001[研究員脱走阻止/Jailbreak prevention]/2
「止まれ」
万が一、億が一にも静止の言葉で止られる可能性があれば、とハーミットは逃走中のSGに向けて通信を飛ばすが返事は帰ってこない。強化人間だけでも回収する、というアルカナ機関の理想的な展開がなくなった事を彼女は察した。初めからわかっていた事とはいえ、落胆のため息を一つ。――だが、その間にも逃走中のSG雷閃との距離を確実に詰めていく。
雷閃の動きに無駄はない。複座型という事もあってか、同乗している研究員が索敵や地形の把握を確りとしているのだろう、という事をハーミットは理解した。辺り一面には様々な物資を積み込んだコンテナが積み重ねられている。遮蔽物が多く、ICTLへ最短距離で向かうのは容易でない。事実、ハーミットはこのコンテナを避け、遠回りする事を強いられていた。それでも、雷閃との直線的な距離を詰められているのは、単に真迅改の機動性が高いからだと言えた。
『やはりあなたが来るのねハーミット』
唐突な雷閃からの通信。どうやら強化人間と一緒に逃走した研究員からのもののようだった。彼女にとって聞き覚えのある声が耳に入り、意外な人物が脱走したのかとハーミットは驚き、つい口を開いてしまう。
「ウィンザー主任。何故このような事を」
シンシア・ウィンザー。ハーミットにとっては馴染みのある人物だった。強化人間用の義肢の開発製造を担当していた主任技師であり、それでいて強化人間の健康管理も担当していた職員である。尤も、ハーミットの場合は他の強化人間と違って肉体へのダメージが少なかった為、未だにシンシアの義肢を身に着けた事はなかった。しかしながら、四肢欠損前から予め義肢を作っておく為に身体データの採取をシンシアの手で行われた事があった。その時にハーミットが抱いた印象として真面目な研究者というものがあった為、つい疑問を投げかけてしまう。
だが、僅かに残った感情を置き去りに、身体は愛機の操縦をやめようとはしない。ついにメインカメラが雷閃の姿を捉える。着実にその距離を詰めつつある。
『やっぱり、あなたは他とは違うのね。他の誰よりも人形に見えるのに、他の誰よりも人間らしい子』
ハーミットの問いかけには答えず、シンシアは一人納得したようにそう口にする。ICTLも目の前。とはいえ、それを使って遠くに行くためには輸送用カーゴに乗り込み、ランチャーを動かすといった手順が必要となる。少なくとも、これで強化人間を他所に運ばせるという事態は防げる筈、と彼女は考えた。
距離が詰まった事で雷閃の側も真迅改への対処に意識を向けたのか、機体を真迅改の方に向け、右手に持つアサルトライフルが真迅改に向かって火を噴く。弾幕が張られるが、それを左腕に装備していたシールドで弾く。キンキンキンキン、とシールドに連続して弾丸が当たって弾かれる度に金属音が響き渡る。
攻撃を弾く事はできていても、シールドとて延々と耐えられる訳ではない。そもそも、両手のうち片方をシールドで塞がれている以上、真迅改の攻撃手段は現状、もう片方の手に持つライフルのみとなっている。真迅改の弱点として、両腕ともライフルかシールド一体型レーザーブレードかの二択で、同時に二つまでしか使用できないという点がある。肩に固定砲台でもついているのなら、左手でシールドを使用していても、右手と肩とで十分な弾幕を張る事ができただろう。
二つ装備しているシールドの内、一つは別の火器に変更する事ができればまた話は違ったかもしれないが、予定外の追撃作戦という事もあり、通常運用している装備のまま出撃せざるを得なかったのが実情だった。
だからと言って、手がない訳ではない。仮にも多くの死線を潜り抜けて来たハーミットだ。左右へ小刻みに制動用のブースタを吹かせつつも、メインブースタを吹かして雷閃に向けて前進する。すると、雷閃のアサルトライフルの弾が真迅の左右へとブレていく。
SGに搭載されている火器は、本体に内蔵されている火器管制システム(FCS)によって敵機をある程度自動追尾し補足するという特性がある。人間が手動で照準を合わせるよりも素早く正確に合わせられる事もあって、現行機においては標準装備とされている。だが、その分その対策も十二分にされてきており、ハーミットが行った左右への小刻みな移動もその一つだった。
FCSの自動追尾は敵機の移動先を予測して行われる。つまり、一直線に動いた場合は照準が合い続けるという事になる。だが、小刻みに左右に動いた場合には、右に動き続けた場合の位置とその逆とに照準が合う事になり、本来の敵機の位置に照準が合いにくくなるという欠点が露呈していた。尤も、その欠点込みで自動照準の精度は高く評価されている時点で、その欠点を的確についているハーミットの動きが異常である事は明らかだった。
そうやって小刻みな動きを挟みつつもなお距離を詰めようとして、彼女は急制動をかける。すると、そのままの進路の先には、雷閃の左手に持っていた一八○ミリSG腕部携行型滑腔砲の砲弾が炸裂していた。軽量機である真迅改にとって、威力のある火器は一つだけでも着弾すれば致命傷になりかねない。
また、先程とは違い弾道が左右にズレなかった点から、この僅かな間に敵――脱走した強化人間は学習して自動照準を解除して、手動で狙ってきたという事を彼女は察する。少なくとも、一般的なSGパイロットよりは力量があるように彼女には感じられ、警戒心を強める。一度、仕切り直す為に真迅改を後ろへと跳躍させながら、右手のライフルを数発放ち、雷閃への牽制とする。
僅かな間だが互いに様子見の形となり、静寂が訪れる。すると、その間を待っていたかのように再びシンシアの声が彼女の耳に届く。
『ごめんなさい。あなたはアルカナ機関にとっての“切り札”なの。あなたを連れ出す事は、私にはできなかった』
「何を言っているんです」
シンシアの言った“連れ出す”という単語に、内心では動揺を隠せなかった。アルカナ機関から抜け出したい、という気持ちがあるかと問われれば、ないと言えばそれは嘘になる。だが、“抜け出したところでどうすれば。そもそも抜け出すのが困難だ”と既に諦めていた事を、シンシアの言葉に思い出させられる。
珍しく、精神を大きく乱される。息も荒くなる。だがそれでも積み重ねた経験が、積もり積もった諦観が、シンシア達を撃つ為にと身体を突き動かす。心を乱された所で、訓練された身体は止まらない。止められない。
雷閃の弾幕を、シールドで受け流しながらも接敵し、トリガーを引く。真迅の右手にあるライフルが弾を放ち、雷閃の胸部装甲に命中する。互いに動き回る以上、関節部を狙うといった真似は極めて難しい。被弾面積の大きい箇所に集中して直撃させるしかない、と連射するが、それ以上の被弾を避けるべく雷閃はアサルトライフルを盾代わりにしてそれを防ぐ。アサルトライフルが耐えきれず、爆発した瞬間に急制動用のブースタを吹かしたのか、一気に距離を離された。
とはいえ、雷閃の主武装一つを落とした事実が、ハーミットにとっては好都合。ワンハンド・キャノンにさえ気をつければ良い、と乱れていた気持ちも落ち着いて戦況を観察する位の事はできるようになってきていた。改めて状況を考えれば、雷閃はハーミットを仕留めなければICTLを使えないのに対し、ハーミットはただ雷閃の足止めをしていればよい。
『私は、あなたたちをモノとして見る事ができない。できなかった』
一度は乱れた精神も、時間が経てば波一つ立たなくなる。ハーミットにとって、今回のシンシアの件について思う所はある。だがそれでも、積りに積もった諦観は彼女の心を閉ざすのには十分だった。真迅の左腕に装備していたシールドを背中のライフルと持ち替えて、両手のライフルによる弾幕で、雷閃を追い詰めてゆく。防戦一方、後退しながらワンハンド・キャノンで牽制するしかない雷閃と、ライフルによる弾幕で押し込む真迅改の構図。こうなれば、仕留めるのは時間の問題――と思ったその瞬間だた。
轟音が鳴り響く。金属と金属が擦れるような騒音。何かしらの機械が動き始めたようだ――と考えた所で、ハーミットは「まさか」と口にする。動いているものを見てみれば、それはICTLの輸送用カーゴが動き始めていた。
突如、此方を向いたまま、後ろ向きに雷閃が輸送用カーゴへとブースターを用いて地を駆ける。そこで、一つの思い違いをしていた事にハーミットは気づく。シンシア・ウィンザーはアルカナ機関の主任研究員にまでなった人物だ。義肢の研究者とはいえ、他の分野にも精通している。――SGのコックピットの中から、ICTLの制御システムをハッキングし、輸送用カーゴを動かすくらいの事はしてのけるだろう――という事に、この場になって気が付いた。
これをハーミットの落ち度とするには酷だ。シンシア・ウィンザーがハッキングにも精通している、という情報は得ていなかった上に、この戦闘をモニタリングしていたアルカナ機関の者でさえ、気が付かなかったのだから。このまま輸送用カーゴに雷閃が乗り込んでしまえば、そのままICTLがカーゴをどこか遠方へと飛ばしてしまう。そうなれば、この場での追撃継続は困難だ。
なんとしても雷閃を仕留めなければ、とメインブースタを吹かし高速で接敵する。機体構造上、前進と後退とでは前進の方が速度が出る。そして、元々の最高速度、加速力も真迅の方が優れている。両腕の武器を背部にマウントしていたレーザーブレード一体型のシールドに持ち替えて、両腕を振りかぶってレーザー刃を出力する――。
目の前に迫るレーザー刃。このままでは二人ともコックピットごとレーザー刃に焼き切られてその命を散らす。だがそれでも、心を奮い立たせたシンシアは、意を決して口を開く。
「今!」
「わかった」
シンシアの言葉に応えたフールが、コックピット端にあるボタンを押す。その瞬間、雷閃の胸部からコックピットブロックだけが、機体後方へと射出される。メインカメラとの接続が切れ、コックピットブロックにあるサブカメラのものに画面が切り替わると、画面上には真迅改のレーザーブレードに切り裂かれた雷閃の姿が見てとれた。
わずかな間、運命を共にした機体の最期。生み出されてから初めて乗ったSG。初めて死線を潜り抜けた乗機。僅かな間ではあったが、フールの中には雷閃に対しての愛着が芽生えつつあった。そのような対象が目の前で倒れる様を見て、一滴の涙を流すが、コックピットブロックはそのままの勢いで輸送用カーゴの中に納まる。その瞬間、シンシアがキーボードのキーを幾つか乱暴に指で叩くと、輸送用カーゴのゲートが閉まった。
これで、フールとシンシアを仕留めるには輸送用カーゴのゲートを壊さなければならない。だが、そのような時間はもうない。
「ハーミット、あなたもきっと――」
目の前で輸送用カーゴのゲートが閉まったと同時に、ICTLがカーゴを射出した。大砲の要領でカーゴを撃ち出し、高高度でカーゴに備え付けられたブースタがより遠くへカーゴを運んで行く。
――ハーミット、あなたもきっと――。
シンシアが別れ際に発した言葉。それが彼女の頭中にこびり付く。平静を保っていた筈の精神が、再び乱されるのを彼女は感じていた。とっくに諦めていた筈なのに、どうして“脱出したのがフールなのか”と思ってしまう心をなんとか止めようとするが、目の前で脱出した実例を見てしまった事で、なかなか元通りにはならない。
『ハーミット、聴こえるか』
「作戦失敗、申し訳ありません」
『今回は脱走犯の技量を見誤った此方にも非がある。気にするな、ハーミット』
アルカナ機関からの通信に、少し身構えた彼女だったが、今回彼女に声をかけた通信士の声色に一つ安堵の息をついた。高圧的に「取り逃すとはどういう事だ」とも言われる覚悟を心の内でしていたにも関わらず、“気にするな”と言われしまうと相手に対し“やさしい”という感情を抱くというのは自然な話だった。
何はともあれ、今のハーミットにできる事は何一つなかった。
『とりあえず、帰投しろハーミット』
「了解」
帰投命令に従い、彼女はアルカナ機関の格納庫へと向かわせる。“もしかしたらこのまま脱走できるかもしれない”という考えを、振り払うように操縦桿を力強く握りしめながら。
「ウィンザー主任が生体部品を持って脱走、か。痛くはあるが、騒ぐ程の事でもないな」
アルカナ機関のとある一室。シンシア・ウィンザー主任の脱走に関する報告書を目にした男は、書類を机の上へ乱雑に放り投げながらそう呟いた。だが、それに対し「代表。ですが、生体部品の流出は流石に良くないのでは?」との声が返る。代表と呼ばれた男は、「そうか?」と疑問を返す。
「ウィンザー主任の義肢技術は既に完成していて、とっくにAAやベルクト、因幡重工に技術供与の契約も済んでいる。それに、持ち出された生体部品は生産直後のプレーンな状態だ。流出しないに越した事はないが、今回持ち出された“|A-SGLP-8-00《アルカナ機関製SG生体部品第八世代○系型》”は現行の生体部品に施している調整はまだ施していないんだろう? だったら、最新の技術を持ち出されたわけではない」
「それはそうですが……」
強化人間とは、生産してそのまま実践投入されるものではない。生産してからSGパイロットに最適化するようある調整が施される。ただ生産しただけでは、肉体的にSGパイロットに適した人間というだけなのだ。現行兵器の中でも、SGのコックピットは極めて狭い。パイロットが入る空間を広くする事もできるが、そうなると機体がより大型化するというジレンマがある。大型機となると被弾面積が広くなる他、重量が増す事で機動性にも悪影響を及ぼす。
故に、可能な限り小柄で、それでいて戦闘中のGに耐えられる頑丈さ。生産直後の強化人間は、最低限の条件だけは満たしているという事だった。だが、パイロットの資質は体型のみで定まる訳ではない。SGの操縦技術、戦闘に対する経験値、様々な状況でも冷静に動く事のできる安定性。それらが合わさって漸く強化人間として完成する。
「これが仮に|ハーミット《A-SGLP-1-09》を持ち出された、というのなら、一大事だがね」
その点で言えば、ハーミットはアルカナ機関の最高傑作と言えた。既に幾つもの死線を潜り抜けた優秀な“傭兵”だ。同時期に生産された他の強化人間は早々に戦死している事もあって、現在も稼働しているのはハーミットを含めて二体のみとなっている。更にいえば、後に生産された強化人間でも戦死しているケースがあるだけに、ハーミットの強さは強化人間の中でも抜き出ているのは明らかだった。
身体の強度は他と変わらない以上、違いがあるとすれば膨大な経験値と生産後行われた調整に依る部分が大きいだろう。何にせよ、ハーミットの存在はアルカナ機関内においてはオーパーツに等しかった。現行の強化人間はハーミットの身体的特徴や調整を元に生産、調整される位には、ハーミットは現行の強化人間に対して大きな影響を及ぼしている。
それでも強化人間技術は未だに完成しているとは言えない。ハーミット以外の強化人間は一般的なSGパイロットと比べて優秀である事には変わりない。しかしながら、生産して調整した強化人間には性能差が存在する。それがどのような要素によって発生するのかを研究中なのだが、その中でもハーミットが残した戦績は最近生産された強化人間と比べても異常だった。今回の一件でも、生産直後の調整が完了していない強化人間が相手とはいえ、戦闘そのものではハーミットが圧倒している事がデータとしても残されている。
そういった事から、フールが流出するのは良くないが、致命的な痛手ではない。今すぐにでも奪還したり処分したり、というのはあまりにも手間がかかる。アルカナ機関は研究機関であって、軍事企業ではない。自社戦力はあれど、フールの捜索、排除の為だけに向かわせるというのは、アルカナ機関の行っている傭兵事業に穴をあける事に繋がる。
「しかし、最近のハーミットは稼働限界の様子を見せています」
「というと?」
「後頚部の神経接続から、ハーミットの脳波も計測していたのですが……稼働限界の兆候が見られます」
その報告を受けて、代表と呼ばれた男は「ふむ……」と考える素振りを見せる。稼働限界の兆候。現状、アルカナ機関の最高戦力とも言えるハーミットが“そろそろ動かなくなる”というものに対し、一つの答えを出す。
「そもそも、あれがここまで生き残っているのも想定外だ。そこは仕方あるまい」
アルカナ機関にとって、強化人間はあくまでも生体部品、パーツである。つまり、動かなくなったのなら新しいものと取り替えれば良い存在である。それは、最高戦力であるハーミットも例外ではない。再生産したものがハーミットと同等の性能になる保証はないにせよ、限りなく近い性能を持たせる事はできるという確信がアルカナ機関にはあった。
そもそも、アルカナ機関にとって、ハーミットが最高戦力になったのはあくまでも“嬉しい誤算”に過ぎない。彼らにとって、本命だったのはハーミットよりも後に生産した強化人間であり、それらは着実に実績を積み上げている。その中で、未だに最新の生体部品にも劣らぬ性能を発揮し続けるハーミットはあくまでも“異常個体”とも言えた。故に傭兵事業においては間違いなく最高戦力であり、一番の稼ぎ頭ではあるものの、アルカナ機関にとっての本命たる強化人間の研究という分野においては、厄介な存在でもあった。
「ところで、ウィンザー主任は結局のところ、どう致しましょう。仮にも脱走者ですし」
話が逸れて来た、と感じたこの場にいる一人がそう発言すると、「そう言えばその件だったな」と、代表と呼ばれた男は返す。元々はウィンザー主任と彼女が持ち出した生体部品についての会議であった事を思い出す。ハーミットの件は、その持ち出された生体部品について話している際に脱線した内容に過ぎない。「すまないな」と脱線した事を謝りながら彼は僅かに考える素振りを見せて、口を開く。
「とりあえず、だ。ウィンザー主任は泳がせておけ。彼女を拾った組織を叩き潰せば良い」
導き出された答えは極めて単純。“脱走者に例外はない”というものだった。あくまでも奪取された生体部品であるフールは兎も角、シンシア・ウィンザーは自身の意志で脱走を実施したアルカナ機関にとっての裏切り者である事に間違いない。時間をかけて、大義名分を得てから叩き潰す――それが、アルカナ機関の決定だった。
同刻某所。
とてつもない衝撃で、フールは目を覚ました。
ICTLによってアルカナ機関からとてつもない勢いで射出された事を思い出す。どうやら射出の際に気を失い、着陸の衝撃で目が覚めたらしい、という認識に至った。フール自身は知る由もないが、強化人間は戦闘中のGに耐えられるように設計されていても、機体に大ダメージを負うような衝撃に対する耐久力は低く設定されている。だが、フールの四肢は無事に動き、身体を捻って後ろを向き後部座席にいるシンシアの様子を窺う。
先程までのフールと同様、意識を失っているようだったが、「うっ……」とうめき声がフールの耳に届く。ぴくり、とシンシアの身体が動いたかと思うと、眼がゆっくりと開かれた。
「……無事?」
彼女の第一声は、少年を気遣う言葉だった。その言葉に、フールは「はい」と答える。簡潔過ぎる返答に彼女は数瞬だけ考え混む素振りをしたが、心の底から安堵したのか柔和な笑顔で「なら、よかった」と返し、前部座席の背もたれごとフールを抱きしめる。彼女の突然の行為、フールは戸惑いを隠せない。
身動きがとれない上、触られる。生み出されて初めて、他人との直接接触を経験したのである。それは、母が我が子を抱きしめるようなものだったが、フールはそれを知らない。この行為にどのような意味があるのかを、フールはまだ知らない。ただただ、戸惑う事しかできず、あたふたしていると、シンシアもそれに気づいて「あ、ごめんね」と言って離れる。そして、誤魔化すように後部座席の画面を操作し始める。
「……うん、ICTLの射出予定地点に無事に到着している、かな」
フールとハーミットの戦闘中、ICTLの制御システムにアクセスした事で奇想天外な脱出を成功させたシンシアだったが、その僅かな時間で射出先を確りと指定していた。仮にアルカナ機関と深い関係にある陣営の領域に落下しようものなら、あっという間にアルカナ機関に引き渡されてしまう。それだけは避けなくてはいけなかったからだ。その為、シンシアはある地点を射出先に指定していた。
「――“世界独立傭兵組合(WIMU)”。ここなら、私達を受け入れてくれる」
世界中のありとあらゆる陣営から一定の距離を保ち続ける絶対中立。それがWIMUと呼ばれる傭兵たちの集まりだった。清暦以前から知られる傭兵国家を母体としている事から、他の陣営からは安易に手を出せない。WIMUを攻撃するという事は、WIMUと繋がりのある他全ての陣営を敵に回すという事に他ならない。アルカナ機関から脱走して来た二人にとって、暫くの間身を置く場所にこれ以上適した場所はなかった。
「ここでお金を稼いで身分を得れば、あなたでも平穏な生活を手に入れられる筈」
身分、と言われても彼にはピンとこない。だが、あまりにも重要な事だった。フールはアルカナ機関の生体部品であるため、身分をそもそも持っていない。身分すら持たないものにできる事はあまりにも限られている。その中の一つが、“傭兵”だった。無論、彼にこれ以上戦わせるという事実はシンシアにとっては苦しいものだが、人間らしい生活を送る為にはやはり資金が必要だった。彼女が一人で稼いだり、貯金を崩す事も考えたが、シンシア自身もアルカナ機関から逃げて来た身。二人分の身分を稼ぐとなれば、フールが傭兵になるというのが最適だった。
「――そう言えば、“フール(愚者)”って呼ぶのも体裁が悪いし、別の呼び方にしようと思うんだけど、何か案はある?」
そう問われた所で、フールには何もわからない。フールと呼ばれる事に対し何ら抵抗もないし、別の呼び方と言われた所で候補が思いつくわけでもない。きょとん、と首を傾げるのみだ。その様子に、うーん、とシンシアは考え込む。
「一応は、アルカナ機関からは身を隠したいし、私も含めて呼び方は変えておきたいけど――まあ、一旦は簡易的なコールサインだけ決めましょうか。ちゃんとした名前は、身分を得る時にまた考えましょう」
そう言って、再び少しだけ考え混む素振りを見せてから、彼女は言った。
「“ゼロ”。あなたは“ゼロ”。これからそう呼ぶ事にする。私達はこれから、その次にある“一”を勝ち取るのよ」
――それは奇しくも、とある世界のゲーム、“ルート・ゼロ”のストーリーモードに於ける、どのような陣営で始めてどのような分岐を進んだとしても呼ばれ続けるコールサインと同じものだった。
【TIPS】
Jailbreak prevention
直訳通りの意味で、『脱獄阻止』。脱走だけど似たようなもの。阻止できてない? それはそう。
真迅(機体名)
要するに防御力を犠牲にして並程度の攻撃力と、高水準な機動力を実現したピーキーな機体。
作中ではハーミットが頑張っているから目立たないが、防御力の薄さはかなりの痛手。結果的に生産数は伸びていない。
位置づけとしては試験運用機なので、それも計画通りと言えばそう。それで戦い続けているハーミットが異常。
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次話、閑話
EX001/【祝大型アプデ】ルート・ゼロver.2.0やるぞ!#1【湾内犬斗/バーチャル配信者】
2025/01/26投稿予定