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第四章 森の兆しと初陣


1 祭のあと、さざ波


 翌朝の村は、いつもの朝と、いつもの朝ではなかった。

 広場の布飾りは半分取り外され、甘い果実酒の匂いはまだ土に残っている。けれど人の視線は、昨日より少しだけ慎重で、僕の肩にかかる――そんな気配があった。


「レオン、おつかい頼める?」

 母が籠を渡す。パン用の小麦粉と、蜂蜜を少し。

「うん」


 通りを歩くと、どこからともなく囁きが耳に触れる。

「昨日の光、見たか」「教会の石、気まぐれ起こすって聞いたぞ」「いや、ありゃ……」

 視線がぶつかる。僕は会釈をして通り過ぎる。

 背中に刺さるものはない。尖った悪意ではなく、濡れた指で触れられるみたいな好奇と不安の混ざりもの――そんな感じだ。


 粉屋に入ると、主人は大きな手で小麦粉を量りながら笑った。

「レオン。昨日は、ほら、皆びっくりしただけだ。悪気はねえ」

「うん。粉を少しだけ」

「任せろ」


 店を出ると、路地の先でミーナが手を振っていた。

「レオン!」

 走ってきて、僕の腕を掴む。

「私ね、光だった。お祈りの手伝い、これから練習するの」

「知ってる。白かった」

「レオンは……」

 言いかけて、彼女は言葉を止めた。昨日の六色が、彼女の瞳にも残っているのだろう。

「大丈夫。僕は僕」

 そう言うと、ミーナはふっと笑った。

「うん」


 角を曲がるとトマが木の棒を振っていた。

「見たか? 俺、水だぞ水。畑、任せろよ!」

「頼む」

「でも、ちょっと怖いな。……失敗しないかな」

「失敗しても、またやればいい」

「お、おう。やる!」


 祭は終わった。けれど、昨日置いた「ひとつの事実」は、村の空気に波紋を作っている。

 僕は籠を持ち直し、胸の器の底を軽く叩いて確かめる。

 深い。静か。少し冷たい。――いつも通りだ。



---


2 司祭、訪う


 昼頃、白い法衣の裾が戸口の影を切った。

「お邪魔しても?」

 若い司祭が立っていた。昨日よりも少し疲れた顔で、それでも微笑は崩れていない。


 母がお茶を出し、父が座布団をすすめる。

「昨日はお務め、お疲れさまでした」

「皆が無事に終えられて何よりです」


 司祭は湯気を見つめ、それから僕を見た。

「レオン。驚かせてしまったね」

「僕は平気」

「そうか」

 短く笑い、少し言葉を探すように間を置いた。

「鑑定の石はね、6つの“窓”を持っている。窓は広くはない。だが、そのどれにも同時に風が通った――わたしはそう見た」

 父の指が机の端を軽く叩く。母の呼吸が浅くなる。

 司祭は続けた。

「記録の上では“誤反応”。村に不安を残さないための言い回しだ。けれど、私の中には小さな疑問が残っている。……それでいい。疑問は、ときに人を救う」


 司祭は湯を飲み干し、立ち上がった。

「夏の終わり、王都から巡検の学識師が来る。属性診の再検査や、才能ある子の進学斡旋も兼ねている。もし、君がもっと学びたいと思うなら――」

 父と母の視線が交差する。

「考えておいてください」

 司祭はそれ以上踏み込まず、帽子を取って帰っていった。


 戸が閉まる音。少しの沈黙。

「行くの?」

 母の声が小さく揺れた。

「まだ決めない」

 父が僕を見た。

「決めるときは、理由を言え。俺と母さんが納得できるようにな」

「うん」



---


3 見回りの支度


 夕方、広場に男たちが集まった。林道にゴブリンの影。影犬がまた畑を狙う。

 父は腰に棍棒、肩に短弓。足元に古い罠の鋼を置き、三本の杭と細引きで簡易の落とし罠の結びを示した。

「夜目のきくやつらだ。火を焚くな。風下に立つな。足音は合わせろ」

 若い男たちが頷く。

「俺もいく!」

 トマが棒を握って叫ぶ。

「駄目」

 母たちの声が一斉に飛ぶ。

 父は笑い、トマの背を押して下がらせた。

「男は、行かないと決めたときに強い。行くと決めたときにもっと強い。今日は“行かない”日だ」


 僕は父の横で罠の結びを見た。

 縄の摩擦、張力、風の抵抗。――頭の中で数字が並ぶ。

「父さん、ここの結び方、もう一回教えて」

「おう」


 父の指の動きを心に写していく。

 僕が今できるのは、正面に出ないこと、そして魔力の精度を上げること。

 器は深い。けれど、それを振り回す男になりたくはない。



---


4 溝道の遭遇


 その夜。

 男たちが森へ入ったあと、母たちは家々を訪ね、子どもと老人を一箇所に集めることにした。

 僕はミーナとトマ、数人の年下の子らを連れて、村の中央にある倉庫へ向かう。

 月は薄く、風は冷たい。畑の畦道は溝のように細く黒い。


「レオン、怖い……」

 年下の子が袖をつかんだ。

「大丈夫。前を見て、一歩ずつ」

 僕は声を落ち着かせ、耳で風の向きを測る。


 畦の向こうで、草が揺れた。

 影が二つ、ぬるりと起き上がる。低い吐息。黄色い眼。

 ――ゴブリンだ。偵察。背は低いが、歯と爪と棍棒。


 逃げるには距離が足りない。

 叫べば、子どもたちが固まる。

 戦えば、誰かが傷つく。


 僕は一歩出て、土の「湿り」を集めた。

 影の踏み込みの一歩だけ、わずかにぬかるませる。

 同時に、溝の先――牛小屋の方角に、乾いた音を作った。

 指先で空気の層を擦り合わせる。コツ、と小石を打つ程度の音。

 影がそちらへ首を振る。耳が動く。鼻がぴくりと向きを変える。


 もう一つ。

 畦の終点、木杭に刺さった鍬の刃。刃の部分に僅かな露を集める。

 きい……と微かな軋み音がした。


 影の視線がそちらへ吸い込まれた一瞬。

「いまだ、走れ」

 囁きで命じ、子どもたちの背を押す。

 トマが先頭に立ち、ミーナが最後尾で袖をつないだ。

 僕は二人の間で距離を測り、後方の影の足音に合わせて、土の粒をほんの少しだけ膨らませる。

 影の足が滑る。棍棒が空を切る。


 倉庫の灯りが近づく。扉の前に灯が一本立っている。

 母たちの声が届く。

「こっち!」

 扉が開き、子どもたちの身体が闇から光へ吸い込まれる。

 最後に僕が入る。

 扉が閉まり、閂がかかった。


 しばらくして、外の足音は消えた。

 胸の奥の器は、表面だけが浅く擦れたように感じたが、すぐに滑らかに戻った。


「……レオン」

 ミーナが袖を握ったまま、震えた指で小さく握り返してくる。

「だいじょうぶ」

 僕は頷き、深呼吸をした。



---


5 夜のふち


 深夜。

 倉庫の隙間から外を見ると、村の外れで何かが動いた。

 男たちが戻ってきたのだ。影が複数、荷車に何かを積んでいる。

 しばらくして父が扉を叩いた。

「開けるぞ」

 閂が外れ、冷たい空気が流れ込む。

 父の顔には泥と煤。肩で息をしながらも、笑っていた。

「大事はない。追い払った。小さい群れだったよ」


 安堵の空気が、倉庫の中を一気に緩めた。

 けれど父は僕の耳もとで囁いた。

「ひとり、逃げた。……戻るかもしれん。念のため用心して寝ろ」


 僕は頷く。

 倉庫の天井の梁に、夜の風がわずかに当たる。

 眠りにつく前に、外の土に軽く触れた。

 村の東側、細い溝道にだけ、露を落とす。

 足跡から足取りと数がわかれば、父は罠の位置を変えられると思い。



---


6 朝の痕跡


 夜が明ける。

 父と若い男たちが溝道に沿って歩く。僕は少し離れてついていく。

 露が集まって、歩幅の短い足跡がいくつも浮いていた。

「ここで転んでるな」

 父が泥の跳ね方を見て指さす。

「こっちへ逃げたか。……よし、罠はこことここだ」


 父が杭を打ち、細引きを渡す。

 僕は糸の張りを見て、指先で空気を撫でる。

 風向き。露の重さ。鳥の鳴き。――たぶん、昼前に戻ってくる。


 村の端で、白髪の治癒師が枯木に腰かけていた。

「露の集め方がうまい」

 老人がぽつりと言う。

 僕は笑ってみせる。

「朝は好き」

「そうか」


 老人は杖の先で土をつついた。

「六色の子。……目立つな。目立ち方は選べる。覚えとけ」



---


7 初陣


 昼。

 罠の方角から、短い叫びご聞こえ、

 父が走る。若い男たちが続く。僕は母に肩を掴まれた。

「レオンは行かないで」

 母の目は強かった。

「わかった」


 けれど、耳は風を渡る音を捕まえていた。

 罠の木がひとつ鳴る音。草を裂く擦過。乾いた棍棒の空を切る気配。

 僕は倉庫の陰に入り、膝を抱えて目を閉じた。

 胸の器に指先だけを差し入れる。

 ――最小の魔力。

 罠の周りの空気を素通りさせないよう、薄い膜を敷く。声が広く届かないように。

 露を、逃げ道の先に散らして滑りやすくする。

 影の鼻先の匂いを、風の帯で別の方向へずらす。

 それだけ。


 しばらくして、男たちの笑い声。

 父の歩幅は安定している。重傷者の足取りはない。

 僕は膜をといた。


 戻ってきた父は、僕の頭を無言で撫でた。

「……ありがとう、と言っていいのか、まだ分からん。だが、誰も怪我をしなかった。だから、今日は言う。ありがとう」

「うん」



---


8 父と線を引く


 夜、家の庭で、父と向かい合った。

 焚き火の赤が、父の頬の傷を浮かび上がらせる。

「レオン。お前がやってることは分からん。だが、空気が少し静かになって、土が湿った――そういう“結果”だけは分かる」

 父は膝に肘を置いた。

「俺はお前を誇りに思う。だが、誇りは使い方を間違えると毒になる。だから線を引く」


 父は指を一本立てた。

「一つ。お前は前に出ない。前に出るのは大人の役目だ」

「うん」

「二つ。“隠す”と“嘘をつく”は違う。命を守るために隠せ。自分を飾るために嘘をつくな」

「うん」

「三つ。母さんを泣かせない」

「……うん」


 父は笑い、僕の額を軽く指で弾いた。

「その代わり、俺も鍛える。お前が進むと決めたとき、足手まといにならんようにな」


 母が湯を運んでくる。

「二人とも、約束は短くね。長くなると喧嘩になるから」

「了解だ」


 湯気が夜にほどけ、星がひとつ増えた。



---


9 旅の予兆


 数日後、村の道に塵が立った。

 旗を掲げた馬車が二台、護衛の騎士が四。

 紺の外套をまとった学識師が、教会へ書状を持ってきたという。


 広場で司祭が書状を読み上げる。

「――王都より通達。地方に才ある子の選抜を行う。秋、王都学舎・辺境支部にて試補を実施。望む者は教会に届け出よ」

 ざわめき。

「学び舎へ?」「王都へ?」「遠いぞ」


 学識師が僕を見た。

 目は年寄りの治癒師に似て、よく笑い、よく測る目だった。

「噂は聞いたよ、レオンくん。六色の“幻”。面白いな」

 彼は笑みを深くし、声を低くした。

「世界は広い。世界は未完成だ。――君みたいな子が、次の頁を開く」


 父の掌が僕の肩に置かれる。

 母が息を飲む音がする。

 ミーナとトマが遠巻きにこちらを見ている。


 僕は一度だけ目を閉じ、胸の器の底を指で叩く。

 深い。静か。冷たい。――そして、熱い。


「行く」

 僕は言った。

「理由は?」

 父の問い。

「知りたい。……世界の理を。僕の器は、それを受け止めるためにあると思うから」

 父は笑い、頷いた。

 母は目を潤ませ、それでも笑った。

「じゃあ、準備ね。秋までは、いっぱい食べて、いっぱい寝て、いっぱい学ぶのよ」


 学識師が手帳にさらさらと何かを書き、帽子を傾けた。

「秋、また会おう」


 空を渡る雲が早い。

 村の外の道は、思ったよりもまっすぐだ。

 その先に何があるのか、まだ知らない。

 でも、行く。観察して、考えて、確かめて、記す。

 いつも通りに。



---


10 小さな出発


 その夜、荷を詰める父の背中を見ながら、僕は羊皮紙に印をつけた。

・林道の罠:湿度・風・視線の誘導で成功率上昇。

・溝道の回避:音の微操作と露の偏在で回避成功。

・父の線:前に出ない/隠すは守る/嘘は毒。

・学舎試補:秋。準備=読み書き・数・地図。

・自戒:傲らない。泣かせない。


 炭を置いて、寝台の端に腰を下ろす。

 窓の外で夜風が草を撫でる。

 胸の器は深く、静かで、少し冷たく、ひどくあたたかい。


(いこう)


 目を閉じる。

 眠りの底で、遠くの鐘がかすかに鳴った気がした。



---


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