第二章 幼き探究者
1 村の市
春の陽射しは明るく、風はまだ少し冷たい。
村の広場に露店が並び、人々の声が交差する。干した魚を並べる商人、織った布を広げる女たち、羊を引いて歩く農夫。藁束の甘い匂いとスパイスの鋭い匂いが交じり、子どもは走り、犬は尻尾を振る。
「レオン、はぐれないでね」
母が手を握る。手のひらは小麦粉の香りがして温かい。
僕は見渡す。新しい色と音の洪水。心の中の器は、安定した重さで胸に沈んでいる。三歳を過ぎ、器の広がりは止まった。けれど、中の余裕はまだ無尽蔵に思えた。
「おい、こっちに面白い石があるぞ!」
父が片手を振る。露店の男が掌に乗せて見せたのは、掌大の鉱石。光を当てると赤や青の火花が奥底で弾ける。
「火属性をよく通す石だ。杖の芯に埋めると反応が良くなる」
「レオンにはまだ早いわ」
母が笑う。
僕は鉱石に視線だけで触れる。胸の流れを糸一本分だけ石へ伸ばす。
表面が一瞬、ぴたりと温度を変えた。石の中の“道”が、こちらを向く手応え。
(外部の器。道具は、器の外側にもうひとつの通り道を作れる)
「きれい」
子どもらしい言葉を口にすると、母は嬉しそうに頷いた。父は石を戻し、露店の男と世間話を交わす。
隣の店では、旅の商人が噂を売っていた。
「東の林道でゴブリンが出たってさ。隊商が餌を落としていったとか。気をつけるこった」
「またか。春先は腹を空かせたやつが増える」
父が眉を寄せ、僕の肩に軽く手を置いた。
広場の端で、教会の若い司祭が鐘を磨いている。
「今年は子どもたちの属性鑑定を、夏至の祭に合わせる予定ですよ」
目が合うと司祭はにこりと笑った。
僕は会釈だけ返す。胸の底で、小さな波紋が広がる。
(属性。――いずれ向き合う事になるだろう)
2 子どもたちの遊びと「実験」
午後、畑の縁。柔らかい土に裸足を沈め、僕とミーナとトマは並んでしゃがみ込んでいた。
「レオン、見て。花の冠、今日は二つできたの」
ミーナが誇らしげに笑い、冠を僕とトマに被せる。
「ぼ、ぼくは剣士だぞ!」
トマは木の枝をぶんぶん振り回す。空を切る音は弱いが、本人は真剣だ。
僕は地面に人差し指で小さな円を描く。円の真ん中に視線を落とし、胸の器から、糸のような魔力を一筋だけ引き出す。
草の上に散っていた露が、ゆっくり、ゆっくりと中心へ集まった。針の頭ほどの玉が生まれ、太陽を丸く映す。
「わあ!」
ミーナが目を輝かせ、トマは半信半疑に口を尖らせた。
「……たまたまじゃないの?」
「たまたま」
僕は笑ってごまかす。器の減りはほとんどない。微弱出力で十分に結果が出る。
(水分子の運動を揃える。制御十秒。――記す)
ミーナが自分の膝を擦りむき、顔をしかめた。
「いてっ」
僕はそっと彼女の膝に手をかざす。皮膚のきわで冷えが固まっている。熱をほんの少し散らし、周囲の空気をわずかに乾かす。
ミーナの肩から力が抜け、息が整う。
「……あれ? もう痛くないかも」
「花の魔法だな」
トマが真顔でうなずいた。
「うん。花の魔法」
僕は真面目な顔で合わせた。秘密を派手に見せる必要はない。結果が静かに残れば、それでいい。
3 父の手ほどき
夕暮れ。裏庭で父が棒を振っていた。
「レオン、来い」
短い棒を渡される。僕は両手で握り、足を肩幅に開く。
「腕を伸ばし切るな。重心は腰だ。剣は押さない。道を作ってやるんだ」
父の足が土を踏み、棒が風を切る。
僕は棒の先ではなく、体の中心、動きの始点を感じるように意識を置いた。踏み込み。腰の回転。肩のリード。棒先は遅れてついてくる。力の流れは、ひとつの川になる。
「……筋は悪くないな」
父が目を丸くし、すぐに照れた笑いに戻した。
「でもまだ三つですからね」
母が湯気の立つカップを持ってきて、父の肩を軽く叩く。
僕は棒を胸の前で握り、ふうと息を吐く。
(力学と魔力の合流点。――いずれ形にする)
4 夜の制御訓練
夜。布団の中で、指先に意識を集める。
熱を一点に集め、三呼吸で散らす。
湿り気を縫い留め、細い霧にほどく。
空気の塊を撫で、布団の端をわずかに揺らす。
失敗もある。布団がやけに冷たくなって母に叱られたり、逆に熱くしすぎて汗だくになったり。
「レオン、夜はちゃんと眠るの」
「はい」
素直に頷く。眠りは研究の一部だ。修復は眠りの中で起こる。
翌朝、母が布団を叩きながら首を傾げる。
「昨夜は湿ってたはずなのに、朝には乾いてるのよね。不思議」
「ふしぎ」
僕は笑って、パンの端を齧った。
5 遠い世界の匂い
父の昔語りは、いつも焚き火の匂いがする。
「雪山でな、氷竜の巣の近くを通った。やつの吐息は音もなく冷える。仲間の髭が一瞬で白くなってな」
父の手振りは大げさで、母は呆れたふりで笑う。
僕は膝に顎を乗せ、目を閉じて情景を思い浮かべる。
極低温。空気中の水分の相変化。――確かめてみたい。
(いつか行く。器は十分だ。必要なのは方法だ)
6 外の噂
春の終わり、旅の商人が二人でやって来た。馬車の軋む音、金具の触れ合う乾いた響き。
村の男たちが手伝い、荷を降ろす。僕は父の足にしがみつきながら耳を澄ました。
「東の林道、ほんとうに危ないのか?」
「見た。同じ背丈のゴブリンが三匹。荷を狙って出てくる。夜は森に引っ込むが、腹が減ってるようでね」
「王都からの巡回は?」
「来週って話だ。教会も騎士団も、今年は忙しいらしい」
父は顎に手をやって、短く吐き出す。
「村から若いのを出して見回るか」
「行くの?」
母の声が硬くなる。
「俺は引退だ。若いのに声をかけるだけさ。……それと、レオンは連れていかない」
僕はうなずく。僕はまだ幼い。目立たず、使い方を磨く段階だ。
けれど――噂は、次の出来事の前触れだった。
7 影の犬
午後、牧草地。羊が柵の中に集められ、ミーナが手伝いで草束を運んでいる。トマは柵の外で小さな棒を振って見張りの真似。
風の匂いが変わった。
乾いた草の匂いに、鉄の匂いが混じる。低い唸りが風に乗って、耳の奥を刺した。
「ミーナ、トマ」
僕は二人の手首を掴んで柵の内側へ引く。
草陰から、灰色の影が滑り出た。
影犬――狼より小さいが、飢えると群れて襲う。二匹。耳は倒れ、眼は濁っている。
柵の板は古い。跳ばれれば持たない。
「ひっ……!」
トマの声が裏返る。ミーナは無言で僕の袖をきつく握った。
僕は一歩前へ出た。
器は深い。だからこそ、出力は最小でいい。
柵の外側――影犬の足元、半径二歩の土を思い描く。そこに含まれる水分を、わずかに引き寄せる。
土がぬめり、踏み込みが鈍る。
同時に、影犬の鼻先の空気の流れを撫で、臭いの帯を横へ逸らす。
影犬が鼻を鳴らし、わずかに首を振る。
まだ足りない。
僕は地面に小石を弾いた。影犬の視線が石に吸い寄せられ、踏み出した前足がぬかるみに取られる。
体勢が崩れ、二匹の距離が開いた。
「今!」
牧草地の端から、父と男たちの声が飛ぶ。
棍棒が横から入り、影犬の首が跳ねる。もう一匹が歯を剥いて跳んだ瞬間、僕は空気の層を薄くずらしてやった。
足場が半歩分ずれ、跳躍は空を切る。男の杭が背中に刺さり、影犬は土に沈んだ。
全部で十秒。器の表面が微かに擦れ、すぐに滑らかに戻る。
「大丈夫か!」
父が駆け寄り、僕とミーナとトマを抱え込む。
「……大丈夫」
僕は息を吐き、ミーナの指を握っている自分の手が震えているのに気づいた。
彼女が笑う。
「レオン、すごい」
「ぼ、ぼくも戦った!」
トマが棒を高く掲げる。棒の先には、さっき投げた小石が引っかかっていた。
父は僕の肩に手を置き、短くうなずく。
目は笑っているが、その奥にほんの小さな警戒が灯っているのがわかった。
僕はその視線をまっすぐに受け、ゆっくり頷き返した。
8 “運”ではない
夜。家のテーブル。父は黙ってスープを飲み、そのあとで口を開いた。
「さっき、風向きがよく変わった。土も、ちょうど犬が踏み込むところだけ柔らかかった」
僕はスプーンを置き、父を見る。
「運が良かったのかもしれない」
父は鼻を鳴らし、笑って首を振る。
「運が良かった、にしておこう。……ただな、レオン」
父の声が低くなる。
「勇気と無謀は、紙一重だ。今日お前がしたのがどっちかは、俺にもまだ判断がつかん。だが――誰も怪我をしなかった。それが答えになった」
母が僕の頬にそっと触れる。
「ありがとう。でも、どうか自分を置いていかないで」
僕は頷く。喉の奥が熱くなる。
「わかってる。置いていかない。次は、もっと上手くやる」
夜更け、父は外に出て空を見上げた。
僕も隣に並ぶ。星が多い夜だった。
「俺は鈍いほうじゃないつもりだが、今日は何が起きたのか半分も分からん」
父は笑って、軽く肩で僕を小突く。
「それでいい。全部わかる世界なんてつまらん。……ただ、お前が選ぶ方向に俺はついていけるように、ちゃんと体を動かしておく」
「僕も、父さんの後ろから見て、前に出るときはちゃんと前に出る」
「おう」
星の間を、細い雲が横切っていった。
9 小さな診療所
翌日、ミーナの家に寄る。薬草屋の奥には小さな診療所があり、旅の治癒師が月に一度だけ薬の調合を見てくれるという。
今日はその日だった。
「おや、ロウランの坊やか。昨日の犬の件、聞いたよ。大事なくて何よりだ」
治癒師は白髪の老人で、手の皺は深く、それでも指は速かった。
僕は棚の薬瓶をじっと見つめる。薄緑色の液体、乾いた葉、砕いた樹皮。
老人は僕の視線に気づいて笑った。
「興味があるのかい」
「うん。これ、さわっていい?」
「瓶は割るなよ」
僕は瓶の外側に指を置き、ほんの少しだけ“揺らぎ”を触れさせた。液の表面張力が変わり、気泡が上がっては消える。
老人の目が細くなる。
「……ふむ。道具に“嫌がられない”触り方を知ってる手だ」
父が咳払いをした。
「ただの好奇心ですよ」
「好奇心はいい。世の半分はそれで動いている」
老人は棚から小さな包みを取り出し、父に渡した。
「昨日の足に。炎症は軽い。湿布で十分だ。……それと、坊や」
僕を見る。
「お前は、まだ“隠す時期”だ。だが、隠しすぎると腐る。誰に見せるか、いつ見せるか。そこを間違えるな」
言葉は柔らかいが、芯がある。
僕は真面目にうなずいた。
「ありがとう」
10 教会の鐘と、司祭の眼
日曜の礼拝。教会の鐘が六つの音階を重ねて鳴る。火、水、風、土、光、闇――司祭はそれを象徴と言い、神の秩序だと説く。
祈りのあと、司祭が父の方へ歩いてきた。
「昨日の件、村長から聞きました。迅速な対処に感謝します」
「いや、たいしたことでは」
司祭は僕の方を見た。目は笑っているが、観察の光を持っていた。
「レオン。来年、君は属性鑑定を受ける。神が君にどの“道”を与えたかを知るのは、良いことだ」
僕はうなずく。
「はい」
「怖がることはないよ。道は一つでも、歩き方は幾通りもある」
司祭は去り、父は息を吐いた。
「……まあ、避けて通れるもんでもないしな」
母は僕の肩を抱いた。
「どんな色でも、あなたはあなたよ」
鐘の残響が石の壁を周り、空へ抜けていく。
僕はその音の尾を、胸の内側で掴んだ。
(道は一つ。――と言うけれど、道はつながっている。交わる場所を探せば、どこへでも行ける)
11 市の日の夜
暮れなずむ広場。店じまいの音が続き、子どもたちの笑い声は家々の中へ吸い込まれていく。
父は担いだ荷を降ろし、母は台所でスープを温め直す。
僕は戸口に座って、未舗装の道をぼんやり眺める。細い砂埃の筋が、風の中で消え残る。
器の底に指先を伸ばす。
深い。
この三年で掘り下げた井戸は、もう底が見えないほどだ。
僕はほとんど何も使っていない。ほんの糸ほどの出力で、生活の中の“ずれ”を直しているだけ。
なのに、世界は正直に応えてくれる。
(大出力は、たぶん簡単だ。だが、簡単な方法はたいてい最悪だ)
(僕は最小の出力で最大の結果を出す。今日決めたように)
風が止み、空がまたひとつ暗くなる。
母がスープを呼び、父が灯りに火を入れる。
僕は立ち上がり、家に入る前に振り返って空を見た。
遠く、山の稜線の向こうで、黒い揺らぎがほんの一瞬、また見えた気がした。
気のせいだろうか。
けれど胸のどこかで、見えない波が確かに立っていた。
12 約束
夜更け、父と母が眠ったあと。
僕は枕元の羊皮紙を引き寄せ、炭で印をつける。
文字はまだ拙いが、記すという行為は前世の頃から変わらない。
・影犬への対処:地面の含水率を操作、踏み込みを鈍化。臭いの帯を横へ逸らす。視覚誘導に小石を使用。
・器の消耗:無視できるレベル。反動なし。
・父の言葉:勇気/無謀の境界。誰も怪我をしないこと。
・今後:見せ方の学習。治癒師の助言。司祭の視線に注意。
・目標:属性鑑定までに、低出力制御の精度を二倍に。
・忘れるな:魔法は泣かせないために使う。
炭を置き、指先で羊皮紙の端をなぞる。
母の静かな寝息。父のときどきの寝返り。
僕はその音を器の底へ沈め、目を閉じた。
(世界は、まだ未完成だ。だから、僕は歩く)
眠りがやって来る直前、胸の内側で、確かな脈が一度だけ強く打った。
それは合図のように思えた。