第七章 旧水路の影
・任務掲示と潜入
翌朝の学舎は、ざわめきに包まれていた。
掲示板に貼られた羊皮紙には、こう記されている。
――実地演習・班別任務:旧水路八番水門。腐食と瓦解の危険あり。魔獣発生の兆候。原因調査および一次封鎖。
僕たち五人――イリス、ルーク、ブラム、セレン、そして僕――が担当に選ばれていた。
「いきなり実地か……」
ルークが肩の風袋を撫で、顔をしかめた。
「水路って湿気も匂いも最悪だろ? 風魔法使いには罰ゲームみたいなもんだ」
「でも、君がいなきゃ換気できないよ」
僕は笑って言う。
「水路は細くて空気が滞るからね。風を動かせるのは安全確保に大事なんだ」
「……まあ、な」
ぶっきらぼうに返しつつも、ルークの頬は少し緩んでいた。
イリスは冷静に荷物を確認している。
縄、楔、灯火の水晶、簡易の止血具。
「必要最小限ね。みんな、これでいい?」
ブラムは黙って頷き、背中の盾を持ち直した。
セレンは腰に並べた小瓶を指で弾いて、僕に小さな声で囁く。
「レオン、匂いの変化には敏いほうでしょ? 嫌な風が来たらすぐ教えて」
「うん。任せて」
監督役のラース教官は、いつも通り表情を変えずに一言だけ告げた。
「無理をするな。命を残せ。それで評価は十分だ」
僕たちは王都南の外縁にある旧水路へ向かった。
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市の端は活気のある市場とは一変して、道は荒れ、家々は傾き、皮なめし場の酸っぱい匂いが漂っていた。
八番水門は錆で赤茶け、歪んだ扉の隙間からは冷たい空気が吸い込まれている。
「……風を感じる」
僕はしゃがみ込み、掌を隙間にかざした。
吸い込むような流れ。耳を澄ませば、奥から低い唸りが規則的に響いてくる。
「自然な流れじゃない。……呼吸みたいだ」
イリスが眉をひそめる。
「崩落だけじゃなさそうね」
ルークは渋々風を起こし、入口に逆流を作った。
「これで中の空気が多少マシになればいいがな。」
ブラムが盾で入口を広げ、セレンが杖を確かめた。
僕らは灯火を掲げ、旧水路の奥へと踏み入った。
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中は湿った石の匂いが充満していた。
壁は黒ずみ、苔が点々と光を返す。天井は低く、太い根が石積みを割っている。
靴底にザラつく砂、滴の音。すべてが不気味に響く。
「足並みを乱さないで」
イリスが短く声を飛ばす。
僕たちは黙って頷き、進んだ。
第二棟に差しかかる手前で、僕は違和感に足を止めた。
壁の割れ目に、黒い斑点が広がっている。丸く膨れた袋のようだ。
「……胞子嚢だ」
セレンが低く囁く。
「魔性黴。破裂すれば目も喉も焼かれる」
僕は喉を詰まらせるような刺激臭を感じながら、石壁に手を添えた。
ここだけ湿度が異常に高い。連鎖的に胞子が広がる環境が揃っている。
「……少し待って」
僕は小さく魔力を放ち、足元の石の“温度”を下げた。
わずかに空気が冷え、壁の表面の湿気が凝り固まる。
ぱち、と小さな音がして、胞子嚢の膨れが鈍った。
「温度を下げたの?」
イリスが目を細める。
「うん。連鎖が進まないようにした。……今なら通れる」
僕らは壁際を慎重に通り抜ける。
その時――
「やあ、遅いじゃないか」
背後から光が差し込み、声が響いた。
派手な金具の制服に、鼻で笑う少年。
侯爵家の三男、昼に道を割らせていたあの子だ。後ろに取り巻きが二人いる。
「課題は班ごとに違うはずよ」
イリスの声は冷ややかだった。
「家の印章があれば十分だろう?」
少年は杖をくるりと回し、誇らしげに笑う。
「闇に光を――それが正義だ」
「待っ――」
イリスが止めるより早く、少年の杖から強い光が放たれた。
空気を吸い込む水路に、炎が混ざる。
ぱん、と。
胞子嚢が爆ぜ、刺激臭の灰が広がった。
同時に、奥からざわりと音が押し寄せる。
石を擦る硬い音。無数の脚の音。
ルークが顔を青ざめさせた。
「……何か来るぞ!」
闇の奥で甲殻の列が揺れた。
地潜り甲虫――硬い殻と顎を持つ群れ。
僕は息を呑み、魔力を走らせる。
・圧縮の炎、凍結の罠
1 群れの襲来
奥の闇から、ざざざざ、と無数の脚音が迫ってくる。
灯火の明かりに浮かび上がったのは、甲殻で覆われた黒光りの虫たち。
拳大のものから、大人の腰ほどもある巨体までが混じり合い、群れをなして蠢いていた。
「地潜り甲虫……! 数が多すぎる!」
セレンが声を上げ、小瓶を握りしめた。
「火が効くはずよ、迎え撃って!」
イリスが即座に号令をかける。
ブラムが前に出て盾を構える。
ルークは風を起こして前列の虫を押し返し、セレンは炎の魔法を放つ。
光と熱が水路を揺らし、甲虫たちが甲高い音を立ててのたうった。
だが、すぐに奥から次の群れが溢れ出す。
光に誘われたのか、壁や天井にまで這い上がってくる。
「きりがない!」
ルークが叫び、風を渦に変える。だが狭さが災いして、思うように勢いが出ない。
「もっと強い魔法を――」
侯爵子息が杖を振り上げる。だが彼の火球は周囲の胞子嚢を次々に刺激し、空気はますます濁った。
「やめろ!」
僕は叫んだ。だが彼は鼻で笑っただけだ。
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2 圧縮の炎
僕は喉を焼くような刺激臭の中、深く息を吸った。
魔力の流れを意識し、周囲の空気を掴む。
――空気はただの空間ではない。圧縮することができる。押し固めれば、酸素は濃くなり、炎はさらに燃える。
掌に灯した火は小さな赤い点にすぎなかった。
けれど僕はその周りの空気を押し込み、ぎゅう、と圧をかける。
火は細く針のように尖り、色を変え、青白く揺らめいた。
「……行け」
僕は指先から放った。
青い炎の針が前列の甲虫に突き刺さり、瞬間的に爆ぜた。
通常の火球の数分の一の大きさなのに、殻ごと体内を焼き抜き、甲虫が黒煙を噴いて崩れた。
イリスが目を見開く。
「……圧縮した?」
「ただ、押し込んだだけ。炎は空気が濃いほど燃えるんだ」
僕は平然を装って言った。だが掌の痺れが、自分がどれほど危うい実験をしたかを物語っている。
「小さいのに……威力が段違いだ」
ルークが唾を飲み込む。
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3 凍結の罠
だが群れは止まらない。
天井から落ちてきた巨体の甲虫がブラムに迫り、盾がきしんだ。
「くそっ、持たない!」
「下がって!」
僕は地面に手をついた。
足元には溜まった水。湿気で濡れた石の上を薄く覆っている。
――水は分子が振動しているほど液体だ。振動を抑えれば、凍る。
僕は魔力を流し込み、分子の振動を“抑える”イメージを描いた。
ざり、と音がして、足元の水が一瞬にして薄氷に変わる。
その冷気は周囲に広がり、巨体の甲虫の脚を滑らせた。
がしゃん、と。
虫はバランスを崩し、頭から壁に激突した。
ルークがすかさず剣を叩き込み、甲殻を割る。
「……氷!?」
セレンが驚愕の声を上げる。
「この湿気で一瞬に……」
「ちょっと冷やしただけ」
僕は息を整えながら答えた。
「水は分子の振動が小さくなると温度が下がるんだ」
イリスは僅かに口元を引き結んだ。
「……理屈は分からないけれど、確かに結果は出ているわね」
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4 班の動揺
侯爵子息は顔を赤くして叫んだ。
「ずるいぞ! そんな魔法、聞いたことがない!」
「別にずるくはない。ただ、やり方を工夫しただけだ」
僕は視線を返さなかった。敵はまだ蠢いている。
けれど周囲の仲間の目が、今までとは違う色を帯びているのを感じた。
驚きと、畏怖と、わずかな希望。
イリスが短く言い放つ。
「……続けるわよ。まだ奥が残ってる」
僕らは再び陣形を整え、湿った闇の奥へと進んだ。
・共鳴の罠と決意
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1 本巣の広間
湿った石の通路を抜けた先、空間が一気に開けた。
そこはかつての貯水広間。天井は高く、柱が林立し、中央には大きな水槽跡が口を開けている。
だが今は水などなく、底には甲虫の死骸と黒い胞子が堆積していた。
壁際には巨大な塊――胞子嚢の親玉が膨れ上がり、時折ぼこり、と息を吐くように震えている。
「……ここが巣か」
イリスの声は硬い。
「数が多すぎる。燃やすにも空気が悪いわね」
セレンは鼻を覆った。
その時、ふいに耳鳴りが走った。
ぎぃん、と。
空間のどこかが震え、石壁が低く唸った。
「今の音……」
僕は柱の影を見て、目を見開いた。
そこに設置されていたのは、金属の枠に水晶を嵌め込んだ奇妙な装置だった。
微かな魔力の波動を発し、空気を震わせている。
「魔道具?」
セレンが眉を寄せた。
「共鳴させて……空気を揺らしている。だから胞子が膨張してたんだ」
僕は低く呟いた。
「これを放っておけば、爆発的に胞子が弾ける」
イリスの表情が険しくなる。
「つまり、誰かが仕掛けたということね」
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2 群れの猛攻
その瞬間、広間全体がざわついた。
柱の影や天井から、さらに大きな甲虫がぞろぞろと姿を現す。
今までの倍以上の数。殻は厚く、顎は岩を砕けそうなほど大きい。
「くっ……全員、陣形を!」
イリスが叫び、ブラムが盾を構える。
ルークが風を巻き、セレンが炎の魔法を放つ。
炎と風切り音が響くが、効果は薄い。
虫たちは怯まず迫り、ブラムの盾に激突した。
金属が悲鳴を上げ、彼が膝をつく。
「持たない!」
「下がって!」
僕は前に出た。
装置の振動が耳に響く。
これを止めなければ、胞子も虫も際限なく増える。
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3 圧縮の一撃
僕は右手を掲げ、小さな火を灯した。
呼吸を整え、周囲の空気をさらに圧し固める。
――今度は一か所ではない。数本の柱の間にある空気を、まとめて押し縮めた。
圧縮された空間に火を滑り込ませる。
次の瞬間、青白い炎が一斉に膨れ上がり、甲虫の群れを呑み込んだ。
轟、と。
爆発音ではない。音を抑え込んだ、濃密な燃焼の唸り。
甲虫の殻が焼け弾け、数匹が黒い塊となって崩れた。
「なっ……」
ルークが目を剥く。
「一瞬で……こんな威力……!」
イリスも思わず動きを止めた。
「大丈夫。空気を集中させただけ」
僕は冷静を装った。
だが掌は震え、熱で皮膚がじんじんと痺れている。
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4 凍結の鎖
それでも数はまだ多い。
ブラムの盾を押し潰そうとする巨体の甲虫が、吠えるような音を立てて迫る。
僕は再び地面に手をついた。
床の湿気を感じ取り、魔力を流す。
分子の振動を奪い、振動を小さく、さらに小さく。
氷が走った。
石の隙間に沿って、白い筋が一気に広がる。
甲虫の足がそれに囚われ、がちりと固まった。
「今だ!」
ルークが剣を叩き込み、セレンが炎魔法を放つ。
氷に固定された虫は逃げられず砕け散った。
「……信じられない。子供が、こんな……」
ブラムの声が震えていた。
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5 装置の破壊
まだ広間に振動が伝わる。
魔道具の共鳴音が胞子を刺激し、親玉の嚢が今にも破裂しそうに膨れていた。
「装置を止めなきゃ!」
僕は駆け出した。
柱の根元に置かれた装置に手をかざし、魔力を流し込む。
水晶の振動が逆流して耳を刺す。
だが、物理は裏切らない。共鳴には逆位相がある。
僕は逆の波を描いた。
装置の振動読み取り、魔力で“逆向きの振動”を叩き込む。
ぎぃん、と高音が跳ね、やがて装置はひび割れ、ぱりんと砕け散った。
同時に、空気が静まり返った。
親玉の胞子嚢は萎んでいく。
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6 余韻
広間には、倒れた虫の死骸と焦げた匂いだけが残った。
仲間たちは一様に肩で息をし、僕を見つめていた。
「……何を、したの?」
イリスの声は低い。
「少し……逆に振動させただけ。振動は重なれば消す事もできるんだ」
僕は淡々と答えた。
ルークが呆然と笑う。
「少しって……これ、子供がやる魔法じゃねえだろ」
セレンも目を丸くしていた。
「こんなやり方、聞いたことない。誰に習ったの……?」
「誰にも」
僕は小さく息を吐いた。
「ただ、現象を見て……考えただけ」
沈黙が広がる。
だが次の瞬間、イリスが短く言った。
「……いいわ。結果は出た。全員、生き残った」
彼女の目は鋭いが、どこかに認める色があった。
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7 決意
地上へ戻る道のり、僕は心の中で自問していた。
――見せすぎたかもしれない。
でも、仲間を守るためには仕方なかった。
空を仰げば、夕暮れの光が赤く街を染めていた。
この世界の空気、この世界の理。
それを読み解けば、まだ無限に可能性がある。
(僕は――この世界の魔法を、物理の理と繋げる)
心臓が静かに高鳴る。
その鼓動は、誰も知らぬ新しい道の始まりを告げていた。
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