プロローグ 終焉の方程式
プロローグ 終焉の方程式
黒板に白い線が走るたび、チョークの粉がぱらぱらと舞い落ちる。
講堂の空調は古く、低い唸りを立てていた。
それでも、数百人の学生の視線は、ひとりの男の手の動きに釘付けだった。
榊原啓司――四十代半ば、大学教授。古典物理から最先端の素粒子理論まで語ることができる世界的物理学者。
髪には白いものが混じり始めていたが、その笑顔は少年のように明るく、声は講堂の隅までよく響いた。
「――ここで式は一度止まる。なぜなら、私たちにはまだ“観測できないもの”があるからだ」
黒板の端に描かれた数式の途中で、彼はチョークを止めた。
ざわつく学生たちに向かって、にやりと笑う。
「ニュートンが力学を完成させたと思った時代があった。しかしマクスウェルが電磁気を拓き、アインシュタインが相対論を、ディラックが量子の世界を。常識はいつだって破られてきた」
前列の学生が小さく頷き、後ろの席では「やっぱり先生、かっけぇ」と囁き合う声。
啓司はそれを耳にして、肩をすくめる。
「君たち、覚えておくといい。学問に“完成”はない。『世界はまだ未完成』だ。君たちの目と手で、この空白を埋めてほしい」
その言葉に、教室の空気が少し揺れた。
学生たちの目に、憧れにも似た光が宿る。
「先生って、やっぱりノーベル賞狙ってるんですか?」
授業後、学生の一人が笑いながら尋ねた。
啓司は首を横に振る。
「私はただ“知りたい”んだ。出世も名誉も、どうでもいい。ただ、この世界を理解したい。それを君たちと分かち合えたら、それで十分さ」
黒板に残した未完の式を名残惜しそうに見つめ、教壇を降りる。
◇
研究室に戻れば、机の上には積み上げられた論文と未解析のデータ。
白衣を椅子に掛け、シャーペンを走らせる。窓の外には夕焼けが広がっていた。
(あと一歩……。もう少しで、この式が繋がる)
脳裏に浮かぶのは、まだ答えの出ていない“方程式”。
学生たちに「完成なんてない」と言った自分の声が蘇り、苦笑する。
言葉通りだ。完成なんてない。知れば知るほど、問いが増える。
それこそが、物理の面白さだった。
気づけば夜。研究に没頭するうちに時間を忘れていた。
慌てて荷物をまとめ、研究室を出る。
◇
秋の風は冷たく、街灯の下を歩く人影はまばらだった。
横断歩道の前で信号が赤から青に変わるのを待つ。
ポケットに手を入れたまま、ふと笑みがこぼれる。
(まったく……。まだまだやることがあるな)
青信号。
一歩、踏み出した。
そのときだった。
視界の端に、ヘッドライトの白い閃光。
ブレーキの音、金属の悲鳴。
トラックが、制御を失って突っ込んできた。
驚く暇もなく、世界がスローモーションになる。
目の前の光景が、やけに鮮明に見える。
アスファルトの細かな亀裂。街灯に照らされた埃の粒。歩道の隅に置かれた捨てられた傘。
(まだ、知らないことが、こんなに残っているのに……!)
最後に浮かんだのは、黒板に書き残した未完成の式。
悔しさと同時に、不思議な期待が胸を打った。
(もし“次”があるなら――)
衝撃。
光が砕け、音が消える。
闇に沈む中で、啓司は確かに感じた。
これは“終わり”ではない。
◇
暗闇の底で、何かが聞こえた。
小さな、小さな――泣き声。
耳を打つその声は、自分の喉から発せられているのだと気づいた瞬間、胸の奥で熱い流れが弾けた。
温かい腕に抱かれる。
鼻先に甘い匂い。
視界にぼんやり浮かぶのは、涙で笑う母の顔。
「レオン。うちの子だ」
「よく来てくれたね」
名を与えられた瞬間、僕は悟った。
(……赤子に、生まれ変わったのか)
胸の奥に渦巻く、見たこともない“力”。
科学者としての心は、震えるように興奮していた。
(面白い……。また最初からだ。この世界を、最初の観察から始めよう)