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第五章 旅立ちの鐘


第五章 旅立ちの鐘


・村での別れ


 夏の終わり、朝の空気はほんの少し涼しくなっていた。

 畑を渡る風は、昨日までの熱気をやわらげ、青々とした麦の葉を静かに揺らしている。

 収穫にはまだ早い。けれど、村の人々はどこか落ち着かない顔をしていた。

 ――いや、きっと僕の心がそう映しているのだ。


 秋には王都から学舎の試補が行われる。

 村から出て学ぶ子は珍しい。けれど、僕が行くことはもうほとんど決まりだ。


 今日、僕は村のあちこちを回り、別れの挨拶をすることになっていた。

 父は「お前が出ていくからといって、もう二度と会えないわけじゃない」と言ったが、村の人々にとっては大きな出来事なのだろう。

 幼い子どもが都会に出る――それは一族全体の誇りであり、不安でもある。



---


1 父の教え


 朝早く、父と裏庭で木剣を構えた。

 まだ日が昇りきらない冷たい風の中、父はゆっくりと剣を振る。

 その動きは流れるようでいて、土に根を張った木のように揺るがない。


「レオン。お前が行く場所は、この村よりもずっと広く、そしてずっと荒れている」

「荒れている?」

「ああ。人が多いところでは、人の欲も多い。金も、力も、知恵も……すべてが奪い合いになる」


 父は木剣を地に突き立て、僕の目をじっと見た。

「だから覚えておけ。勝つための剣よりも、生き延びるための知恵を先に持て。戦う前に逃げ道を探せ。」


 その言葉は、僕の胸の器にすっと沈んでいく。


「父さん」

「なんだ」

「父さんは、怖くなかった? 都会に出たとき」

「怖かったさ。人の数も、建物の高さも、剣の速さも、何もかもが違ってた。だが、恐れるのと逃げるのは違う。恐れは持っていい。逃げたくなったら逃げろ。それで死ななければ、それで十分だ」


 父は僕の頭を軽く叩いた。

「お前は俺より頭がいい。だから、余計に考えすぎて足が止まることもあるだろう。そういう時は、まず一歩だけ踏み出せ。それで十分だ」


 僕は深く頷いた。



---


2 母の手


 昼前、家に戻ると母が大きな布袋を広げていた。

 中には乾燥肉、干した果実、手縫いの小さな薬草袋。

 そして布の底には、まだ使い古されていない麻のシャツが畳まれていた。


「旅は汗をかくからね。替えの服が大事になるのよ」

 母は針を持ちながら、糸の先を僕に見せる。

「破れたら、すぐに繕うのよ。放っておくと大きく裂けてしまうから」


 僕は小さく笑った。

「母さんは、僕が服を破ることを前提にしてるんだね」

「当たり前でしょ。冒険者の子だもの」


 母は針を置き、僕の頬に手をあてた。

 その掌は温かく、ほんの少し震えていた。

「レオン。あなたは特別だから、心配なの」

「特別?」

「昨日の光。みんながどう思っているか、分かるでしょ?」


 僕は頷いた。

 あの六色の光は、人々に驚きと不安を与えた。

 好奇と羨望、そして恐れが入り混じった視線は、僕の背中にずっと残っている。


「だからね、レオン。特別であることは、時に重荷になるの。忘れないで」

「……うん」


 母は微笑み、背伸びして僕を抱きしめた。

 僕の肩に落ちた涙は、すぐに乾いてしまったけれど、温度だけはいつまでも残っていた。



---


3 友との別れ


 午後、僕はミーナとトマに会いに行った。

 二人は広場で木の実を投げ合って遊んでいた。

 僕の姿を見ると、すぐに駆け寄ってくる。


「レオン、本当に行っちゃうの?」

 ミーナの瞳は揺れていた。

「うん。でも、戻ってくるよ」

「約束?」

「約束」


 ミーナは僕の小指に自分の小指を絡めた。

 その力は思ったより強かった。


 トマは腕を組み、少しふてくされた顔をしていた。

「ずるいよな。お前だけ都会に行けて。俺だって冒険者になりたいのに」

「トマは畑を守るんだろ?」

「……ああ。でもよ。俺だって剣くらい振れるし」

「分かってる。でも、畑を守る人がいないと、冒険者は生きていけないんだ」


 トマは少し考えて、ため息をついた。

「じゃあ、俺は村で一番の畑守りになる」

「うん。その方が似合ってる」

「むかつく!」

 そう言いながらも、トマは最後に僕の肩を力強く叩いた。



---


4 村人たちの視線


 夕方になると、広場に村人たちが集まった。

 僕のために、小さな送別の宴を開いてくれるのだという。

 焚き火の周りには肉の串焼きや麦酒が並び、子どもたちは歌を歌っていた。


 皆が僕に声をかけてくる。

「王都で頑張れよ!」

「うちの名を忘れるなよ!」

「体に気をつけるんだ!」


 その声は温かく、同時にどこか距離を持っていた。

 まるで「もう僕はここに属していない」と告げられているような気もした。

 けれど、それは当然のことだ。

 僕はこの村を出て、知らない世界へ向かうのだから。


 焚き火の炎が夜空に舞い上がり、夏の終わりを照らしていた。

 その炎の揺らぎを、僕はずっと目に焼き付けていた。



---


・旅路と初戦闘


1 出立


 翌朝、まだ日が昇りきらぬうちに、村の広場に荷馬車が二台並んだ。

 前に立つのは王都から派遣された学識師と、その護衛の騎士たち。鎧の金具が朝の光を弾き、冷たい音を立てる。


「ここから三日かけて北の街へ。そこで一度休み、さらに王都支部を目指す」

 学識師は地図を広げながら、村人たちに説明していた。

 村人たちは口々に「気をつけろよ」「怪我するなよ」と声をかける。

 僕はその言葉を一つひとつ胸に刻んだ。


 父は荷馬車のそばまで来て、僕の肩を叩いた。

「いいか、レオン。強くなろうとするな。まずは生きろ」

「うん」

「母さんを泣かせたら帰ってこい」

「……うん」


 母は布の袋を僕の手に握らせた。中には干した果実と、縫い目のきれいな布切れ。

「お腹がすいたら少しずつ食べなさい。寒いときはこれを巻いて」

「ありがとう」


 ミーナは泣きながら小さな花を差し出した。

「……絶対、帰ってきてね」

「うん。約束する」


 トマは無理に笑っていた。

「都会に行ったら俺のこと自慢していいからな! “村一番の畑守りと友達だ”って!」

「わかった」

 そう言うと、トマは大声で笑い、目尻をこすった。


 学識師が合図をする。馬車がゆっくりと動き出す。

 振り返ると、村人たちが手を振っていた。

 僕は手を高く掲げた。

 胸の奥に、小さな鐘の音が鳴るように感じた。

 ――旅が、始まった。



---


2 馬車の揺れと観察


 馬車に揺られるのは初めてだった。

 板張りの座席は固く、振動が骨に響く。けれど僕にとっては退屈ではなかった。


 窓から見える景色が次々に変わる。

 畑が森に変わり、森が丘に変わり、遠くに川がきらめく。

 空の雲は刻一刻と形を変え、光が角度を変えて大地を照らす。


 僕はそれをひとつひとつ観察した。

 風の流れ、太陽の角度、地面の湿り気。

 父の言葉を思い出す。

 ――「逃げ道を探せ」。

 頭の中で地図を描き、万が一のときの退路を計算する。


 護衛の騎士の一人が、僕をちらりと見て笑った。

「坊主、難しい顔してるな。馬車の揺れで酔ったか?」

「ううん。景色を覚えてるだけ」

「覚える?」

「逃げるときに使える道を探してる」


 騎士は驚いたように目を見開き、それから声を上げて笑った。

「はは! こりゃ頼もしい! 司祭が言ってた通りだな、ただの坊主じゃねぇ!」


 学識師も微笑を浮かべた。

「観察する子は伸びる。記録しておくといいよ。あとで役に立つ」


 僕は小さな羊皮紙に炭で印をつけた。

 ――丘の斜面は緩い。馬なら逃げられる。

 ――川の流れは速い。渡るのは危険。

 ――森の奥に獣道。小柄な者なら通れる。


 胸の器に、冷たい水が少しずつ注がれるように、知識が積み重なっていく。



---


3 盗賊の影


 二日目の昼、森を抜ける頃。

 突然、馬車が止まった。

 前方に三人の男が立ち塞がっている。粗末な革鎧に錆びた剣。顔には汚れた布を巻いていた。


「金と荷を置いていけ!」

 その声は荒く、飢えた獣のようだった。


 護衛の騎士たちが前に出る。剣を抜く音が鋭く響いた。

「盗賊風情が。ここを誰の道だと思っている」

「うるせえ! やるぞ!」


 男たちが突っ込んできた。

 僕は馬車の中で息を止め、胸の器に指を伸ばした。


 盗賊の一人が足を踏み出す瞬間、僕は足元の土をわずかに緩めた。

 男の体が前につんのめり、剣が空を切る。

 その隙を突いて、騎士の剣が男の腕を打ち払った。


 もう一人が横から突っ込んでくる。

 僕は空気を軽く震わせ、耳元で虫の羽音を立てた。

 男が反射的に顔をしかめ、その一瞬で騎士が膝を蹴り崩す。


 三人目が馬車の方へ走ってきた。

 僕は咄嗟に布袋を掴み、中の干し草を投げつけた。

 風の流れを少しだけ変えて、草が男の目にまとわりつく。

「うっ!」

 その隙に学識師が短杖を振り、男の足元に光の閃きを走らせた。

 男は尻餅をつき、動かなくなった。


 戦いはあっけなく終わった。

 騎士たちは盗賊を縄で縛り、道端に放り出した。

「二度と馬鹿な真似をするな」

 冷たい声で言い捨てると、馬車は再び動き出した。



---


4 学識師の言葉


 戦いが終わったあと、学識師が僕を見た。

「……レオン。君が何をしたか、私には分かる」

「え……」

「土と風を操ったろう。だが、それは“魔法”ではなかった。少なくとも、我々が知っている形ではない」


 僕は息を呑んだ。

 学識師の瞳は鋭く、それでいて優しさも含んでいた。

「心配するな。私は君を告発するつもりはない。だが覚えておけ。君の力は、人を救うこともできれば、人を壊すこともできる。……だからこそ、制御を学ばねばならない」


「制御……」

「そうだ。君は特別だ。だからこそ、学び舎に来い。そこで君の力を正しく導くんだ」


 僕は強く頷いた。

 父の言葉、母の涙、村人たちの視線。

 それらすべてが重なって、胸の器に深く沈んでいく。



---


5 夜の焚き火


 その夜、一行は森を抜けた先の小さな野営地で休んだ。

 焚き火の炎がぱちぱちと鳴り、煙が夜空へ昇っていく。

 騎士たちは肉を焼き、酒を回して笑っていた。


 僕は少し離れた場所で、草に寝転がりながら星を見上げていた。

 星々の並びは、僕の前世で知っていたものとは違う。けれど、輝きは同じだった。

 ――この世界もまた、法則に従って動いている。


 隣に学識師が座った。

「眠れないか?」

「星を見てただけ」

「君の目は研究者の目だ。……この世界の理を解き明かしたいのだろう?」

「うん」


 学識師は焚き火に手をかざし、ゆっくりと語った。

「知識は力だ。そして力は責任を伴う。君はその責任を背負えるか?」

「……背負いたい」

「ならば、学べ。全てを学び、選び取れ。王都で待っている」


 炎の揺らぎが、学識師の顔を赤く染めた。

 その瞳は、遠い未来を見ているようだった。




・都市到着と決意



---


1 門の前


 三日目の昼過ぎ、土の道が緩やかに下り、視界の先に灰色の壁が立ち上がった。

 初めて見る城壁だった。

 まっすぐではなく、微妙に曲がりながら丘に沿って築かれている。石の継ぎ目は等間隔ではないが、角は丹念に面取りされ、補修の痕が幾重にも重なっていた。時の層がある。


 門前には列ができていた。荷馬車、旅人、羊を連れた商隊。

 番兵は二人、背丈は父より少し低いが、腰の剣の収まり方が良い。

 門の影に、丸い金属枠に乳白色の石を張り付けた輪が立っている。人が通るたび、枠の石がほのかに色を変えた。


「魔力探知です」

 学識師が小声で言う。

「禁呪を帯びた者や、過剰な感応を示す道具を見分けるためのもの。心配はいらない」

 僕は頷く。枠の石は“窓”だろう。色の変化は通過した魔力の質の差、つまり属性の“偏り”を見ている。


 順番が来る。

 枠をくぐると、白がふっと灯り、すぐに消えた。

 番兵が一瞬だけ目を細め、すぐに笑った。

「坊主、初めての城壁か」

「うん」

「でけぇだろ。……迷子になるなよ」

 声は粗いのに、優しい。


 荷馬車が通るとき、石の白はふくらみ、青へとわずかに偏り、また戻った。

 馬の汗と鉄の匂い。人々のざわめき。門の内からは市場の喧噪が押し寄せてきた。

 壁の向こうに、別の世界がほんの数歩で現れる。面白い、と思った。



---


2 市場の海


 門をくぐると、通りが波のように広がった。

 両側に店。頭上には布の日除け。香辛料の匂いが風に乗り、焼いた魚の煙が布の裏に溜まっている。

 叫ぶ声、笑う声、値切る声。靴底が石を打つ軽い音。

 僕は歩幅を少し狭め、歩く速さを市場の流れに合わせた。流れは二層になっている。早い層は真ん中、遅い層は日除けの陰際。


「寄り道はほどほどに」

 学識師が笑いながら釘を刺す。

「まずは宿を押さえる。夜になってから探検すればいい」


 とはいえ、一軒だけは足が止まった。

 店先に、磨かれた晶石と錬金の金具を並べた露店。

 掌に収まる大きさの六角晶。その側面に微細な溝が刻まれていた。

 店主は頭に革の帽子を乗せ、口端に針のような笑みを引っ掛けている。

「見るだけでも大歓迎さ。少年、君の目は石を見慣れた目だね」

「見慣れてはいないけれど、好きだよ」

「いい答えだ。これは“導路晶”。刻んであるのは魔力が通る道だ。火なら深く、風なら広く、光なら滑らかに」


 僕は一つの晶を指先で軽く撫でた。

 胸の器から、薄い魔力の糸を一本。石の刻みに沿って優しく触れさせる。

 溝の端で微かな温度差ができ、店主が目を細めた。

「……器用だね。子どもがやる手つきじゃない」

 学識師の咳払いが背中から飛んでくる。

「彼は学び舎行きです。悪い売り込みはご遠慮を」

「売り込み? とんでもない。関心しただけさね。」


「覚えておきな。道具は使う人次第さね。気をつけなよ。」

 言い置いて、店主は別の客に目を向けた。



---


3 鉄の匂い


 宿に荷を置き、学識師の許しを得て、午後の数刻だけ街を歩くことになった。

 通りの端で、鉄を打つ音がした。

 吸い寄せられるように覗くと、鍛冶屋の炉が赤く息をしている。

 ふいごを踏む見習いの足は、一定の速度で上下していた。だが、炎の揺れは不安定だ。

 吸気の角度と炉口の隙間のせいだ、と直感した。


 親方は大柄で、額に汗の河を作っている。

「坊主、見物か」

「うん。炎の音、少し乱れてる」

「は?」

「……ここ」

 炉口とふいごの間に置いてある木片を指さす。木片の角が欠け、空気が乱れていた。

 親方は数息目を瞬かせ、木片をずらし、角度を変えた。

 ふいごを踏む。

 炎の音が、さっきより低く、安定した。

 親方は鼻を鳴らし、ふっと笑った。

「ほう。――どこで覚えた」

「父さんが火を使うのが上手い」

 嘘ではない。

 親方は火箸を持って鉄片を炉から出し、槌を振る。

 音が気持ちいい。打撃の波が鉄の芯まできれいに通っている。


「坊主」

 親方が手を止め、僕の手の甲を見た。

「剣だの鎧だのはまだいらん。いるのは靴だ。踵の縫いが強くて、踵の革が二重になってるやつ。旅すると靴から壊れるからな」

 僕は頷く。

「売ってる場所、知ってる?」

「この通りを右に折れ、二つ目の角の革屋だ。親父は無口だが手は誠実だ」

「ありがとう」

 店の奥から、見習いがこっそり親指を立てた。

 街は、こういう“ささやかな連帯”で生きている。いい場所だと思った。



---


4 書の匂い


 革屋で靴を買ったあと、路地の先に細い扉を見つけた。

 干からびた松の板に、消えかけた文字。

 ――書肆。


 扉を押すと、紙とインクと乾いた木の匂いが一度に押し寄せた。

 棚は背丈より高く、巻物と製本がぎっしり詰まっている。

 奥に座るのは痩せた老書記、眼鏡の奥の目が小魚のように素早い。

「子どもは本を破る。破る者に本は売らぬ」

 開口一番それか、と内心苦笑する。

「破ったら二倍で買い直しますよ」

「ほう」

「あと、読んだら返す。売ってくれないなら、貸して」

「貸し本は高いぞ」

「買うより安い」

「計算はできるようだな」

 老書記は笑い、指をはじいて棚の一角を示した。

「『初学者の魔理まり』、入門書だ。字は多いが図もある。もう少し進んだものがいいなら『元素と律』。ただし、眠くなるよ」

「眠くならないのは?」

「冒険譚」

「……それも一冊」


 僕は『初学者の魔理』を手に取る。

 糸綴じは丁寧だ。表紙の角が少し丸い。

 ページをめくると、属性と器の説明があり、呼吸と姿勢、精神の集中について繰り返し述べてある。

 知りたいのは、そこじゃない。

 この世界の人々が“魔法の言葉”で何を見ているのか。

 “言葉”の隙間から、現象そのものの輪郭が見える。


 書肆を出ると、外は茜に染まっていた。

 ページの匂いが袖に残る。

 胸の器の底が、少しずつ音を立てて広がる気がした。もう伸びないはずなのに、知識の分だけ、底に段が増える。そんな感覚。



---


5 薄暮の路地


 宿へ戻る道すがら、細い路地で小さな影が走った。

 布の端が僕の腰の袋をかすめる。

 反射で腕が動く――けれど、掴む代わりに、足先で石を一つ転がす。

 石は影の前を転がって、雨樋の縁に当たり、からんと高い音を立て道を塞いだ。

 影の足が一瞬だけ止まる。

 その間に、僕は路地の出口へ身体を半歩寄せ、逃げ道を“塞ぐ”。

 影は自分の状況に気がつき、振り返った。

 やせっぽちの少年。目はよく光っている。


 僕は腰の袋から干し果実を一つ取り出し、掌に載せて見せた。

「これ、甘いよ」

 少年の喉が動く。

「……いらねえ」


 僕は袋の紐を軽く引き、袋の口を閉じた。

 少年は目を細め、舌打ちを飲み込んだ。


「……ケチだな」


「汚れた手は、盗みをするためのものじゃない。仕事をするものだよ。」


沈黙。


「……うるせえ」

 捨て台詞とともに、少年は去った。

 だが走らなかった。歩いて、角を曲がって、消えた。

 袋の紐を結び直しながら、僕は空を見上げた。

 暮色の底で一番星が瞬いている。


「僕の知識が皆を幸せにできるかな…」



---


6 宿の夜、一通の手紙


 宿に戻ると、学識師が帳面を閉じてこちらを見た。

「街はどうだ」

「すごい。人が多くて、道具がたくさん動いてる」

「良い観察だ。――今夜は早く寝ろ。明日は出立が早い」

「はい」


 部屋に戻り、机に『初学者の魔理』を開く。

 “精神の集中”という言葉の下で、作者が言いたいのは熱と冷たさの均衡、流れと保持の時間分解能の話だ。

 言葉は違っても、見ている現象は同じ。

 読みながら、羊皮紙に短い手紙を書いた。

 父さん、母さんへ。

 城壁を見たこと。市場の匂い。親方の助言。書肆の老書記の偏屈。

 盗賊のことは書かない。代わりに、靴の糸の縫い方の図を描いた。

 最後に一文だけ、丁寧に書く。

 ――僕は元気です。必ず帰ります。


 書き終えて、胸の器の底に小さな灯りを置く。

 眠気が緩く来た。

 父の声、母の笑顔、ミーナの小指、トマのぶっきらぼうな笑い。

 その全部を底に沈め、目を閉じた。



---


7 夜明け前の出立


 四日目の朝、空は鉛色で、雲の切れ間から淡い光が降りていた。

 宿の前で馬の鼻息が白い。

 学識師が短く指示を出し、隊列が整う。

 門を出ると、道は丘を緩く登り始めた。


 街が背に小さくなっていく。

 丘の稜線を越えた瞬間、視界が開けた。


 はるか遠く、地平の霞に、針のような尖塔がいくつも浮かんでいた。

 王都だ、と誰かが言った。

 まだ空気の歪みの向こう、色も形も確かではない。

 けれど、そこの密度が高い事が分かる。

 人の数、物の数、言葉の数、法則の数。

 世界の“多さ”が、遠目にも分かる。


 胸の器が静かに鳴った。

 鐘の音に似て、けれど誰も鳴らしていない音。

 学識師がこちらを一瞥し、笑った。

「見えたか」

「うん」

「怖いか?」

「楽しみ」

「いい返事だ」


 馬車の揺れがまた始まる。

 空の色はゆっくりと変わり、雲は破れたり繋がったりしながら流れていく。

 道端の草の穂先に露が宿り、朝日が当たって、短い虹をいくつも作った。

 小さな虹はすぐに消える。

 だけど、その儚さが好きだ。現れて、消える。その間に、確かに“在る”。


(行こう)

(観察して、考えて、確かめて、書き留めよう)

(誰も泣かせないために)


 僕は指先で荷台の縁を軽く叩いた。

 鼓動と同じ速さで、木が小さく返事をした。

 王都への道は、まだ始まったばかりだ。

 けれど、扉はもう開いている。





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