった。
だが、一人だけ――侯爵子息は違った。
彼は腕を組み、あからさまに不機嫌な顔で僕を睨みつけている。
その視線は「危険だ」「邪魔だ」と言葉以上に雄弁だった。
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2 教官たちの前で
学舎の講堂に戻ると、すでに数名の教官が待っていた。
中央の机には報告書用の羊皮紙と羽ペン。
奥の席には、ラース教官のほか、魔導理論担当のミレイア教官、治癒学のソルフェリオ教官の姿もあった。
「報告せよ」
ラース教官の声は低く、石壁に響いた。
イリスが一歩前に出て、簡潔に状況を語る。
胞子嚢の存在、群れをなす甲虫、設置されていた魔道具のこと。
そして、その中で僕が行った魔法の一端についても。
「……レオン・アルバートは、通常よりはるかに強力な火炎魔法と氷結魔法を用いました。魔力の放出量は子供の規模を超えていたと見受けられます」
ミレイア教官が首を傾げる。
「圧縮? 瞬間氷結? そんな理論は存在しないはずだが」
「ですが、実際に目の前で発現していました」
イリスの声は揺らがない。
「事実です」
ルークが口を挟んだ。
「俺も見た! あんな炎、教本にも出てこねぇ!」
セレンも続く。
「床の水が一瞬で氷になった。あれがなかったら、私たちは挟み撃ちでやられていた」
ブラムは短く言った。
「……命を救われた」
その証言が重ねられるほど、講堂の空気が変わっていく。
驚愕と、困惑と、そして一部の教官の中には――不安が混じり始めていた。
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3 危険視の芽
侯爵子息が待ちきれぬように叫んだ。
「嘘です! こいつは危険なんです! 誰も知らない魔法を勝手に使って……! そんなの、災厄を呼ぶに決まってる!」
ラース教官は目を細める。
「黙れ。証言は揃っている」
だが、別の声が上がった。
ソルフェリオ教官だ。
「しかし……確かに異常ではある。子供の魔力量を超えた現象を、独自の理屈で操る。これが制御できなくなったとき、何が起きるか……」
講堂の視線が一斉に僕に集まる。
疑念、好奇、警戒。
その重みに喉が詰まりそうになる。
だが、僕は前に進み出て、はっきり言った。
「僕は……人を傷つけるためにやったんじゃありません。仲間を守るために、できることをしただけです」
その言葉に、一瞬だけ空気が和らいだ。
だが完全に解けることはなかった。
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4 新たな任務
沈黙を破ったのは、ラース教官だった。
「議論はここまでだ。次の任務が下された」
彼は新しい羊皮紙を広げる。
「王都近郊のエルダ村にて、魔獣の異常な出没が報告されている。炎を纏った獣だ。通常の水魔法では鎮められず、被害が拡大している」
セレンが息を呑む。
「炎獣……?」
「学徒を含む混成の調査隊を編成する。お前たちの班も加わる。詳細は明日伝える」
ラース教官の目が僕に向いた。
その視線は冷静でありながら、わずかに探るようでもあった。
「レオン・アルバート。お前の方法とやらが真に役立つかどうか――試される時だ」
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5 仲間の揺らぎ
講堂を出ると、廊下の灯火がやけに眩しく感じられた。
足音だけが響く中、ルークが口を開いた。
「なあ、レオン。……あれ、マジでどうやったんだ?」
「空気を押し込んだだけ。炎は濃い空気で強く燃えるんだ」
「押し込む? 空気を?」
ルークは首を傾げる。
「俺、風魔法だけど……そういう発想はなかった」
セレンも目を細める。
「水を凍らせたのも……“振動を小さくした”って言ってたわね」
「うん。水は分子の振動が遅くなると温度が下がる。だから少しだけ振動を遅くした」
イリスは何も言わず、ただ僕を見ていた。
その瞳には疑いもあるが――それ以上に、認めざるを得ない現実を見た者の色が宿っていた。
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6 夜の独白
その夜、学舎の寮の小部屋で、僕は窓を開け放って空を仰いでいた。
星々が冴え、月光が白く石畳を照らしている。
(やっぱり……浮いてるな、僕は)
魔力の器を広げる方法を見つけたときから、予感はあった。
普通の子供では届かない場所へ、僕だけが進んでいる。
だが――。
父のように、仲間を守る冒険者になりたい。
ただその思いがあるから、進むことをやめられない。
窓を渡る夜風に、僕は小さく呟いた。
「……次は、もっとうまくやる」
遠くで梟の声が鳴いた。
中盤 炎を纏う獣
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1 村の惨状
翌日、僕らの班は他の学徒数名とともに王都を発った。
護衛として数人の下級騎士が同行し、隊列は十数名。
馬車は使わず徒歩で進み、昼過ぎには目的地であるエルダ村の丘陵地帯へたどり着いた。
遠目に見えた村は、すでに痛々しい姿をさらしていた。
茅葺の屋根は幾つも焼け落ち、黒煙がまだ上がっている。
畑は焼け焦げ、家畜小屋の柵はねじれ、焦げ臭さが鼻を突いた。
「……これが、炎獣の仕業か」
ルークが息を呑む。
村の入口で迎えたのは、すすで顔を汚した村長らしき老人だった。
「来てくださったか……! もう何人も怪我をして……どうか助けてくれ」
ラース教官が前に出る。
「詳細を聞く。炎を纏った獣とは、どんな姿だ」
「夜になると現れるんだ。狼のようでいて、体から炎が溢れて……普通の矢も剣も通じぬ。水魔法を浴びせても、すぐに蒸発してしまうのだ」
ソルフェリオ教官が苦い顔をした。
「熱量が常軌を逸している……か」
その言葉に、僕の心臓が跳ねた。
熱。燃焼。蒸発。
――それは僕が前世で何度も数式にした現象そのものだった。
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2 待ち伏せ
夕暮れ。
村人たちは納屋や地下室に避難し、僕らは村の中央に陣を敷いた。
盾を持つブラムと騎士たちが前列に立ち、後方に魔法を扱える者たちが並ぶ。
僕もその列に加わった。
空気はどこか湿り気を帯び、日が落ちるにつれて冷え込む。
だがその奥で、じりじりとした熱が忍び寄ってきていた。
やがて――暗がりの中に光が走る。
赤い閃光。
次の瞬間、獣の咆哮が夜気を裂いた。
それは確かに狼に似ていた。
だが毛皮は燃え盛る火のごとく揺らぎ、足跡のひとつひとつが火花を散らす。
口から吐き出される息は炎そのもので、目は熾火のように爛々と輝いていた。
「来たぞ!」
ラース教官が叫ぶ。
「各自、持ち場を守れ!」
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3 通常の魔法の限界
セレンが炎魔法を放った。
炎獣の足元で爆ぜるも、火の粉が舞うだけで、体躯に傷はつかない。
ルークの風が襲う。
だが逆に炎が煽られ、勢いを増してしまった。
「くそっ……!」
イリスが矢の先端に水魔法を集中させる。
水の塊が正確に胸を射抜いたが、燃え盛る炎が水を呑み込み、ただ火柱を高くした。
そして炎獣は跳んだ。
巨体が弾丸のようにブラムの盾に衝突し、火の粉が四散した。
「ぐっ……!」
ブラムの体が弾き飛ばされる。
「耐えられない!」
「後衛に来るぞ!」
炎獣の熱気が肌を焼き、息が苦しくなる。
通常の魔法では止められない。
それは、誰の目にも明らかだった。
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4 解析
僕は前に出た。
炎獣の体を観察する。
燃えているのは毛皮だけではない。全身の魔力が外気と反応し、常に燃焼を維持している。
だから水を浴びせても、一瞬で蒸発する。
温度が高すぎるのだ。
(ならば――逆に、熱を奪えばいい)
水を冷やすのではなく、空気を冷やす。
炎を維持できないほどの環境を作れば……。
頭の中に、氷点の計算式がよみがえる。
水蒸気を急激に冷やせば、飽和して霧になり、さらに凝結すれば熱を奪う。
それは大気中の潜熱を逆手に取る技だ。
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5 応用魔法の初披露
僕は両手を広げ、魔力を集中させた。
空気中の水分を掴み、振動を急激に抑える。
同時に、周囲の空気の流れを操作し、炎獣の周囲に渦を作る。
渦の中で、水蒸気が一気に冷やされ、白い霧が立ち込めた。
霧は炎に触れるたび熱を奪い、さらに凝結して氷の粒を撒き散らす。
「……っ!」
炎獣が咆哮した。
燃え盛る体が一瞬だけ萎み、炎が弱まる。
「今だ!」
僕は叫んだ。
ルークが風を纏わせた剣を重ね、セレンが炎魔法を叩きつける。
イリスの水魔法が飛び、ブラムが立ち直って盾で押さえ込む。
炎獣の体を覆う火が、確かに削がれていった。
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6 驚愕
「な、何をした……!?」
セレンが目を見開いた。
「霧……? いや、空気が冷えてる……」
ルークが息を白く吐いた。
イリスも構えながら、僕に視線を投げる。
「レオン……あなた、今のは……」
「ただ、熱を奪っただけ」
僕は短く答えた。
「水が凍るときは周りから熱を奪うんだ。それを利用した」
「熱を……奪う?」
イリスの声はかすかに震えていた。
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7 炎獣との攻防
だが炎獣はまだ倒れない。
弱まったとはいえ、炎は再び勢いを増し、目が赤々と光った。
僕は歯を食いしばる。
もっと熱を奪わなければ。
魔力をさらに注ぎ込み、周囲の空気の動きを加速させる。
渦が強くなり、白い霧が炎獣を包み込む。
炎は霧に触れるたびにしゅうしゅうと音を立て、削がれていく。
「おおおおっ!」
仲間が一斉に攻撃を叩き込む。
氷の鎖が絡み、風刃が肉を裂き、光矢が貫いた。
ついに炎獣が大きな悲鳴を上げ、地面に崩れ落ちた。
燃え盛る体はゆっくりと黒煙に変わり、やがてただの灰色の狼の骸となった。
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8 余韻
村の広場に、静寂が戻る。
霧が晴れ、夜風が頬を撫でた。
「……やったのか」
ルークが呆然と呟いた。
セレンが瓶を下ろし、震える手で額を拭った。
「信じられない……あの炎が消えるなんて」
イリスは矢を収め、僕をまっすぐに見た。
その瞳は困惑と驚愕と、そしてわずかな敬意を混ぜ合わせた色をしていた。
ブラムはただ、深く息を吐き、短く言った。
「助かった……」
仲間の視線が、僕一人に集まる。
その重みを、僕は確かに感じていた。
後半 波紋
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1 炎の後の静けさ
炎獣が灰へと崩れ落ちた広場に、静寂が降りた。
黒煙は夜風に散り、月明かりが村を淡く照らす。
戦いの余韻に包まれた空気の中、僕たちはしばらく誰も言葉を発せなかった。
最初に声を漏らしたのは村長だった。
「……や、やったのか? 本当に、あの獣を……」
避難していた村人たちが恐る恐る顔を出す。
やがて安堵の波が広がり、すすり泣く声と感謝の声が重なっていった。
「助かった……」
「ありがてぇ……」
「もう家族を失わずに済む……」
その光景に、胸が熱くなる。
――守れたんだ、と。
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2 仲間たちの視線
だが仲間たちの視線は、すぐに僕へと集まった。
ルークが目を丸くしたまま、近寄ってくる。
「なあ、レオン……今の、どういうことなんだ? 炎を……消した?」
「ただ……冷やしただけ」
僕は答えた。
「炎は熱で燃えてる。だから熱を奪えば、消える」
「熱を……奪う……?」
ルークは頭をかきむしり、意味が掴めないという顔をした。
セレンも瓶を抱えながら首を振る。
「そんな発想、聞いたことない。水をかけるなら分かるわ。でも、空気を冷やすって……」
イリスは沈黙を守っていたが、やがて静かに言った。
「結果は事実。……貴族の子でも真似できないわ」
ブラムは短く付け足した。
「命を救われた。それで十分だ」
けれど、彼らの目の奥には「理解できない」という色が消えなかった。
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3 侯爵子息の反発
そのとき、押し殺していた声が爆発するように響いた。
「ふざけるな!」
侯爵子息が顔を真っ赤にして叫んでいた。
「こいつは危険だ! 見たか!? 誰も知らない力で炎獣を屠った! あんなもの……制御を失えば、王都だって燃え尽きる!」
彼の剣先が、震えながら僕を指す。
周囲の騎士や学徒がざわめき、空気が張り詰めた。
ルークが一歩前に出る。
「待てよ! レオンがいなかったら、全員やられてたんだぞ!」
「そうよ!」
セレンが反論する。
「私たちが証人よ。彼は守るために力を使った!」
イリスは冷たい声で切り捨てた。
「あなたは見ていただけ。感情で叫ばないで」
侯爵子息は唇を噛み、言葉を失った。
だが、彼の視線に宿る敵意は消えない。
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4 教官たちの判断
ラース教官が静かに前へ進み出る。
「議論は後だ。今は村を安定させることが先決だ」
その声音には揺るぎがなく、場の緊張を一気に収めた。
ソルフェリオ教官は腕を組み、僕を長く見つめた。
「……確かに規格外だ。だが結果は村を救った。それを否定する理由はない」
ミレイア教官は眉を寄せながらも、興味深そうに呟く。
「熱を奪う……。理論は理解できぬが、現象は確かに存在した。……この子の頭の中には、我々がまだ知らぬ法則があるのかもしれん」
ラース教官は最後に僕へと視線を向けた。
「レオン・アルバート。次に同じことを問う。お前の力は、何のためにある?」
僕は迷わず答えた。
「仲間を守るために。……それ以外はありません」
教官の瞳が一瞬だけ柔らぎ、すぐに鋭さを取り戻した。
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5 村の夜
その夜、僕たちは村に泊まった。
崩れた家屋の修繕を手伝い、負傷者の手当てを行い、瓦礫を片付ける。
村人たちは何度も頭を下げ、涙を流しながら食事を差し入れてくれた。
「レオン君のおかげだよ……」
「子供なのに、あんなに……」
その言葉を受けるたび、胸が重くなる。
僕はただ必死でやっただけだ。
けれど彼らにとっては、命を繋ぐ奇跡だった。
焚き火のそばで仲間と座ったとき、ルークが唐突に笑った。
「なあ、俺……ちょっと悔しいんだ」
「悔しい?」
「ああ。だってさ、風で火を煽っちまったんだぞ? 俺の魔法、足を引っ張った。なのにお前は、空気を使って逆に火を消した」
彼は火を見つめながら、拳を握った。
「次は負けねえ。……そう思った」
セレンがくすりと笑う。
「私も。魔法で対抗できるよう、もっと工夫するわ」
イリスは無言のまま矢を磨いていたが、その横顔はどこか穏やかだった。
ブラムは火酒を一口あおり、短く言った。
「共に戦えた。それでいい」
焚き火の火の粉が夜空に舞い、星々の間に消えていった。
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6 夜の独白
夜更け。
村の片隅で、僕はひとり月を仰いだ。
(僕のやっていることは……やはり異質だ)
貴族の子息が恐れるのも、理解できる。
この世界の誰も知らない理屈を持ち込み、常識外れの現象を起こしているのだから。
だが同時に――守るために必要なものでもある。
父が教えてくれた冒険者の心。それは「力は人を守るために使え」という言葉だった。
(僕はまだ……ほんの入り口に立っただけ)
炎を消すだけじゃない。
圧縮で温度を上げ、氷で動きを止め、霧で熱を奪う。
物理と魔法が重なれば、もっと多くの可能性が見えるはずだ。
「この世界の常識を……塗り替える」
誰に聞かせるでもなく、夜にそう誓った。
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7 帰還の道
翌朝、僕らは王都への帰路についた。
村人たちは見送りに立ち、何度も感謝を叫ぶ。
その中に混じって、子供たちが目を輝かせていた。
「すごかったね!」
「ぼくもあんな魔法、使えるようになるかな!」
その声に胸がくすぐったくなり、思わず笑みが零れた。
「いつか、きっとね」
子供たちは走り回り、笑いながら手を振った。
――僕の背中を、誰かが見ている。
その視線がある限り、進むしかない。