第一章 赤子の目覚め
1 大きすぎる世界
目を開いたとき、世界は自分の何十倍も大きかった。
天井の梁は山の稜線のように遠く、窓の白い光は湯気みたいに揺れている。
身体は思うように動かず、喉だけが勝手に声を上げる。泣くという行為が、これほど忙しいとは知らなかった。
「レオン。僕たちの子だ」
「よく来てくれたね」
男の低い声と、女の柔らかな声。
腕に抱かれ、頬をふわふわの布にこすりつける。胸の奥で、温かい流れがゆっくりと蠢いた。
血流でも呼吸でもない。意識を向けると応える、不思議な“力”。
(……これは異質な力。エネルギーの一種。人が持つ、生得の貯蔵と流通)
赤子の喉で泣き声を上げながら、僕は観察した。自分自身を。家を。ひとの声を。
父はロウラン。日焼けした頬に笑い皺、手のひらは固く、剣の柄が似合いそうな骨格をしている。
母はエリシア。指先の動きがやわらかく、歌うように台所を回る人。
彼らの笑い声は、この世界でいちばん最初に僕が覚えた音の組み合わせだった。
◇
昼はパンとスープの匂い、夕方は藁と土の匂い。
裏庭には小さな畑。畝の間を鶏がつつき、どこからか子どもたちの笑い声が聞こえる。
窓越しに風の動きを目で追うと、胸の奥の“脈動”が微かに増減するのが分かった。
(外界の変化に、内側が反応する。入力があるなら、きっと制御もできる)
まだ言葉はうまく出ない。代わりに、沈黙のまま世界を測った。
赤子の目は、よく見える。大人よりもずっと、まっすぐに。
---
2 器の話
ある夜、父が暖炉の前で掌を上に向けた。
「見てろよ、レオン」
短い詠唱。指先に豆粒の火が咲いた。母が小さく歓声を漏らす。
「これが魔法。人はみんな、生まれつき“器”を持っているの。魔力をためておく器」
母は僕の頬に手を当てて微笑む。
「器が大きいほど、強い魔法が使えるの。……大きさは最初から決まっていて、変わらないのよ」
父が言葉を継ぐ。
「貴族さまはだいたい器がでかい。だから、戦でも冒険でも頼りになるんだ」
(“変わらない”――本当に?)
胸の奥の流れを、そっと動かしてみた。
意識を指先へ滑らせると、皮膚の裏で小さく温度が上がる。
火は生まれない。けれど、確かに“運べた”。
(流せるなら、貯め方も、減らし方も、変えられる)
---
3 初めての失敗
眠れない夜があった。外では雨。屋根を打つリズムは規則的で、眠気よりも好奇心が勝った。
布団の中で、僕は胸の器にたまった魔力を、指先までゆっくり送った。
温かい。うまくいっている。なら、もう少し。
もう少し。
もう、少し――。
世界がぐらりと傾き、黒が縁から溢れた。
次に気づいたとき、朝の光が窓を白くしていた。母の顔がすぐそこにある。
「レオン、よかった……。昨日はずっと眠ってたのよ」
父が額に手を置く。
「熱はない。疲れただけだな」
胸の奥に耳を澄ます。器の中は、空っぽに近い。軽い、空洞の響き。
内壁に、微細な“きしみ”の気配がある。
(……ひび?)
昼前、再びそっと魔力を動かした。器は、音もなく満ちてくる。
きしみは消え、代わりに内側が滑らかになっていた。
流れは昨日より太く、明らかに器そのものが広くなっているのを感じた。
(使い切る→ひび→休息で修復→拡張。筋肉の超回復と同じだ)
テーブルの端に置かれた木の匙が光を拾っている。僕はそれを見つめながら、心の内でうなずいた。
(検証できる。再現できる。――なら、法則だ)
---
4 遊びの顔をした訓練
翌日から、僕は“遊び”に工夫を混ぜた。
母が煮るミルクの鍋に、小さく手をかざす。ほんの少しだけ温度を均す。
父が火打ち石で湿った火口をつけようとする時、周りの空気を乾かすつもりで魔力を指先へ。
使いすぎない。器の底が見えたら止める。眠る。食べる。――そして、また少し使う。
「レオン、今日はよく寝たね」
「よく食べるようにもなったな」
母は蜂蜜を薄く溶いた温い水をくれた。
甘さが喉を通るたび、器に静かに魔力が戻ってくる感覚がある。
夜、雨がやんだ。屋根の雫が時々、ぽとりと落ちる。
僕は眠気に逆らわず、目を閉じる。内側で微かな“修復音”がする。
翌朝、器はまた、ほんの少し広がっていた。
繰り返すうちに、僕は自分のための小さなルールを作った。
――器が八割減ったら止める。
――食べる。眠る。泣きたい時は泣く(赤子は、泣くのが仕事)。
父は時々、僕を肩車して村を一周してくれた。
土の道、石積みの井戸、羊の群れ。目に映るものすべてが新しい。
「ほら、あそこがギルドの出張窓口だ」
小さな木の掲示板に羊皮紙が留められ、人々が依頼を眺めている。
「父さんも昔は、そこから仕事を受けてたのよ」
母が笑って袖を引く。「今は引退。ね?」
「お、おう」
父の照れ笑いが面白くて、僕は赤子らしく笑った。
笑うと、胸の器がよく育つ気がした。根拠はない。けれど、とても大事な“仮説”だった。
---
5 村の子どもたち
歩けるようになると、庭で近所の子たちと遊ぶようになった。
薬草屋の娘ミーナは、よく笑う。小さな花を髪に挿し、草むらの虫や匂いに詳しかった。
臆病なトマは、僕の後ろに隠れてばかりいるが、逃げ足は速い。
「レオン、こっち!」
ミーナが呼ぶ。
「どんぐりの王様見つけた!」
トマは目を輝かせ、「ぼ、ぼくにも!」と手を伸ばす。
僕はどんぐりを二つに分け、ひとつをトマに渡した。
「大事に持ってて。殻が割れないように」
「う、うん!」
遊びの最中でも、僕は訓練を忘れない。
転んだ膝に手をかざし、傷の周りの熱をほんのわずかに取る。
泥水をかき分け、指先だけ乾いた空気にする。
誰も気づかないくらいの小さな工夫。けれど、その小ささがちょうどいい。
器は、静かに、確実に育つ。
---
6 父の昔語り
夜。父が焚き火の前で椅子に座り、僕を膝に乗せる。
「昔な、北の峠でな。オーガの巣を見つけたんだ」
「オーガ?」
「でかい魔物だ。怒らせると厄介だし、頭は悪くない」
父の話はいつも、危険の匂いと、最後に残る温かさを持っていた。
仲間の名前を言うときの顔が好きだ。
誰かを信じること、頼ること、助けること。
僕は話の途中でうとうとしながら、胸の器の“底”を確かめる。
まだ深くなる。まだ行ける。
「父さん」
言葉にならない声を漏らすと、父が笑った。
「レオン。お前はいつか、俺の知らない遠くまで行くんだろうな」
母が湯気の立つカップを運んでくる。
「遠くに行く前に、まずは毎日しっかり寝ること。ね?」
僕は頷いて、母の指を握った。
眠ることは、器の研究において最重要の“実験工程”だ。ここを怠ると、結果が出ない。
---
7 器の天井
三度、季節が巡った。
村の教会の鐘が涼しく響き、空気は高く澄んでいる。
三歳の誕生日の少し前、僕はいつものように“器の中を減らし”、眠った。
朝、胸の内側に耳を澄ます。
――広がらない。
(……来たか)
器が硬く“定着”した感触。
小さなひびはもう入らない。修復も起きない。
代わりに、器はこれ以上ないほど滑らかで、重く、手応えがあった。
底が、深い。
平民の子どもの何十倍。――いや、大人の冒険者やりも大きく、
村の噂に出てくる「名のある貴族」の魔力量。それを、はっきりと上回っているのが分かった。
母が肩に布をかけてくれる。
「寒くない?」
「だいじょうぶ」
幼児の舌でそう言うと、父が膝を叩いた。
「今日は肉を焼こう。三歳は盛大に祝うんだ」
祝いの席。
村の人々が集まり、パンとスープと、父の自慢の肉。
ミーナが花の輪を編んで持ってきて、トマは緊張で声が裏返る。
「レ、レオン……おめでと」
「ありがとう」
僕はかすかに笑って、胸の内側で“終わり”を受け入れた。
もう器は広がらない。ならば、次は“使い方”だ。
溢れさせず、必要な場所へ。熱で焦がすのではなく、温度差でやさしく包む。
力の大きさを誇るのではなく、最小の出力で最大の結果を出す――それが、研究者の矜持だ。
---
8 内緒の計測
三歳になった翌週、僕は内緒の“実験”をした。
裏庭の樽に冷たい井戸水を満たし、母が洗濯を広げに出ている隙に、手のひらをそっと水面へ。
器の一割――いや、八分目も使わない。
水分子の動きを揃える気持ちで、ほんの少し“揺らぎ”を与える。
五秒。十秒。二十秒――。
水面に白い湯気が立ち、樽の底から泡がぽつぽつ上がってきた。
「レオン? 何してるの?」
母の声。僕は慌てて手を引っ込める。
「おみず、あったかい」
母が覗き込み、目を丸くした。
「……不思議ね。今朝は冷たかったのに」
父が戻ってきて樽に手を突っ込む。
「ぬるいどころか、ちょっと熱いぞ」
僕は肩をすくめ、どうにか子どもらしく笑った。
父は眉をひそめ、すぐに笑い直す。
「まあいい。レオンが元気なら、それが一番だ」
(この“ぬるさ”で、僕の器の桁が分かる。いまの出力はごくわずか。……それでも、結果ははっきり出る)
誇らない。騒がない。
ただ一枚、心のノートに正の記号を増やす。
---
9 祈りと常識
日曜。母に手を引かれて教会へ行く。
石壁は冷たく、色ガラスに六つの色――火、水、風、土、光、闇。
司祭は穏やかな声で言った。
「人は生まれつき“器”を授かり、その大きさは変わらぬ。神の配剤のままに、己を知るのだ」
僕は黙って聞いた。
(この人は嘘をついているわけじゃない。知らないのだ。三歳までなら、器は広がる――誰も知らない事実を)
祈りの列に並び、母の手を強く握る。
母の指先は少し冷えていた。僕はこっそり、手のひらの内側を温める。
ゆっくり、ゆっくり。誰にも気づかれない速度で。
母の肩の力が抜け、微笑みが深くなる。
「ありがとう、レオン」
「なにが?」
「……内緒」
秘密を共有した合図のように、母は目じりで笑った。
秘密は、守るほど甘くなる。けれど、それは誰かを困らせない範囲でいい。
---
10 小さな危機
春。
村の外れで、野犬に似た小型の魔物が出た。
鋭い鳴き声。羊が怖がって柵を飛び越え、子どもたちが泣き出す。
父と男たちが駆け出し、棍棒や鍬を手に囲む。
僕は母の腰にしがみつきながら、視線だけで状況を追った。
危ない。……けれど僕が出る場面じゃない。
父が足を滑らせ、短く顔をしかめた。
膝を打ったな、と分かった。
僕は母の手を引く。
「おうち。くすり」
「そうね。ミーナの家に寄って薬草を」
家に戻る道すがら、僕は足を止めた。
男たちの方角から、乾いた音。火打ち石の不調の音。
草は湿っている。下手に火を使えば燃え広がる。
僕は母の袖を握ったまま、そっと空気の“水分”に触れた。
男たちと魔物の周辺――半径数歩だけ、露を落とし、土を湿らせる。
ほんの少し。器の一滴。
遠くで、火花がようやく生まれ、魔物が怯む声。
父の怒鳴り声。仲間の笑い声。
母が不思議そうに空を見上げた。
「風向き、変わった?」
「たぶん」
その夜、父は笑って言った。
「上手くいった。草が燃えずに済んだ。運が良かったんだな」
僕は頷き、スープを飲む。
(運じゃない。けれど――それでいい)
---
11 三歳の誓い
三歳の誕生日の夜、家の庭に小さな灯りをいくつも並べた。
父が剣の代わりに、細い木の棒を一本くれた。
「いつか本物を持つときまで、これで構えを覚えな」
母は毛糸で編んだ手袋をくれた。
「冬も手が冷えないように」
僕は木の棒を両手で持ち、足を半歩開く。
棒を前に突き出すのではなく、心を前に出す気持ちで。
器の内側で、力が静かに波紋を広げる。
(僕は、この魔力を、誰かを泣かせないために使う)
焚き火の火がぱちりと爆ぜた。
父の横顔、母の笑顔。
この家の灯りが、僕の最初の研究室であり、世界への小さな窓だ。
空を見上げる。星が多い。
遠く、山の稜線の向こうに、黒い揺らぎがほんの一瞬見えた気がする。
気のせいかもしれない。
けれど、胸のどこかで、見えない波が確かに立っていた。
(行こう。観察し、考え、確かめ、記す。――僕はこの世界を学ぶ)
---
12 幼児の研究ノート(記憶の紙片)
・器は三歳まで拡張可能。方法:使い切る→休む→食べる→眠る。
・拡張の兆候:内壁の“きしみ”。修復後、流路の太さが増す。
・危険:連続“空っぽ”は禁止。意識が遠のき、母が泣く(重要)。
・現状:平民平均の数十倍。貴族の標準を大幅に超過。
・目標:魔力の運用法の最適化。最小出力で最大成果。冷やす・温める・乾かす・湿らす――生活のための魔法。
・信条:一、驕らない。二、隠さないが誇示しない。三、泣かせない。四、記憶する。
---
13 眠りの前に
布団に潜り、母の歌を聞く。
あの歌は古い子守唄で、村の子は皆、いつのまにか覚える。
僕は目を閉じ、歌の拍に合わせて、器の表面をならす。
今日も少し使い、よく食べ、よく眠る予定だ。
「レオン」
「ん」
「明日は市の日。パンを買いに行こうね」
「パン」
「甘いの、少しだけ」
父が間の抜けた欠伸をして、母が笑う。
いつも通りの音たちが、薄い布団の上に降り積もる。
僕はその音を、ひとつひとつ、器の底に沈めていく。
その沈黙の手触りが好きだった。
(世界は、まだ未完成だ。だから面白い)
眠りが来る。
この世界の最初の章は、ここまで。
続きは明日。明日は、もっとよく見える。
目を閉じる直前、胸の内側で、確かな脈が一度だけ強く打った。
それは、合図のように思えた。
――おやすみ、レオン。