(九)
「雨がやんだのう」
雨の音に耳をかたむけていた犬山狂節が、誰に話しかけるでもなく、言葉を口にする。
昨夜の風魔の里の襲撃後、八犬士は小田原城下からは離れたところにある、朽ち果てた堂に身を潜めていた。朝から雨が降りだしてしまったので、すぐには動けず、いまも外に出ずに体を休めている。
昨夜の風魔の里の襲撃は、残念ながら成功とは言えなかった。一番の標的だった風魔小太郎が不在であり、里の主力であろう者たちも揃って不在。こちらの手の内を知られる前に、小田原攻略の障害になりそうな者たちを排除しておきたかったのだが、そう事は上手く運ばないらしい。
やはり、行動を起こすには少しばかり情報と時間が足りなかった。
これまで一ヶ所に押し込められていた犬八家に情報収集をすることなど不可能であり、幼少期に屋敷から出されていた|生野は呪言の完成にかりきり。北条の様子を探る暇などあろうはずもない。彼らが所持していたのは、協力者からもたらされたわずかな情報のみ。
今回、ようやく八犬家代表の八人が屋敷を抜け出し、海を渡って相模に入ったわけだが、すでに彼らには諜報活動に力をさく時間は残されていない。とてもではないが、乱波の集団風魔衆の動向を監視したり、小太郎や里の主力が戻るのを待つことなどできなかった。姿を消す呪言を持つお礼が、申し訳程度に敵方に探りをいれる程度のことが精一杯。
「それでは、行くとするかの」
狂節が杖をささえに立ち上がった。
「夜が明けてからでもいいんじゃないかい。まだ安兵衛も戻ってきてないしさ」
お礼の言葉に狂節は寂しそうに首を振る。
「わしも死ぬ前に、犬江の坊主の声を聞きたかったがのう。どうやら、今夜が限界のようじゃ。お前たちのそばで死ぬわけにはいかぬ」
彼が戸の前に立つと、他の六人が立ち上がった。狂節は彼らに背を向けたまま言葉をかける。
「お前たちには本当に辛い思いをさせてしまった。すべてはわしら三代目の責任。それをお前たちにまで背負わせてしまった。悔やんでも悔やみきれん。謝っても謝りきれん」
小三治が噛みつくように言葉を返す。
「爺さんたちのせいじゃねぇ。爺さんたちも爺さんの爺さんたちも、俺たちも、ただ家族が大事で、家族を守ろうとしただけだ」
狂節はうむと短く答え、戸をあける。雨の音で埋め尽くされていた世界は、今は虫の音でいっぱいだった。虫の音に誘われるように、一歩また一歩と歩みを進める。
「じ、爺ぢゃん」
吉乃がたまりかねたように大きな声をあげる。
「ぎ、ぎをづけて」
吉乃にかけられた言葉に、彼の表情が和らいだ。死ぬために小田原へ行こうとする自分にふさわしい言葉ではない。だが、それだけに裏表のない若者の気持ちが真っ直ぐに伝わってくる。
「ありがとうよ。お前達も達者でな」
これもまた、すでに命を捨てている六人にはふさわしくない言葉ではある。ただそうだとしても、これが狂節の偽らざる本音。
六人に見送られ、杖を頼りに小田原城下をゆっくりと目指す。
他の八犬士と別れ、一人歩く彼の胸に様々な思いが去来する。
遡ること四十年ほど前。里見家は義成の嫡子義道からその子義豊の時代となり、八犬家は義道の弟実堯の配下としてそれぞれ城を預かる立場にあった。
初代八犬士たちは、すでに家督を子供たちに譲り、富山と呼ばれる地に庵を築き隠棲し、実堯に仕えていたのは、彼らの子供である二代目八犬士。
その彼らが、直属の主である実堯と里見家の当主たる義豊の不仲を不安に感じ、初代たちの庵を訪ねたことが、現在の八犬家の受難の発端となったといえる。
訪れた子息に、初代八犬士の中でも随一の策士であった犬坂毛野胤智は言った。
「先君の威光はすでに衰え、いままさに内乱が起きようとしている。実堯様と義豊様を諫めようと思うたが、すでに隠居して久しい身。実堯様のもとに行くのも時が経ち過ぎやぶさかであるし、義豊様も賢明とは言い難いお方。諫めてもお聞きになるとも思えん。むしろ諫めた我らの命が危うい。危うき所には近づかず、乱れる国にはいない方がよい。故に我らは他の山に移る。お前達も我らと共に、他の地へと移ろうぞ」
他の八犬士も各々の我が子に口々に言う。
「お前たちが迷い、今の職と禄を惜しんで、里見家を去らずに揃って居続ければ、必ずや我らの名を貶める事態になる。速やかに去るべきである」
そう説き伏せたのである。
二代目八犬士は初代の助言に従い、全員病を偽り、実堯からそれぞれ五千貫文ずつ与えられたうえで暇を許された。
そうして彼らは家族を連れて、里見家を去ったのである。
天文二年、里見義道の後を継いだ義豊は、水軍を率いる正木通綱を配下とし、北条氏綱とも誼を通じて力をつけていた、里見実堯を稲村城に呼び寄せ、通綱共々殺害する。
義豊はそのまま金谷城にいた実堯の子である義堯を攻撃したが、義堯は氏綱の支援を受け反撃を開始。翌天文三年には遂に義豊を打ち破り、里見家の家督をその手中におさめた。
その年のうちに、関東での覇権争いのため、一時は力を借りた氏綱と敵対することとなった義堯は、この争いに勝利するため、新たに強き力を求める。
義堯は思い出した。かつて、父に仕えた尋常ならざる実力を持った者たちの存在を。
その者たちの名は八犬士。
彼らの力があれば、関東に覇をとなえるのも可能なのではないか。義堯はそう考えた。義堯は彼らを探させ、遂に二代目の八犬士を探しだすことに成功する。
二代目は老いを理由に出仕を断ったが、彼らの息子三代目八犬士を代わりに仕えさせることを約束。義堯は各々知行五千貫文を与え、大兵頭として三代目八犬士を召し抱えた。
狂節を含む三代目八犬士は、すぐに上総の真里谷武田氏との戦に参加する。
彼らは、これまでその力の発揮しどころがなかった鬱憤を晴らすかのように暴れまわり、その戦いぶりは、誰にも初陣であることを感じさせなかった。
策をたてれば変幻自在に敵を翻弄し、刃を振るえば一刀で敵を屠り、軍を率いればやすやすと敵を蹴散らし、兵と交われば巧みに心を掴む。慈悲深きその心根は、他の武士たちからも愛され、召し抱えられてふた月もしない間に、里見家に大きな影響を及ぼす。
義堯は恐怖する。八犬士の有能さは義堯の想像をはるかに超えていたのだ。義堯が恐れたのは彼らの能力ばかりではない。義堯は彼らの血をも恐れたのである。彼らがひいていたのは八犬士の血だけではなかったのだ。恐るべきことに、彼らには里見家の血までもが流れていたのである。
義堯にとって祖父にあたる安房里見家二代目義成は、初代八犬士の多大な功績を認め、八人いた姫をそれぞれに嫁がせた。そして、八犬士と彼女たちの間に生まれたのが、狂節らの父、二代目八犬士である。
義堯は自身の歩んできた道のりを思い出す。義堯は本来里見家の当主にはなりえなかった。安房里見家初代義実から当主は、義成、義道、義豊と続く。父の実堯は義成の次男である。里見家の城をひとつ与えられ、一地方を任せられる存在でしかなかった。だが、実堯も息子である義堯もそれを不満に思っていたのである。
その事実を、風魔衆に里見家を探らせていた氏綱が掴んだ。不満を持つ親子に氏綱は巧みに接近し、実堯・義堯親子は氏綱の誘いにのる。
その情報を掴んだ義豊が、内乱を事前に防ぐ為に実堯を殺害し、義堯のいる金谷城に攻め入る準備をしていると聞いたとき、義堯の心に最初に沸いた感情は、父を失った悲しみや義豊に対する怒りではなかった。
歓喜。
父と自分が先に兵をあげれば、家督欲しさの反乱という汚名は避けられない。それでは戦に勝利したとしても、己の名に傷がつく。だが、義豊が実堯を殺害してくれたことで、義豊と戦う大義名分を義堯は手にいれることができた。仇討という名の口実を。
ただ戦に勝てねば義豊に謀叛人に仕立て上げられるのは明白。戦には勝たねばならない。勝算は充分にある。そのための氏綱との盟約である。たとえ里見家と古くから争ってきた北条家の力を借りたとしても、戦に勝ちさえすれば取り繕うことはできる。正当な理由を得たのなら、多少事実を捻じ曲げさえすれば、家名に傷をつけることはない。なぜなら自分は間違いなく里見家の血を受け継いでいるのだから。
だが、そうやって手にした当主の座から、三代目八犬士を見ると、彼らにも同じことが言えるのではないかと不安を覚えずにはいられない。
母方とはいえ、義成の血をひき、伝説ともなっている祖父たちに劣らぬ実力を持つ。さらには臣民からの人気もうなぎのぼりの八犬士。
そして義堯は、義豊から家督を奪うのに利用した北条を、将軍家の血をひく名門小弓公方の味方をすることを口実にあっさりと裏切った。義堯という里見家の中の味方を失った北条が、今度は義堯と同じ里見家の血をひく八犬士と手を組まないと誰に言えよう。
八犬士は危険だ。だからといって、人気の高まっている彼らを理由もなしに排除はできない。罪を無から作るのは難しい、なにかひとつ、ほんの些細なことでよいから理由が欲しい。なにか口実は、よい口実はないか。
義堯は初代八犬士達がいたころからの里見家の目録を片っ端から調べさせると同時に、情報を商品とする者から初代八犬士達の隠棲してからの知りえる限りのことを買い取った。そして遂に見つける。
義堯は八犬士が何度目かの戦に勝利したあと、八犬士全員を金谷城へと呼び出す。褒美として宴会を催し、食事に眠り薬をいれ、寝ている間に武器を奪って縛りあげた。
目を覚ました狂節ら三代目八犬士は、事の成り行きに頭がまったくついていかない。戸惑いを隠せない八犬士に義堯は言う。反乱を企てた罪でお前たちを罰すると。
驚いた八犬士は口々に、反逆の意志などない、反乱を企てたりなどしていないと申し開きをした。
ところが義堯ははっきりと言う。いいやしたと。お前たち個人ではない。八犬家そのものが、里見家に対し弓を引いていたではないかと。
首を捻る三代目八犬士に、義堯は八犬家が里見家に反乱を企てたという論拠をとうとうと語る。
初代八犬士の代より、我が父実堯から恩を賜っておきながら、初代八犬士は実堯の救援に来るどころか、二代目八犬士と謀り、人の良い父相手に病と偽らせ、八犬家合わせて四万貫を騙し取ったうえで、他国へと逃亡させた。二代目八犬士は、その身に貴き里見の血を宿しておりながら、里見家分裂の危機に傍観するという悪手をとる。これは我ら親子と義豊の共倒れを狙い、あわよくば八犬家が里見家を乗っ取らんと企てていたこと明白。その思惑は儂の力で脆くも潰えたが、今度はお前たちが儂に召し抱えられたのをいいことに、将兵に媚を売り、八犬家の陣営に組み入れんとの策謀お見通しである……と。
自身の言いたいことだけを言いきり、暗い笑みを見せる義堯を見て、狂節を含む三代目八犬士は、これが逃れようのない罪であることを悟った。
あれから三十年。義堯が課した八犬家への罰は一族全員の監禁生活。死罪にしなかったのは、八犬士についてまわる、『呪い』を恐れてのものであろう。三代目たちは、この理不尽とも言える刑罰に対し、耐えるという選択肢を選ぶ。義堯の言ったことはあながち間違ってもいないと感じてしまったが故に。ただ、そのせいで罪のない家族には苦労を強いてしまった。
本来なら、今の立場から脱却するのは、三代目の力で成し遂げたかったが、義堯の八犬家への怒り、いや恐怖は彼らの想像以上に根深く、家督を義弘に譲った今も監視の目が緩まない。
もしかしたら、義堯が死ねば八犬家が解放される時がくるのかもしれない。だが、義堯の恐怖は死してなお呪いとして残る。かつて死してなお里見家に呪いを残した玉梓のように。
呪いの力が恐るべきものであることを、八犬家は初代より語り継ぎ、嫌という程知っている。呪いは黙って待っていても消えてはくれない。己の力で打ち破るほかないのだ。
一族の期待を背負い、一年半ほど前に八犬家へと帰還した生野が持ち帰りし力、呪言。この力に、今日まで耐えきれた三代目は狂節一人のみ。他の八犬家は四代目すらも耐えきれず、一族の未来はまだ若き五代目に託された。彼だけが息子と孫のどちらも死なせぬ可能性を残せたことを考えると、狂節は他の三代目たちに申し訳なさを禁じ得ない。なによりも共に海を渡った、本来であれば未来があったはずの五代目たちのことを思うと、胸が締めつけられる。
小田原へと続く街道を、杖をつきつつ進んでいた狂節は物思いを中断した。彼の鋭敏な耳が、不自然な音を捉える。
息を殺した呼吸音、風が揺らすのとは違うわずかに木立の揺れる音。
上だ。街道の脇の木の上に誰かいる。必死に気配を隠そうとしているが、胸の底にたまった怒りの感情が、殺気となってにじみでている。
「風魔か」
狂節が呟くと、はっきりと木立が揺れる。
「見つけたぞ。その風体。昨日、里を襲いやがった八犬士の一人だな」
少年の声だ。まだ声変りも済ませていない甲高い声。
「いかにも、わしは八犬士が一人、犬山狂節。お主のような子供がでてくるとは、風魔も人手不足か」
狂節の言葉に、風魔の少年は木立を激しく揺らす。
「うるさい。餓鬼扱いするな。俺は昨日お前らを探し回っていて里にいなかったんだ。俺がいればお前らなんかに好きにさせたものか」
風魔の少年が刀を抜く。
「わしは小田原の城下に用がある。邪魔するというならば、子供でも容赦はできぬ」
風魔の襲撃は全員が同行はしていたが、小太郎が不在であったため、生野が小太郎屋敷を焼き払うに留めた。別に戦闘員よりも非戦闘員の多かった風魔に情けをかけたわけではない。八犬士の命には限りがある。呪言の力は彼らに人知を超える力をもたらしたが、その力が身体に与える負担は大きい。小田原攻めの前に無駄遣いはできなかった。
「黙れ。偉そうなことを言うな」
風魔の少年が木から飛び降り、姿勢を崩すこともなく着地すると、一気に距離を詰め、狂節に斬りかかる。
狂節は少年のそんな見事な動きに慌てることなく、無造作に杖を横に振るった。
「いたっ」
狂節の杖が少年の手をしたたかに打つ。少年は刀を取り落し、足も止まる。
対して狂節の杖は止まることなく少年の喉をついた。たまらず、少年がのどを抑えて倒れると、狂節はすかさず少年の後頭部に杖を振るおうとしたが、その動きを途中でとめ、杖を顔の前にかざした。
カッカッカッ。
乾いた音がして狂節の杖に八方手裏剣が三つ刺さった。
狂節が大きく飛び退くと、先程まで狂節が立っていた場所を八方手裏剣が通過していく。
「馬鹿が。我らを待てと言っておいたではないか。よいか二人とも、そやつを目の見えぬじじいと侮るな。八犬士といえば、かつて里見の安房の統一に貢献した剛の者たち。現にそ奴らは一昨日に北条の軍勢を退け、昨日は我らの里で好き放題に暴れたのだ」
「承知いたしました。目の見えぬじじいということは、こやつですね。虫を使って病を振りまいているかもしれぬというのは」
「そうか、こいつか。準備します」
三人の新手の声を聞き狂節は思案する。一人は壮年の声。残りの二人は若い。歳は倒れている少年の少し上ぐらいか。若者の一人はこう言った。『虫を使って病を振りまいている』と。狂節が『呪言』の力を用いたのは一昨日の一度きり。昨日は寄って来た風魔衆を今さっきのように杖で打ち据えただけである。一昨日の生き残りの武者があの夜のことを伝えたとしても、あの一度きりで自分の呪言の仕組みを理解できたと言うのか。
(敵に生野に匹敵する知恵者がいるか。ありえん話ではないが……)
まぁいいと狂節は開き直る。仕組みがわかったところでそうそう対応などできるものではない。狂節が右眼の眼窩に住まわせている病を媒介させる蚊の数は三匹。いっぺんに殺すのは難しかろうし、仮に手でつぶせばそれが病の伝達となる。自分が死んでも病は残る。狂節自身の役目は小田原を攻めることではなく、小田原に混乱をひき起こすことであるからなんの問題もない。それにと彼はにんまりと笑う。
(わしが死ねば、わしは確実に小田原にたどり着く)
「我、貫く忠は、我が命より発す」
瞼の下の半珠が輝きだすと同時に狂節は右目を開ける。『発』の文字を浮かびあがらせた半珠が静かに地面に落ち、夜道を照らす。
ぷ~ん、ぷ~ん、ぷ~ん。
狂節にとっては聞きなれた羽虫の羽音が、新手の風魔衆へと向かっていく。
ふと、狂節の鼻が嗅ぎなれない匂いを嗅ぎつけた。何かが燃える臭いに混じって、気持ちを和らげる香のような匂いがする。
狂節が匂いに気をとられたのもつかの間、耳が異変を感じ取った。蚊の羽音が聞こえなくなったのだ。嫌な予感が脳裏をかすめ、狂節は落ちた『発』の半珠をすぐさま拾い上げ、右の眼窩の前で振るう。
おかしいと狂節が唸る。本来ならこれで戻ってくるはずの蚊が戻ってこない。何度も試すが羽音すら聞こえない。
狂節の様子を見ていた壮年の風魔衆が高笑いする。
「ふはははは、驚いたか。きさまの術など我ら風魔にかかれば他愛もない。お主が一昨日小田原にまいた病も、すでに治まっておるぞ」
狂節の半珠を振る手がとまった。いま聞かされたことは、狂節にとっては予想外である。お礼の姿を消す呪言も乱発はできないので、小田原城下の様子は確認ができていないが、病が広がっていることを狂節は確信していた。それほど狂節の生野の生み出した呪言に対する信頼は強い。
風魔衆の言葉の意味を考えるに、一度は拡まったことは間違いない。狂節の呪言によって強化された病は、時間とともに消えるものではない。生物がいる限り、拡がっていくものだと生野から説明を受けている。
つまり誰かが対処したのだ。対処したとなれば医者ではあろうが、並の医者では自身も感染し、自らが感染経路の一つになるのが関の山であるはず。さらには夜の帳の中で小さな羽虫を殺すことにも、彼らは成功したらしい。
三人の風魔衆が狂節を囲み、三方向から間合いをつめてくる。狂節は彼らの足音が近づいてくるのを、立ち尽くしたまま黙って聞いていた。
抵抗をまったくみせない狂節の体に、三本の刃が深々と刺さる。狂節の手から『発』の半珠がポロリと零れる。
「見事なり、風魔。だが、まだ終わらぬぞ」
狂節が左目の瞼をあげる。三人の風魔の目が、現れた『忠』の半珠に釘づけになった。
「我、貫く忠は、我が命より発す」
呪言の重ねがけ。『忠』の半珠の輝きがさらに増す。
狂節の右眼に嵌っていた『発』の半珠は、人を死においやる病を持つ蚊を操るだけではなく、体内での活動を抑える力も有していた。この『忠』の半珠もまた、狂節の体に住むある虫の力を強め、逆に体の中では抑える働きをしているのである。
「死してなお恐ろしい、八犬士の牙を受けるがよい」
左眼から『忠』の半珠が抜け落ち、両眼を失った狂節の首が、がくりと傾いた。