二面性
雨が降っていた。
朝からずっと降っていたわけではないが、気づいたときにはもう空は泣いていたし、傘を持っていない自分が、まるで悪いことをしたような気にさせられた。
信号が変わっても立ち止まったままのサラリーマンがいて、彼は濡れることにも、人の目にもまったく興味がないようだった。
その姿を見て、なぜだか少しだけ安心した。
たぶん、自分だけじゃないと思いたかった。
横断歩道を渡るときにすれ違った学生がスマートフォンを見て笑っていた。
その顔を見て、なぜかひどく疲れた。
ああ、この人はちゃんと笑えるんだって。
それがどうしようもなく羨ましくて、どうしようもなく嘘くさく思えた。
真実なんてものは誰も求めていない。
心の底では、誰もが知っている。
うまく笑える方法だけが評価されて、悲しみや疑問は「面倒」として処理される。
たとえば、「つらい」と言えば「ポジティブになれ」と返され、
「わからない」と言えば「考えすぎだ」と軽く笑われる。
それでも人は黙ってしまう。
なぜなら、その方が楽だから。
きっと、優しさより鈍さのほうが、よっぽど生き延びるのに適しているから。
会社で隣の席の男が、今日は息子の誕生日だとか言って嬉しそうに話していた。
でもその数分前には、別の誰かの悪口を吐いていた。
笑顔がひどくぎこちなく見えた。
それでも、誰もそれを否定しない。
むしろ「いいお父さんですね」なんて、定型文を吐く人がいる。
自分もその一人だ。
咄嗟に、考えることなく口をついて出てくる。
無難であること。
それこそが処世術とされているこの世界で、生き残るにはそうするしかない。
だけど、本当は全部知ってる。
誰もが嘘を抱えてる。
誰もが自分を守るために、誰かに優しくしすぎたり、逆に冷たくなったりする。
理由も、過程も、全部説明しようとすれば嘘になるから、沈黙してごまかす。
それが正解とされている。
帰り道、バス停でひとりの女性が目を伏せていた。
目元が濡れているように見えたが、それが雨のせいかどうかはわからない。
たぶん、誰も確かめようとしない。
そうやって、すれ違って、忘れていく。
見て見ぬふりの訓練を、私たちは毎日こなしている。
それでも、たまに思ってしまう。
「自分が信じてるものは、本当にここにあるのか。」
「誰かの優しさは、本当に自分のためのものなのか。」
「言葉は、どこまでが本当で、どこからが誤魔化しなのか。」
何も答えは出ないまま、夜は静かに降りてきた。
電気のついた窓がいくつも並ぶビルの隙間で、誰かが今日も笑って、誰かが泣いて、誰かが諦めている。
誰もそれを知らないふりをして、明日もまた生きる。
そういう日々に慣れていくこと。
それだけが、大人になるってことなんだと、最近は思うようになった。
でも、本当はそれを認めたくない自分が、まだここにいる。
どこかに、たった一つでいいから。
まっすぐな言葉が、まっすぐな目が。
嘘じゃない気持ちがあったらいいのにと。
そんな希望を持つこと自体が、嘘なのかもしれないのに。
それでも、雨が止んだあとの夜風が少し優しかった。
誰にも気づかれないくらいに、静かに、息をしていた。